第9話 難波の防人
◇
藤原式家、
宿奈麻呂は、あわれを解することができる性格だった。時折、歌を詠むこともあった。家持は、彼の歌を笑って聞いているばかりだったが。
藤原式家は、長男の
軍と言っても、宿奈麻呂に任せられていたのは、徴収されてきた民、即ち防人だった。
そんな折、宿奈麻呂は、配下の防人たちを、難波へ連れていくことになった。彼らは難波での閲兵の後、遠く九州へと送られるのだ。
閲兵に訪れる
友人が、行く先々で、名もなき人々の歌を集めていることを、宿奈麻呂は知っていた。
それで、自国の防人が難波へ赴く際、彼らに、歌を詠ませてみた。文字の書けない者は、役人に命じて書きとらせた。
なかでも特に秀逸と思われた八首を、宿奈麻呂は、家持に献じた。
*
「どうだ。わが国人たちの歌は」
難波に到着し、宿奈麻呂が尋ねると、家持は、眉を寄せた。
「ううむ。読むに耐えるのは、5首だな。これは、と思えるのは、3首だ」
「3首? 手厳しいな。ろくに読み書きもできない防人たちの歌だぞ?」
「五七五七七の歌としては、だ。その心情は、読む者の胸を打つものがある」
「別れてきた家族への想いを歌ったものが多かったろう?」
「というか、それに尽きるな」
「なあ、家持」
宿奈麻呂は、膝を勧めた。
「この国のやり方は、間違っていると思わぬか?」
「帝に異議を申し立てるのか?」
面白そうに家持が問う。
時代は、孝謙女帝の治世に移っていた。
宿奈麻呂は、ぐいと、盃を干した。
「聞け、家持。繰り返される都移りや、寺院建立で、諸国は疲弊している。3年前に落成した東大寺の大仏も、多大な負担を、民に強いた」
家持の顔色が変わった。
「宿奈麻呂、いくらお前でも、聖武上皇を揶揄することは、許さぬぞ」
既に聖武は、
「それに、負担だと? 何を言う。
「金を塗る過程で、死人が大勢出たと聞く。死んでいったのは、各地から集められた人足たちだ」
すかさず、宿奈麻呂が切り込んだ。
ぐっと、家持の喉が詰まる。
宿奈麻呂は、さらに追い打ちをかけた。
「人夫や防人として男手を取られ、田舎に残されるのは、女や年寄り、子どもばかりだ。育てる者もなく、置き去りにされる子もいると聞く。残された家族は、
「しかし、」
「いいから聞け」
なおも聖武上皇を擁護しようとする家持を、宿奈麻呂は抑えつけた。
「徴収された男たち自身、生きて帰れるかどうか、わからない。任が果てれば、路銀も渡されず、そのまま放り出される例もあったと聞く。国へ帰る街道のあちこちで、彼らは、屍を晒しているのだ。かりにも、
「……」
さすがに、家持は、黙り込んでしまった。
それぎり、会話は進まなかった。
連れてきた国人たちを難波に残し、宿奈麻呂は、相模に帰っていった。
*
「海行かば
山行かば
草
大君の
一人になった家持の脳裏に、大伴家の言立てが、しきりと鳴り響いていた。
言立てとは、一種の見得のようなものである。いわば、大伴氏の決まり文句だ。
6年前、大伴家当主でもある家持は、この言立てを、自身の歌に詠みこんだ。
陸奥の国から、金が出土した折のことだ。金は、東大寺に建立中の廬舎那仏に塗布するのに、どうしても必要だった。
東大寺の廬舎那仏像建立の発願は、聖武天皇によるものだった。
聖武の人生は、苦しみに彩られていた。
彼の母親は、長く心の病に苦しめられており、聖武は、不惑近くなるまで、母と会うことも叶わなかった。
その治世の初期には、長屋王の変、藤原広嗣の乱などの変事が、彼の精神を揺るがした。
また、干ばつ、飢饉、火災が相次ぎ、ついには、天然痘が大流行した。これにより、藤原4兄弟など、政府高官の多くが
相次ぐ国難の中、聖武は、5年もの間、各地を彷徨し、また、遷都を繰り返した。
跡継ぎの皇子を失ったのも、痛手だった。
彼には正室と側室腹、それぞれ一人ずつ、男の子が生まれた。
しかし、正室の産んだ
聖武は、仏教に帰依することで、この国難を乗り越え、人心を安定させようとした。
