第10話 思ふ子

◇ 



 「防人の歌は、家持のクーデターだった……」

呆然と、俺はつぶやいた。それまでは、爆然と、大伴家持は、ひ弱な文人だと思っていたのだ。


「あの素朴な歌の数々に触れたら、誰だって、心を動かされずにはいられません。彼らの過酷な任務。残された家族の悲惨な境遇。それに、想いを馳せないではいられないでしょう」

桐原の弟が言い募る


 出来上がった歌集を、為政者に奉ったら……。

 それは、君主の心を刺すだろう。

 平気でいられたら、君主の資格はない。


 だが、聖武は死んでしまった。それから、家持はどうしたのだろう……。



「兄は、あまりにロマンティストでした。政変よりもむしろ、万葉の相聞歌を愛していました」

 遠い目をして、桐原の弟はつぶやいた。


「ああ、駿河の浜で、親の言いつけに背いて出てきた娘と、どうこうしたという歌を、聞かされた」


 思い出して言うと、彼は、ほんのり笑った。

 それで、ちょっとからかってみる気になった。


「君も、好きな歌があるのかい?」

「……」


 少しためらい、結局、弟は口ずさんだ。


「ひさかたの雨はりしく思ふ子が宿に今夜こよひあかして行かむ」*


(空をこめて雨は降り続きます。それも一興、恋しい子の家に今夜は夜を明かしていきましょう)



安積あさか皇子の話をしていいですか?」

歌が終わると、桐原の弟は言った。


「安積皇子?」

俺は鸚鵡返す。


 さっきちょっと話に出たと、思い出した。

 早くに亡くなった、聖武の皇子だ。

 確か側室腹の方だ。


 何かに憑かれたように、桐原の弟は語り始めた……。








☆―――――――


*巻六 1940(現代語訳も)







  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る