第4話 ヒルの襲来

 俺達は、夜のジャングルを、進んでいた。

 陽が落ちても、相変わらずの暑さだった。湿度が高く、木や草の匂いが強烈だ。

 息苦しい。


 だが、敵から丸見えの環境ではない。匍匐前進しなくていいのだけが、救いだった。


 そうはいっても、道を歩いているわけではない。けもの道ですらない。

 生い茂る大木たちの下を、気持ち、草がまだらになっている帯のような所を選んで、進んでいく。もう草とはいえないくらい生い茂った下生えをなぎ倒しながら。


 月明りに見えるコンパスだけが、頼りだった。その上、歩きにくいこと、このうえもない。



 「おい、大丈夫か?」


 後ろを歩いていた桐原を振り返ったとき……。

 木々の梢から、ぱらぱらぱらっ、と、何かが降ってきた。


 さして大きくはない。

 が、数が異常に多い。

 ぬめぬめして、顔や首筋に、ぴたっとはりついてくるもの……。


 「ヒルだ!」


 もちろん、日本男児にとって、ヒルなぞ、恐るるに足らない。敵の銃弾や毒蛇などに比べたら、かわいいとさえいえる。


 しかし、ヒルはしつこかった。

 おまけに、大量に降ってきた。

 痛みはないのだが、皮膚にはりつく感覚は、不快なことこの上ない。


「こいつら、俺らを狙って、落ちてくるようだ」

手拭いを振り回し、俺は叫んだ。

「走ろう。このままでは、血を吸われ放題だ」


 桐原が何か言ったようだが、かまわず走り始めた。

 大きな声では言えないが、ヘビとか、トカゲとか、こういうヌルヌル系は、大嫌いなのだ。


 どれだけ走ったろう。

 ジャングルは相変わらず続いていたが、先ほどとは、少し、植生が変わったようだ。

 ヒルの襲来もなくなった。

 俺は、安堵して、立ち止まった。


 皮膚に張り付いたヒルをむしりとっていると(それは、日本のものと比べ物にならないくらい巨大だった)、やっと、桐原がやってきた。

 走るでもなく、歩いていた。


 その歩みが、少しおかしいことに、俺は、気づくべきだった。

 だが、その時の俺は、首筋にへばりついたぬめぬめを取るのに、気を取られていた。


 ようやく俺に追いつき、いつもの通り、おっとりとした声で、桐原は言った。

「君は、案外臆病だねえ。ヒルには毒はない。そんなに慌てることはない」


「馬鹿を言うな。見ろ、血だらけだ」

俺は、ヒルをむしり取った首筋を見せた。


 手拭いで防御してあったにもかかわらず、わずかな隙間から、ヒルは、首筋に入り込んでいた。大きく膨らんだもうひとつをひっぺがすと、たらたらと、血が流れた。


 俺の首筋を覗き込んで、桐原は顔を顰めた。

「無理にはがすからだ。タバコの火でも押し当てればいいものを」


「タバコなんて、そんな贅沢品、どこにあるっていうんだ? あー、貴重な血が」


 桐原は笑った。

 そして、何の前触れもなく、ぐらりと前に傾いた。

 抱きとめる間もなく、そのまま静かに倒れ伏した。



 思えば、桐原は、朝から熱っぽかった。しかし、熱っぽい者は、大勢いた。ろくな食べ物もない南洋の軍隊暮らしで、みな、どこかしら具合が悪かった。


 桐原の友人として、俺は、計画の見直しを、進言すべきだった。

 あるいは、俺一人で行くと言うべきだった。


 だが俺は、それを怠った。

 薄々、桐原には無理だと認識しつつも、何の手も打たず、彼を同行した。




 幸い、崖が上に張り出したその下に、ちょっとした雨露をしのげるような空間があった。草は夜露に湿気っていたが、他に選択肢はなかった。僕は、そこに毛布を敷き、桐原を横たえた。


 「大丈夫か?」


 がたがた震えながら、桐原はうなずいた。

 すごい高熱だった。湯でも沸かせそうなほどだ。月の光にも、顔が蒼白なのがわかった。


 「すまない。迷惑かけて」

やっとのことで、桐原は言った。


「迷惑だなんて、言うな!」


 とりあえず、誰かに迎えに来てもらおうと思った。

 しかし、無線は使えない。そもそも、無線機も持たされていない。それほど、日本軍の物資の窮乏はすさまじかった。

 軍本体に連絡するには、俺が営巣地へ戻るしかない。



 「君、行きたまえ」

目を閉じたまま、桐原が言った。かさかさの唇がすりあわされる音が聞こえそうなほど、小さく弱々しい声だった。


 だが、ひどく具合の悪そうな桐原をひとり、ここへ残しておくのは、しのびない。

 俺のいなくなった後、敵兵に発見されたらどうするのか。人間ならずとも、コブラやハブだって、充分、恐ろしい。


 なおも、苦しそうに桐原は続けた。

 「大義の前の小事だ。味方の軍の為に、お国の為に、僕にかまわず、任務を遂行してくれ」


 そういう考え方は、嫌いだった。

 大勢の為に、力のないものを切り捨てる、そんな考え方は、大っ嫌いだ。


 しかし、それが、日本という国なのだ。

 戦争、という論理なのだ。



 桐原は、うっすらと目を開いた。

「マラリアだ。多分、助かるまい。早く行け。お国の為に、任務を遂行するんだ」


 その時、俺の脳裏に、薄笑いを浮かべながら、何度も何度も、俺を殴り、蹴り上げた軍曹の顔が浮かんだ。それはもう、完全なうっぷん晴らし、私刑リンチだった。


 「いや、行かない」

強く、宣言した。


 もう、この戦争は、長くはないだろう。

 どうしたって、日本は負ける。

 人を、若者を、こんなにも使い捨てる国が、勝てるわけがない。

 勝っていいわけがない。


 その前に、多分、俺も桐原も、死んでしまうのだろうが。


 母と妹の顔が、ちらと、まぶたに浮かんだ。

 あの上官のいる軍の延長線上に、日本という祖国があり、その祖国に、俺の家族がいることが、納得できなかった。


 俺の家族は、どちらかというと、桐原の延長線上にいる。

 物静かで優しく、普段は弱く見えても、いざとなれば、権力に楯をつくことのできる人の側にいる。


 軍のために尽くすことが、家族のためになるとは、思えなかった。

 思いたくなかった。



 荒い息を吐きながら、桐原が目を閉じた。力尽きたのだろう。もう、俺一人で、駐屯地へ戻れとは言わなかった。

 そのすぐそばで、俺も眠りについた。







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