廬舎那仏の建立は、河内の知識寺が、建立のきっかけになったという。
「知識」とは、信仰を同じくする者の集団である。その連帯感と、信仰の厚さ、また、身分を度外視した考え方が、聖武の心を打った。
それゆえ彼は、東大寺の大仏造営に関して、信仰の心さえあれば、草一本、土一握りの喜捨であっても、これを許した。反面で、民から無理やり取り立ててはならぬと諫めている。
しかし、家持にとって、大仏建立は、別の意味があった。
……安積皇子。
17歳で亡くなった、聖武の皇子である。
廬舎那仏は、家持にとって、今や天上を治めていらっしゃるであろうこの皇子の、まさに化身であった。
……わが国土から、金が出土したのは、まさしく、安積皇子からの親書。
冥界におられる皇子が、大仏建立を喜んでいらっしゃる証なのだと、家持は思った。
「葦原の 瑞穂の国を 天下り
有頂天になり、家持は、一気に長歌を書き上げた。中に、大伴家の言立てを織り込み、天皇家への忠誠を示した。
反歌3首を添え、献上した。
この年、聖武は、娘の
陸奥の国から金が掘り出された3年後。
廬舎那仏は完成し、開眼供養が行われた。
菩提僧正が点眼に使用した筆には、長い
その廬舎那仏建立が、民の苦しみの元になったと、宿奈麻呂は言う。
家持は、考え込んでしまった。
彼が残していった防人の歌を、繰り返し読んだ。
宿奈麻呂にはああ言ったが、どの歌も、ひどく心に響く。
試みに、彼らの身になって、自分でも、幾つか歌を作ってみた。だが、あの素朴な方言に勝る言葉は、どうしても出てこなかった。
難波に集った全国の防人たちに、歌を作らせてみよう。
家持は、さっそく、聞き取りの役人を集め始めた。
*
相模の国に帰り着いた宿奈麻呂の元へ、家持から、文が届いた。
「
防人の歌は、反逆である。文学の反逆だ。私は、畏れ多くも。大君の
勇ましくある筈の防人が、いざ出発の期に及んで、親を慕い、妻を恋い、めそめそじくじく、思い煩う。だが、彼らの歌は、心を穿つ。
これが、人間の姿なのだ。家族や恋人と過ごす幸せを、彼らから、奪ってはならぬ。
かえりみの人々から引き離し、命がけの任務を負わせることは、お前の言う通り、間違いである。
聖武の君は、賢帝であられた。
賢帝にしてからが、国の宝であるべき、民の苦しみに、お気づきにならなかった。ご自身の苦悩で、せいいっぱいだったのだ。
ましてや、暗愚の輩が権力を握った暁には、いかなる悲惨が、この国を襲うだろう。
防人の、名もなき民の言の葉を残すことによって、為政者が、己の圧政に気づくことができるように。
願いを込めて、私は彼らの歌を、後世に残したいと思う。
歌集が仕上がった暁には、まずは、衷心をこめて、聖武上皇に奉るつもりだ。
帝を諫める行為は、大罪に値するやもしれぬ。だが、上皇を聖帝であらしめるために、いかなる責めをこの身に負おうとも、私は、諫臣とならねばならぬ
」
だが、翌年、家持が防人の歌をまとめきらないうちに、聖武上皇は亡くなった。
☆―――――――
* 巻一八 4094
※この時代の系譜について、「近況ノート」に、系譜を用意してございます
①天皇家の系譜
https://kakuyomu.jp/users/serimomo/news/16817139557316531902
②藤原氏の系譜
https://kakuyomu.jp/users/serimomo/news/16817139557316695694
ちょっと、いや、かなり見えにくいようでしたら、NOVEL DAYS さんのを参照頂いてもいいですよね、カクヨムさん。
https://novel.daysneo.com/works/episode/3147742d0a623a496faa9a24ca999899.html
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます