第11話 松が枝に結ぶ願い



 天平16(744)年、春、正月。活道いくじが岡で、安積あさか皇子による宴が催されていた。


 安積皇子は、聖武天皇の皇子である。

 ただし、彼の母は卑母ひぼだった。かつて、若きおびと親王(後の聖武帝)の、添い伏しだったのだ。


 沿い伏しとは、有力貴族の姫君(たいていは処女であろう)との初夜に於いて不首尾のないよう、予め、御曹司につけられる、「先生」のことである。

 「先生」であるから、若干、年上のことが多い。身分も、格下の娘の中から選ばれる。


 ところが、どうしたことか、聖武はこの女性を寵愛し、3人も、子をなした。上二人は女の子だったが、やっかいなことに、一番下が、皇子だった。


 これが、安積皇子である。


 なお、聖武の正妻、光明皇后の産んだ男の子は、生まれて1歳を待たずして亡くなっている。


 母の出自を考えれば、安積皇子には、到底、立太子は、考えられなかった。

 ちなみに、光明皇后の父は、藤原不比等である。





 宴に飽いて、散策を始めた市原いちはら王は、先を逍遥している男の姿に目を止めた。


「おい、家持」


 市原王もまた、和歌を好んだ。年齢の近い家持とは、話が合うことが多かった。

 家持もまた、風雅を愛した志貴皇子しきのみこ末裔まつえいである市原王に、親しみを抱いているようだった。


「これはこれは、市原王」


 速足で歩いてくる王を、家持は立ち止まって待った。

 この少し前、家持は、安積皇子の内舎人うちとねりになったばかりだった。


「いいのか。安積皇子あるじをすっぽかして、こんなところで油を売ってて」


 ほんの軽口のつもりだった。

 だが、市原王の本音が、口を衝いて出た、ともいえた。彼は、若干の危惧を感じていた。


 ……家持は、安積皇子の従者で、満足しているのだろうか。



 家持は、父の死により、14歳から、佐保大伴家(大伴家の一派)を背負ってきた男である。それなりの野心もあるであろう。

 一方で、安積皇子は、出世の道を外れている。聖武帝の皇太子には、すでに、正室腹の阿倍内親王あべのひめみこが、立っている。彼女は、藤原不比等の孫だ。


 卑母を持つがゆえに、安積皇子は、この先、一生、飼い殺しだ。ちょうど、天智天皇の末であるがゆえに、天武系の宮廷から遠ざけられている、市原王自身のように。


 否。

 殺されないだけ、マシなのかもしれない。

 天智系の自分にしても。

 聖武の血を引く唯一の男子、安積皇子にしても。


 宮廷とは、そういう所だ。



 「息が苦しくて、外に出て参りました」

ぼそりと、家持がつぶやいた。


 ……安積皇子への不満が出るのか。

 いよいよ、自分の危惧が当たるのだと、市原王は、嫌な気がした。


「私は……」

 意外なことに、うっすらと、家持は、頬を赤らめた。

「安積皇子のような、素晴らしい方の従者となりましたことに、喜びのあまり、殆ど、息ができませぬ。皇子のそばにおりましたら、窒息してしまいます」


「……」

じっくりと、市原王は、家持を眺めた。


 家持は、安積皇子より、10歳、年上である。

 その彼が、目を輝かせて、主を誉めそやしている。

 市原王の危惧は、見事に外れたと言える。それが、彼は嬉しかった。


「あの方のように、欲のない、心根の美しい方を、今まで私は、見たことがありません。あの方が、斎王いつきおうであられる井上いのえ内親王(注:同母姉)の為に、薬師経を書写されたのを拝見したことがありますが、それはもう、お心そのままの、のびのびとした、美しい書体で、」


「おい、」

 延々と続く主への賛辞を、市原王は遮った。

 あることに思い至ったからである。

「先日の、八束やつか(注:藤原北家。後の真楯。藤原北家繁栄の祖)の家での宴でな。安積皇子もいらしていた。あそこで、お前の読んだ歌だが……」



……「ひさかたの雨はりしく思ふ子が宿に今夜こよひあかして行かむ」


 やや、色の戻りかけていた家持の頬が、再び、ぱっと赤らんだ。

「お許しください。ほんの戯言にございます」


「俺はまだ、何も言ってはいないぜ」

 市原王は、にやりと笑った。

 家持が「思ふ子」が、他でもない安積皇子を擬していることに、この時、突然、気がついたのだ。


「つ、つ、つまり、皇子とご一緒なら、雨に振りこめられても、かえってそれが喜びになるとでもいうか……」

 しどろもどろと、家持が弁解を続ける。


 ついに、市原王は爆笑した。

 今までの、心の鬱屈が、晴れた気がした。



 市原王は、不穏な噂を聞いていた。


 ……自分の産んだ皇子が、1歳をまたずして身罷ったのに、側室腹の安積親王は、すくすくと成長している。

 光明こうみょう皇后(注:聖武の正妻)が、安積皇子の存在を、ひどく不快に感じているというのだ。その上、彼は、将来、彼女の娘、安倍皇太子の即位の、邪魔になる可能性がある。


 今、光明皇后には、甥の仲麻呂なかまろが、ぴったりと張り付いている。仲麻呂は、藤原南家の御曹司だ。が、本気で権力を欲した場合……、


 頭に浮かんだ不吉な思いを、市原王は振り払った。


 「要は、本人の力だよな。確かに安積皇子には、この私でも、魅かれる所がある」


 家持や市原王だけではない。

 若く魅力的な皇子の周りには、知識人が集まり、サロンができつつあった。


「本当に、馬鹿らしいことだ。母親の身分がどうこうとか。藤原氏の外孫か否か、とか」

「天武系とか天智系とか、ですね」


 市原王の言葉に、すかさず家持が、付け加えた。

 彼のこういう、理知に溢れたところが、市原王は気に入っている。


「見ろよ」


 少し小高いところに生える松を、市原王は指さした。松は、穏やかな初春の空を背に、広く枝を広げていた。


「あの松は、いったいどれほどの間、あそこに生えていたと思う? 枝の間を通ってくる風が、澄んでいるようだ。それはきっと、あの松が、長い年月に研ぎ澄まされたからだと思うよ」*


 今はまだ、母の出自を問われてしまう。だが、年齢を重ねれば重ねるほど、安積皇子の実力は増していくことだろう。

 そのころには、誰も、彼の母の元々の身分など、口に出さなくなっているに違いない。


「命はいつまで続くものなのでしょう。ただ私が思うのは、どうぞ永らえてください、ということだけです」**


尊敬と憧れを底に秘め、静かに家持はつぶやいた。








☆―――――――



*「一つ松幾代かぬる吹く風のおとの清きは年深みかも」(市原王:巻六 1042)


**「たまきはる命は知らず松が枝を結ぶこころは長くとそ思ふ」(大伴家持:巻六 1043)







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