第二話 理不尽な異世界

 鼻につくのは、深い潮の香り。喉を焼く塩味と強烈なにおいが、俺の意識を覚醒させていく。


 腹は水でパンパンに膨れ上がっているのに、俺の喉はカラカラに渇いて仕方がなかった。海水の塩分にやられたのだろう。


 青を基調としたさわやかな春服も、海水で水浸しになり、肌に張り付いて鬱陶しい。


 髪も水分を吸っているし、砂にまみれた身体はとても重苦しく感じた。それもそうだろう、ずっと海中にいたのだから。


 それに、春とは言えまだ気温は低い。どの程度海で漂流していたのかは分からないが、一度夜を超えたのだろうか。とてつもなく身体が冷えている。このままでは少し危険な状態だろう。


 持ち物は何も残っていない。当然だ。船が沈没しかけていた際、持ち物は全て船内の部屋に置いてきた。


 携帯電話や財布は持ち歩いていたが、どうやら海に入った時に落としたらしいな。ポケットの中には砂が敷き詰められているだけだった。


「というか、あの状況でよく無事に浜まで辿り着けたな。本当ならあのまま死んでいたはずだ」


 日本海に沈んでからの記憶が曖昧だ。それもそうか。息をほとんど吐ききって窒息していたのだから、あのときに俺は意識を失っていたのだ。記憶がなくて当然である。


 何かを、忘れている気がする。いや、その何かを、意図的に思い出さないようにしているのか? あの時俺の身に何が起こったのか、上手く思い出すことができなかった。


 冷静だ。海の中を漂流したというのに、俺の頭は非常に冷静だ。自分が生き残るための思考があふれ出てくる。それ以外の、大切にしていた何かは、それが何だったかすら思い出せないのに。


 息を吐ききって、しかもこんなに海水を飲み込んでいて、人体は水面まで浮上できるのか?


 あんなに深いところまで沈み込んだ後に、果たして流れのまま島に辿り着くことはできるのか?


 疑問は尽きない。しかし、考えても仕方がないだろう。実際に俺は生きている。海に関する専門的知識なんか俺にあるはずもないし、朦朧とした頭を働かせても正解に辿り着けるはずはない。無意味だ。


「まずは、この状況を確認するところからだな。日本海から浜に辿り着いたということは、日本本島の沿岸だろうか。それとも目的地の離島か? まさか、韓国や中国に流されたということはないだろう。流石に距離がありすぎる」


 重たい身体を必死に起こして、周囲を見渡してみる。


 とてつもなく汚い浜だ。流木や難破船の類がいたるところに見受けられた。少なくとも目的地の島ではないだろう。


 あそこは観光スポットとして有名で、浜はある程度人の手が加えられ管理されている。ここまで汚くはない。


 しかし不思議なことに、プラスチックやビニールの類は見当たらないのだ。


 今の時代、管理されていない浜辺には必ずと言っていいほどペットボトルだのビニール袋だのが漂流している。それが一切ないのは、不自然であった。


 海側から視線を後ろに向けると、そこは鬱蒼とした森が広がっている。民家のようなものや、まして海を管理する、関所のようなものは見当たらない。これもまた不気味なものであった。


 近くにある流木を支えにして立ち上がると、遠くの方に人影が見える。それも複数人。


「良かった。民家が見当たらないから、人のいない地域に漂流したのかと思った。取り敢えず、あの人たちに救助してもらおう。長い時間漂流していたはずだから、念のために救急車も呼んでもらうか。いや、その前に現在地を……」


 俺が声を上げて彼らを呼ぼうとすると、向こうからこちらに駆け寄ってきた。


 恐らく、杖を突く俺の様子から察してくれたのだろう。助かる。今の俺に、大声を出すほどの体力は残っていなかった。


 彼らは俺の傍まで集まってきて、うち青年二人が無言で両肩を支えてくれる。

 とてもどっしりとした肩だ。相当鍛えているのだろうな。


 駆け寄った男たちをよくよく見てみると、どれも先進国とは思えない連中だった。


 腰には瓢箪を下げ、アジア人を思わせる平坦な顔には汚らしいニキビに膿。整えられていない粗雑な髭を生やしている。


 皆制服のようなものを着ているが、とても粗末なものだ。服装が統一されているだけ。特に意匠が凝っているということはない。


「助かりました。すいませんが、救急車を呼んでもらえますか? 体調が凄く悪くて……。海の中を長い時間漂流していたみたいです。それと、現在地も教えてもらえますか? 自分は〇〇県で事故に遭ったのですが……」


「――……――……! ……――……。――……――……!」


「……――……! ――……――……――……。……――」


 !? いったい、彼らはなんと言ったんだ? 少なくとも、俺の知る日本語ではなかった。一瞬方言の類かとも思ったが、それにしては俺の知る単語がなさすぎる。


 まさか、本当に海外まで漂流してしまったというのか?


