第11話 松が枝に結ぶ願い
◇
天平16(744)年、春、正月。
安積皇子は、聖武天皇の皇子である。
ただし、彼の母は
沿い伏しとは、有力貴族の姫君(たいていは処女であろう)との初夜に於いて不首尾のないよう、予め、御曹司につけられる、「先生」のことである。
「先生」であるから、若干、年上のことが多い。身分も、格下の娘の中から選ばれる。
ところが、どうしたことか、聖武はこの女性を寵愛し、3人も、子をなした。上二人は女の子だったが、やっかいなことに、一番下が、皇子だった。
これが、安積皇子である。
なお、聖武の正妻、光明皇后の産んだ男の子は、生まれて1歳を待たずして亡くなっている。
母の出自を考えれば、安積皇子には、到底、立太子は、考えられなかった。
ちなみに、光明皇后の父は、藤原不比等である。
*
宴に飽いて、散策を始めた
「おい、家持」
市原王もまた、和歌を好んだ。年齢の近い家持とは、話が合うことが多かった。
家持もまた、風雅を愛した
「これはこれは、市原王」
速足で歩いてくる王を、家持は立ち止まって待った。
この少し前、家持は、安積皇子の
「いいのか。
ほんの軽口のつもりだった。
だが、市原王の本音が、口を衝いて出た、ともいえた。彼は、若干の危惧を感じていた。
……家持は、安積皇子の従者で、満足しているのだろうか。
家持は、父の死により、14歳から、佐保大伴家(大伴家の一派)を背負ってきた男である。それなりの野心もあるであろう。
一方で、安積皇子は、出世の道を外れている。聖武帝の皇太子には、すでに、正室腹の
卑母を持つがゆえに、安積皇子は、この先、一生、飼い殺しだ。ちょうど、天智天皇の末であるがゆえに、天武系の宮廷から遠ざけられている、市原王自身のように。
否。
殺されないだけ、マシなのかもしれない。
天智系の自分にしても。
聖武の血を引く唯一の男子、安積皇子にしても。
宮廷とは、そういう所だ。
「息が苦しくて、外に出て参りました」
ぼそりと、家持がつぶやいた。
……安積皇子への不満が出るのか。
いよいよ、自分の危惧が当たるのだと、市原王は、嫌な気がした。
「私は……」
意外なことに、うっすらと、家持は、頬を赤らめた。
「安積皇子のような、素晴らしい方の従者となりましたことに、喜びのあまり、殆ど、息ができませぬ。皇子のそばにおりましたら、窒息してしまいます」
「……」
じっくりと、市原王は、家持を眺めた。
家持は、安積皇子より、10歳、年上である。
その彼が、目を輝かせて、主を誉めそやしている。
市原王の危惧は、見事に外れたと言える。それが、彼は嬉しかった。
「あの方のように、欲のない、心根の美しい方を、今まで私は、見たことがありません。あの方が、
「おい、」
延々と続く主への賛辞を、市原王は遮った。
あることに思い至ったからである。
「先日の、
……「ひさかたの雨は
やや、色の戻りかけていた家持の頬が、再び、ぱっと赤らんだ。
「お許しください。ほんの戯言にございます」
「俺はまだ、何も言ってはいないぜ」
市原王は、にやりと笑った。
家持が「思ふ子」が、他でもない安積皇子を擬していることに、この時、突然、気がついたのだ。
「つ、つ、つまり、皇子とご一緒なら、雨に振りこめられても、かえってそれが喜びになるとでもいうか……」
しどろもどろと、家持が弁解を続ける。
ついに、市原王は爆笑した。
今までの、心の鬱屈が、晴れた気がした。
市原王は、不穏な噂を聞いていた。
……自分の産んだ皇子が、1歳をまたずして身罷ったのに、側室腹の安積親王は、すくすくと成長している。
今、光明皇后には、甥の
頭に浮かんだ不吉な思いを、市原王は振り払った。
「要は、本人の力だよな。確かに安積皇子には、この私でも、魅かれる所がある」
家持や市原王だけではない。
若く魅力的な皇子の周りには、知識人が集まり、サロンができつつあった。
「本当に、馬鹿らしいことだ。母親の身分がどうこうとか。藤原氏の外孫か否か、とか」
「天武系とか天智系とか、ですね」
市原王の言葉に、すかさず家持が、付け加えた。
彼のこういう、理知に溢れたところが、市原王は気に入っている。
「見ろよ」
少し小高いところに生える松を、市原王は指さした。松は、穏やかな初春の空を背に、広く枝を広げていた。
「あの松は、いったいどれほどの間、あそこに生えていたと思う? 枝の間を通ってくる風が、澄んでいるようだ。それはきっと、あの松が、長い年月に研ぎ澄まされたからだと思うよ」*
今はまだ、母の出自を問われてしまう。だが、年齢を重ねれば重ねるほど、安積皇子の実力は増していくことだろう。
そのころには、誰も、彼の母の元々の身分など、口に出さなくなっているに違いない。
「命はいつまで続くものなのでしょう。ただ私が思うのは、どうぞ永らえてください、ということだけです」**
尊敬と憧れを底に秘め、静かに家持はつぶやいた。
☆―――――――
*「一つ松幾代か
**「たまきはる命は知らず松が枝を結ぶ
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