万葉の季節
第8話 郊外の療養所
桐原は、南洋の島で、死んだ。名誉の戦死ではない。病死だ。
彼の体を、俺は、駐屯地まで運ぶことができなかった。髪を切り取り、仲間のいる駐屯地まで帰った。
遺髪は、彼が最後まで持ち歩いていた『万葉集』と共に、内地に持ち帰った。
そう。
結局俺にはできなかった。
彼の『万葉集』を、切り裂き、破棄してしまうことが。
俺がどのように、ジャングルから駐屯地へ戻ったか、どんなふうに、内地へ帰ってきたか。
ここで、語りたくはない。人に語るということは、自分の中で、記憶を新たにすることだ。
俺は、もう、当時のことを、思い出したくない。
なんとか本土に帰り着くと、東京は焼け野原になっていた。幸い、母と妹は、母の実家に疎開して無事だった。
彼女らに会いに行く前に、俺は、桐原の弟のところへ行った。
彼は、肺を病んでいた。それが幸いして(幸いとは!)、徴兵は免れたと、桐原から聞かされていた。
また、郊外の療養所に入っていたおかげで、空襲の犠牲にならずにすんだ。
恐ろしい病だが、結核が、彼の命を救った。戦争という、人為的な禍災から。
遺髪と、ぼろぼろの袖珍本(小型本。文庫本)を手に、俺は、東京郊外にいる、桐原の弟を訪ねた。
*
正座をしたまま、桐原の弟は、深く頭を垂れた。固く握られた両手が、膝の上に乗せられている。
桐原の両親は、空襲で死んだという。
弟は、この村の結核療養所で暮らしていて、空襲を免れた……。
残酷な話だ。
だが、そんな話は、この日本に、ごろごろしている。
俺は、桐原の弟を、気の毒だと思う気持ちに、蓋をした。
遺髪と本を、弟に渡した。
「万葉集……」
絞り出すようにつぶやいて、桐原の弟は、絶句した。
何度か口を開きかけ、咳ばらいをし、俺は言った。
「桐原は、自分にもしものことがあったら、その本を僕に託す、と言っていた」
「兄は、……」
「死ぬ間際まで読んでいたのだろう。俺が偵察から戻ってきた時、ページの間に、彼の指が挟まっていた」
「……」
弟は顔を上げた。まだ、少年のような顔は、深い悲しみに鎖されている。それなのに、黒い瞳には、熱が浮かんでいた。
「兄は、万葉の恋を愛していました。万葉の恋人は、兄の恋人でした」
熱は、弟の願望の表れだったのだろう。
黒く潤んだ瞳は主張していた。
短くして絶たれた
苦いものを口に含んだ気がした。
だって、桐原の指が挟まれていたページは……。
鉛筆で薄くアンダーラインが引かれていた歌は……。
「兄が、最後に読んでいたのは、どの歌だったのですか?」
「今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯と出で立つ吾は」
すでに諳んじていたその歌を、低い声で、俺は誦した。覚えてしまったのは、悔しかったから。
大君の為に、後ろも振り向かず、自分を犠牲にする。
しかもその自分を、「醜」と言い切る。
銃後の内地で、両親も空襲で亡くし、桐原の弟は、たった一人になってしまった。
それなのに、兄は、「醜」の楯だというのか。
到底、容認できない歌だった。
「防人の歌ですね?」
桐原の弟は、この歌を、知っているようだった。
にもかかわらず、彼は、冷静だった。
俺は、苛立った。
「『万葉集』を抱いて死んでいる桐原を見た時、この本を破ってしまおうと思った」
告白すると、目を丸くした。
そんな弟に向かい、言葉を絞り出した。
「軍隊で、俺達兵隊は、大君の醜の御楯となるよう、鼓舞されてきた。国に残してきたものを、決して振り返ってはいけない。死んでなんぼの御粗末な楯として、俺らは使い捨てられてきた」
静寂が落ちた。
弟は、静かに首を横に振った。
「吉塚さん。この歌は、違います」
同じ言葉を、桐原も吐いた。
己の恐怖を、部下にぶつけることでしか処理できない、軍曹に向かって。
僕への暴力が、自分に向けられる危険を冒して。
「今日よりは顧みなくて……」
静かに弟は繰り返した。
「ここは、後ろを顧みずにという意味ではありません。この歌は、大君の為に、家族や故郷を捨てる、という歌では、ないのです」
……「違うんだ……」
苦し気な桐原の声が耳に蘇る。
……「このうたは……違う」
あの時桐原は、何を苦しんでいたのだろう……。
「顧みずに、なら、『顧みずして』となります。けれど、これは、『顧みなくて』です」
「それが?」
「カエリミが、ないのです」
「かえりみ?」
「かえりみとは、『顧みるといる人』のことです」
「顧みるといる人?」
俺の頭に浮かんだのは、いつも当たり前のようにそばにいた、家族のことだった。
妹と、母。父は早くに亡くなっている。でも、父の大きな腕のことは、今でもよく覚えている。
桐原の弟は、大きく頷いた。
「防人には、まだ若い、ほんの子どものような者もいました。彼らは、故郷に親や弟妹、恋人や配偶者を残して旅立たねばならなかった。普段の生活で、当然、そばにいた人々が、この日を境に、いなくなってしまうのです。それが、防人になるということです」
「この歌は、家族との別れを悲しむ歌だったのか?」
「僕はそう思っていました。もちろん、兄も」
静かに、弟の頬を涙が伝った。
かえりみ。
桐原が内地に残してきた家族。
今まで彼を守っていた、父と母。
年老いた二人は、桐原の帰りを待つことなく、死んでしまった。
空襲で殺された……。
そして、病身の弟が、たった一人、残された。
最後の最後に、桐原は、『万葉集』への、俺の誤解を解こうとしたのだ。
そのことに思いが至った時、俺の胸を後悔が過った。
……「文学は、軍に膝を屈した」
何とひどい言葉を、俺は彼に叩きつけてしまったのだろう……。
「防人の歌は、大伴家持による、文学的クーデターです」
黒い真摯な目が、俺を見つめていた。
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