第14話 橘奈良麻呂の乱



 苦悩に満ちた人生に幕を下ろし、ついに、聖武帝が崩御した。


 仲麻呂の権力は、ますます大きくなっていった。光明皇后は、お気に入りの甥のことを、恵美押勝えみのおしかつと呼ぶようになった。顔を見ているだけで、笑みがこぼれる、というほどの意味である。


 叔母の寵愛を受け、仲麻呂は、次第に、傍若無人に、国政を牛耳っていった。







 橘奈良麻呂たちばなのならまろの家に、密かに、男たちが集まっていた。

 奈良麻呂と志を同じにする者たちである。


 奈良麻呂は、父・諸兄もろえと同じく、中道の人だった。文人肌といえる。

 奈良麻呂の父・諸兄は、光明皇后(当時)の異父兄だった。にもかかわらず、臣下降籍を願い出て、橘姓を賜られている。



 「この頃の、仲麻呂の横暴は、目に余る」

 奈良麻呂は、肩を怒らせた。

「光明皇太后の寵愛を受けて、新帝をいいように扱っている」


 当時、聖武帝の後を襲った娘・孝謙こうけん天皇は、同じ天武系の、淳仁じゅんにん天皇に譲位していた。


「仲麻呂は、自分の息子の未亡人を、新帝に嫁がせたのだったな」


 集まった同志たちが応じる。


「その上、仲麻呂は、自分の屋敷に、新帝を住まわせている」

「皇太后は、もう御年だ。彼女が亡くなれば、仲麻呂の横暴も衰えると思っていたのだが……。このままでは、皇太后が、淳仁帝に代わるだけだ。仲麻呂の独裁は治まらない」


「仲麻呂を殺すしかなかろう」

 不敵な面構えで言い放った老人がいた。

 大伴家の長老、古麻呂こまろだ。


「私もぜひ、参画を」

 脇から、口を出した男がいる。

 大伴一族の、家持だ。

「仲麻呂は、私が永遠の忠誠を誓った安積あさか親王を弑し奉りました」

 そのことを、家持は疑っていなかった。

「この罪は、仲麻呂自身の血を以て、清算されねばなりませぬ。願わくば、この手で……」


「こらこら、早まるな、家持」

 口を出したのは、家主・橘奈良麻呂である。奈良麻呂は、家持と親友だった。安積皇子のが亡くなられた時の、彼の悲哀もよく知っている。

「これは、私怨であってはならぬ。国の行く末を憂う、大義を以て動くべきだ」


「私怨などではない!」

家持は激昂した。

「主を殺されたのなら、仇を討つのが、臣下としての道ではないか! ましてや、大伴家は、軍人の家、」


「家持。お前の気持ちはよくわかる」

大伴家の長老、古麻呂が制した。

「だが、常に冷静であらねばならぬ。お前が表立って行動したら、目立ちすぎる」


「古麻呂殿の言う通りだ。頭を冷やせ、家持」

すかさず、奈良麻呂が加勢した。


 友に向かい、家持は口を尖らせた。

「いい機会だと思ったのだ。仲麻呂への報復の。だって、あやつは、安積皇子に毒を……」


「それがいかんというのだ。まずは、国政を第一義とせよ」

皆まで言わせず、同族の長老・古麻呂は、家持にきっちりと釘を刺した。



 奈良麻呂は、一座を見渡した。

「まずは、次の帝位を誰に踏んで頂くかだ。つまり、我らが乱には、畏れ多くも皇族の方に入ってもらわねばならぬ」


「誰がよいか」

「仲麻呂は、藤原氏だ。藤原氏の地を引く方は、避けた方がよい。……長屋王ながやおうの御子息方にお声掛けしたらどうだろうか」

「長屋王は、藤原4兄弟に、はめられ、御正室とそのお子達とともに、無念の死を遂げられたからな」


 30年近く前の変事だ。


「本当に、あれは、むごく、卑怯なはかりごとだった」

「だが、幸いにも、側室腹の皇子たちが残っておられる。彼らに声を掛け……」


塩焼王しおやきおうはどうだ」

不意に、家持が割って入った。

「塩焼王?」

奈良麻呂が首をかしげる。


 塩焼王は、天武天皇の孫で、新井田にいたべ親王の子だ。確かに、藤原氏との強い繋がりはない。


 すぐに、奈良麻呂の目に理解の色が浮かんだ。

「家持。お前……」


「おうよ。塩焼王は、安積皇子の同母姉あねうえ*の、ご夫君だ」


「よかろう」

奈良麻呂は頷いた。

「塩焼王も、次の帝の候補に加えよう」





 しかし、このクーデターは、事前に露見してしまった。

 密告者がいたのだ。

 山背やましろ王……長屋王の息子だ。


 長屋王は、藤原氏の陰謀で無念の死を遂げた。また、新帝の候補には、彼の、生き残った息子たちの名も上がっていた。

 だがここに、不幸な行き違いがあった。山背王は、新帝候補に、自分の兄たちの名が挙がっていたのを、知らなかったのだ。



 山背王の密告により、橘奈良麻呂は、主犯として追い詰められた。





 「家持。罪は俺が被る。お前はじっとしてろ」

 奈良麻呂は、家持をじっと見据えた。警吏は、すぐそばまで迫っている。


「何を言うんだ、奈良麻呂」

 自分の気持ちの強さを疑われたように思い、家持は、むっとした。


 奈良麻呂は、しつこかった。

「家持。お前は生き残れ」


「そんなことができるか!」

「生き残って、是非とも、仲麻呂を倒すのだ」

「だって、奈良麻呂、」

言いかけた言葉を、奈良麻呂が封じる。

「お前が死んだら、誰が、あのお方の仇を取るんだ!?」

「あの、お方……」

家持の声が揺らいだ。


 目に、わずかに哀愁の色を、奈良麻呂は浮かべた。

「安積皇子だよ。お前は、あの方の、永遠の臣下なんだろう?」


「奈良麻呂殿の言う通りだ、家持」

 口を出したのは、大伴家の長老・古麻呂だった。

「決して、表に出てはならぬ」


「長老!」

「罪は、お前の分まで、儂がかぶる。だから、いいか。口を拭って、黙って耐えるのだ」


「お前の罪なら、俺も、古麻呂殿と、分け合おう」

奈良麻呂が、にやりと笑った。

「親友のよしみだ」


「奈良麻呂……。いいえ、長老! 長老のお年で、むち打ち刑など受けたら、死んでしまいます!」

「儂をなめるな!」


 古麻呂は一喝した。

 一変して調子を変え、続けた。


「大伴家のことを考えよ。お前は、当主ではないか。こたびのことで、お前が捕まれば、大伴家は取り潰される」

「ですが、友と長老に罪を被せて、どこに、義がございましょうや」

「黙れ! 古くから続いた、この国の、武人の家柄を、途絶えさせてはならぬ。大伴家を守るのだ。それが、当主たるお前の務めだ」





 反逆者たちには、過酷な刑が課せられた。

 長屋王の二人の子息と、大伴古麻呂を含む参画者たちは、杖で打たれて、残酷な死を遂げた。

 ここで記録が途絶えていることから、恐らく橘奈良麻呂も、同じようにして、殺されたのだろう。


 大伴家持に関しては、一切、名が挙げられていない。








☆――――――――


*聖武帝の、側室腹の娘。安積親王の同母姉・不破ふわ内親王。なお、上の同母姉は、井上いのえ内親王








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