 いや、それではおかしい。距離的に、日本から海外まで一夜やそこらで辿り着くはずはないのだ。人間のスケールでは、日本海はあまりに大きい。


 訳の分からない言葉を話す彼らに混乱しつつも、俺は肩を支えてもらって歩き出した。


 何処に連れていかれるのか、これから何をされるのか、それすらも分からない。言語の壁というのは、この極限状態においてとてつもなく高いものに感じられた。


 強い語調で俺を責め立てているのだろうか。それとも、大声を出して俺が意識を失わないように気を遣ってくれているのだろうか。それすらも、俺にはわからない。


 重たい身体を引きずりながらも、彼らに導かれるまま俺は森に入っていく。

 体力の限界も近く木の根につまずくと、それだけで叱咤される。


 ……どうやら、この男たちは俺を気遣っているわけではないらしい。むしろ、俺を非難している様子だ。いったい、俺の言動の何がそんなに彼らを怒らせてしまったのだろうか。


 少し歩みを止めるたびに、足首を蹴り上げられる。漂流中に靴を失くした俺に、革製のブーツで繰り出される蹴りは非常に重たかった。


 それに、彼らは全員相当身体を鍛えている様子だ。俺もそこそこ大柄な方だが、それでも俺の肩を担ぐ二人は何の辛さもない様子だし、ちょっかいを出す蹴りや肩パンがいちいち痛い。


 鋭い葉や木の枝が足に刺さるが、それで歩みを止めると蹴りを入れられる。それが嫌で、痛みをこらえて歩き続けた。


 また、それを顔に出そうものなら大声で叱咤されるのだろうと思い、必死に表情を押し殺した。こらえる俺の姿がよほど面白いようで、彼らは度々嘲笑を浴びせてくる。


 地獄だ。ここはいったい何処の国なのだろう。韓国や中国も、日本海から辿り着くような場所でこれほど治安の悪い場所はあるまい。

 まして、ペットボトルではなく未だに瓢箪なぞ使っているような連中が、あの国にいるはずもないのだ。


 いよいよもって、現在地が意味不明である。こんなに文明の遅れた国に、日本海から数夜で辿り着くはずはないのだ。俺の地元はちょうど海流が交わる場所で、それ以上遠くへと行くことはまずありえない。


「……せめて国旗の類が見れれば良いんだがな」


 呟く俺に、後ろを歩く男が再び蹴りを入れる。

 これもダメか。何も言わず、ただひたすらに歩みを進めろと。なんて理不尽なことだ。


 辿り着いたのは、鬱蒼とした森にたたずむ石造りの建造物だった。


 やはり、文明を感じさせない。コンクリートではなく、長方形の石をただ敷き詰めただけの建物である。頑丈そうではあるが、日本の建築基準からすればありえない。


「……――……――ッ!」


 建物の中に入ると、一人の男がまた俺に大声を浴びせかける。


 なんだろうな。問いかけのような口調だ。しかしそれは、決して優しいものではない。例えるならそう。刑事事件が起きて、俺が犯人だと決めつけているような感じ。


 ただ、わかったこともある。一人称と二人称だ。どうやらこの国には、一人称も二人称もひとつずつしかないらしい。日本語よりは、英語などに近いだろうか。


 こんな状況の中、俺は意味もないことを考えていた。本当はもっと、この場を上手くやる方法を考えるべきだろうに。


 何も答えられないでいると、今度は問答無用で服をはぎ取られた。

 ……彼らは遭難者を助ける善人ではなく、追剥や盗賊の類だったのか。


 いや、考えればすぐにわかることだろう。そんな単純なことにも気づけないほど、俺は弱っていたのだ。


 俺の身体を値踏みするよう複数人で見た後、一畳もないような狭い部屋に入れられる。内からは開けられず、外からは南京錠のようなもので施錠できるようだ。


 海水と長時間の移動でカラカラに渇ききった喉をうるおそうにも、彼らは水も与えてはくれない。


 唾を飲んでしのごうとしても、口から湧きだすそれすら、鉄と潮のにおいがするのだ。当然、喉はさらに渇いていくばかりである。


 なんだこの地獄は。これは夢か何かか。珊瑚に会いたい……。


 珊瑚、珊瑚?


 ……泣き崩れた。みっともなく大声を出して。


 どうして、忘れてしまっていた。どうして、忘れてしまうことができた。


 自分が極限状態であっても、どうして俺は、愛する妻を忘れることなどできたんだ。彼女だって、危険な状態であることは変わりないのに。彼女だって、彼らのような悪漢に襲われているかもしれないのに。


 薬指を見ると、そこに確かにあったはずのものが、目に入らなかった。衣類や持ち物と一緒に、俺たちの誓いすらも日本海へ置いてきてしまったのだ。


 俺は一晩中泣いた。乾ききった喉も男たちから浴びせられる罵声も無視して、自分の意識が続く限り泣き続けた。

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