第三話 恨まれ者
丸一日、飲み食いもせずに牢屋の中で過ごした。彼らにとって俺の体調など関係ないらしく、飲食物の類は誰も用意してくれなかったのだ。
また、服もはぎ取られたままだ。一日中素っ裸のまま、替えの服なども用意されていない。
ガラスの取り付けられていない窓からは、夜中とても冷たい風が吹き込んできた。もう、この場所で死ぬのかと思ったほどだ。
だが、それは耐えられない。珊瑚と幸せな家庭を築くまでは、俺は死にたくないのだ。願わくば、多くの家族に囲まれ愛されたまま死にたい。
そんな当然の欲求すら、この場所では叶えられないのだ。
一畳もないこの部屋では、足を伸ばして寝ることもできない。まして、粗悪な牢屋であるこの場所にベッドなどあるはずもなく、むき出しの平たい石の上で寝ていた。
身体が休まるはずがない。骨まで痛みが染み入っているのを感じる。
また、排泄物の類も管理などされていない。壁にある穴へと垂れ流すだけで、それも深い穴ではない。この場所まで悪臭は漂ってきて、衛生管理などとはほど遠い環境だ。
尻が痛い。肩が痛い。背が痛い頭が痛い。身体のいたるところが軋みを上げ、また劣悪な環境ゆえに吐き気や痺れが俺を襲う。
いったいいつまで、この場所にいれば良いんだろうか。まさか、死ぬまでだろうか。
そんなことを考えていると、昨日俺をここに連れてきた男の内一人が、牢屋の前に立っていることに気付いた。
逆に言えば、それすら気付けないほど、俺は弱っていたのだ。
そうだ、全てこの男が悪い。あの時助けなど求めず、限界まで達していた体力を振り絞って逃げていれば、こんなことにはならなかっただろう。
あの時の後悔とこの男への憤りで、俺の頭は支配されようとしていた。
ゆっくりと、男はカギを開ける。食事や飲み水を持っている様子はない。
しかし、そんなことはもうどうでも良かった。一晩待たされるのも、一時間待たされるのも同じことだ。今の俺に、一分一秒など考える必要もない。
あるのはただひとつ、この男をぶっ殺してここから脱出する。そして珊瑚を見つけ出す。もしかしたら、彼女も近くにいるかもしれないのだ。
いや、いて欲しくはない。こんな物騒な場所に。彼女があのまま、船員たちとともに本島までたどり着けたことを願うばかりだ。
こんなに治安の悪い国だ。人を殺したところで、隠ぺいするのは簡単だろう。それに、日本の裁判なら正当防衛が適用されるはずだ。彼らは俺を監禁し、あまつさえ最低限度の生活すら与えなかったのだから。
扉を開いた男に対して、俺は渾身の拳を放った。躊躇いは一切ない。この男を打倒するのに、どうして躊躇う必要などあろうか。俺の幸せを奪った罪は重たい。
顎を狙い、個人的にも最速と言えるその拳は、どういうわけかヒラリと躱されてしまった。しかし、それで諦める俺ではない。続いて右に左にと何度も拳を放つ。
珊瑚の無事を思えば、俺の身体の疲労や軋みなど簡単に無視することができた。彼女が俺の心にある限り、俺はいつまでも戦うことができる。
……だが、またもその全てがあっさり躱されてしまった。
おかしい。俺はこれでも体格の大きな方で、喧嘩などはあまりしたことがないが、それでもある程度一般的なレベルよりも実力があると自負していた。
それが、こんな低俗な男にすら通用しないなんて。
「ハハハ! ……――……――!」
何と言っているのかは分からない。しかし、笑い方は日本人と同じなのだ。
きっと俺は今、これでもかというほど侮辱されているのだろう。悔しくてたまらない。こんな理不尽に、俺はどうすることもできないのか。俺はただ、この理不尽に屈するのか。
ひとしきり笑った男は、お返しと言わんばかりに俺の頬を殴りつけた。
それは、もう痛みとすら呼べなかった。俺の常識を激変させたのだ。
奴の拳は重く、硬く、そして速い。喰らった頬は腫れるというレベルを通り越し、顎の骨が一部砕けて歯も五本程度折れてしまった。
脳を激震させるその拳一撃によって、俺はその場に倒れこんでしまう。
こんな理不尽があってたまるか。こんな不条理が許されてなるものか。
心の内に男への反逆を誓いながらも、俺の意識は着実に遠のいていく。それは、もう掴み取ることなど出来ないほどに。
気が付くと俺は、訳の分からない場所に立たされていた。
頭の上には雲一つないド快晴。足元は平坦で広大な石造り。周囲にはこれまた石造りの壁と、その上には大勢の人が座っている。目の前には俺と同じ格好の青年が一人。
つまるところ、ここは闘技場だ。
世界史の教科書やアニメで見るような、1000年以上も昔の文化。そんなものが、未だにこうして蔓延っている。この国は、いったいなんなんだ。
いや、聞いたことがあるな。
確かフィリピンだかどっかの国では、かなり最近まで闘鶏をやっていたんだ。このような会場で鶏同士を戦わせる競技。それに、犬や獣など多くの競技が世界中に存在する。
まさか、現代になって人間同士の戦いが再び流行に乗ったのだろうか。
だとしても、選手が素っ裸というのはどうにかならないのか。
俺も青年も、お互いチンコ丸出しの状態だ。こんな極限状態で、もう恥ずかしいという感情を出すのすら億劫だが、せめて最低限パンツは履かせてほしかった。
それに、情熱的で心躍る試合を見たいのなら、選手は厳選するべきだろう。
漂流して疲れ切った、一発殴られれば意識を失うような選手など使わない方がいい。まして、俺はさっき男の拳を喰らって顔面がぐちゃぐちゃなのだ。
「……――……! ――……! クロノーーーー!!」
見合っていると、会場の何処からかとても大きな声が聞こえてきた。
マイクや拡声器を使っている様子ではなく、完全な生の声である。やはり前時代的だ。
青年は、クロノという名前なのか。言葉の意味なんて分からないが、雰囲気で名前だけは聞き取ることが出来た。
俺と対峙する彼も、随分限界な様子である。
身体はやせ細っていて、とても格闘技が出来るような体形ではない。身長はそこそこあるが、筋力が足りないだろう。食事をまともに取れていない証拠だ。
「――……――! ……――! ジャックーーーー!!」
どうやら俺の名前は、仮に『ジャック』となっているらしい。
恐らくはこの国で最も一般的な名前なのだろう。日本で言えば『太郎』とかその辺。もしくは一般人を現す単語とか、そういう奴だ。
会場からは大歓声が上がっている。俺はまったくの無名だが、クロノはある程度名の知られた格闘家なのだろうか。でなければ、会場の盛り上がりがここまでになるはずはない。
「……――……――……――。……――。――……――……――……――……!!」
司会者が大きな声で何やら言っている。その瞬間、会場の雰囲気がまた盛り上がった。
そして一番衝撃を受けているのは、俺の目の前に立つクロノである。今にも俺を殺さんという雰囲気を漂わせていた。
いったい、司会者は皆に何を言ったのだろうか。俺にはまったく分からなかった。
まして、こんな未開の地に住む人に恨みを買うようなことなど、一度もしたことはない。身に覚えがあるはずないのだ。
しかし無慈悲にも、試合開始の掛け声が上がる。昨日今日の出来事で一歩も動けないでいた俺は、その音にすら何の反応も出来ないでいた。
対してクロノは、やせ細った拳を硬く握り、俺へと近づいてくる。訳の分からないまま、訳の分からない勝負が始まってしまった……。
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