第7話 醜の御楯

 両手いっぱいの缶詰を抱えて、俺は、崖下へ走った。



 生きられる。

 食べ物が、今、ここに、手の内にある。

 生きられる。生きて、国へ帰れるんだ。

 頭の中には、それしかなかった。


 日本が……。神国が、負けた……。

 時折、脳の底の方で、きりきりと、そう思った。


 生きられる!


 でも、すぐに歓喜が、大波のように俺の意識を飲みこんだ。

 もっともっと、生きられるんだ。

 懐かしい、祖国へ帰れる

 母に、妹に会える。

 母に孝行しよう。

 そして……。

 ただいまを言って、いいなづけの怒りを吹き払うんだ。

 怒ってない彼女は、女神のように美しい……。


 俺は、死なない。

 生きて、帰る。




 勢い込んで、崖下の、垂れ下がる蔓の向こうへ跳び込んだ。


「桐原! 食料だ! 戦争は終わったぞ」


 その時はたと、缶切りがない、と気がついた。

 缶詰は、たくさん落ちていたが、缶切りはなかった。さすがにアメリカさんも、そこまでは、気が回らなかったと見える。


 でも、大丈夫。きっと、桐原なら、何かいい方法を知っている。

 桐原なら……。


「桐原?」


 向こうをむいたまま、桐原は、じっとしていた。

 毛布をはね、背を丸めている。


 両手いっぱいに抱えた、缶詰が滑り落ちた。


 「桐原」


 黄土色に変色した顔を見た時、ああ、と思った。


 桐原は、死んでいた。

 どうしようもなく死んでいた。

 冷たく、固く、鎖されて。


 若さも快活さも、あの優しさも、全てが消え失せていた。



 桐原は、馬鹿だと、思った。

 戦闘で死んだのではない。捕虜になって、虐げられて死んだのではない。

 ただ、栄養失調で、マラリアになって死んだのだ。

 まったくの、犬死にではないか。



 俺は、声を出して泣いた。

 大声で吠えながら、泣いた。

 鼻水が垂れ、口からよだれが出た。


 どうしようもなかった。

 どうしようもなく、悔しかった。


 桐原は馬鹿だ。

 馬鹿野郎だ。



 高熱が嘘のように抜けきった体を仰向けにした時、その指先の辺りで、かさりと音がした。


 『万葉集』……。


 桐原が、肌身離さず、持ち歩いていた本だ。

 恋人、とも呼んでいた。

 万が一の時は、俺に託すと言った。

 今となっては、それが、遺言になってしまった。


 桐原の指先は、手擦れで汚れた文庫本の、後ろの方に挟まっていた。

 まるで、ほんの一眠りしたら、続きを読むんだと言いたげに、このページに挟まっていた。


 『万葉集』巻二十。防人の歌。

 薄く、鉛筆で線が引いてある歌があった。


「今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯と出で立つ吾は」


 俺らをこのジャングルへ追いやる前、軍曹が引用した歌だ。

 大君の醜の御楯となれ、半端者にとっては、死んでこその御奉公だと、あいつ軍の上官は言った。


 頭が、かっと熱くなった。

 自分を死に追いやった歌を、最期の最期まで抱きしめて逝くなんて。

 信じたくなかった。


 桐原、お前は、楯なんかじゃないよ。だって、お前の死は、無駄死にじゃないか。


 それともお前は、「醜の御楯」になりたかったのか? 家族も故郷も友達も未来の恋も、全て打ち捨てて、討死にしたかったのか。


 出征の日、君は、晴れがましかったのかい?


 俺は、逃げようとしたよ。

 君は、俺を引き戻した。

 俺は、家族のために、踏みとどまった。従軍し、南方まで来た。


 それなのに君は、家族を、故郷を、顧みないというのか。

 こんな、こんな歌に、線まで引いて。

 人を、若者を戦争に駆り立てる歌に。

 『万葉集』なんて、くそくらえだ!



 その薄汚れた小さな本を、俺は、破ろうとした。

 ふたつに、四っつに、八っつに、小さく小さく裂いて、南洋の密林に吹き飛ばそうと思った。足の下に、粉々になるまで踏み砕いて、二度と読めないように泥にうずめてしまいたかった。



 桐原の汗で湿気った本を見開きで掴む。

 力いっぱい、本の背を、破り壊そうとした……。






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