第3話 家持のうた

 その時、がーがーと、不協な音がした。

 蓄音機の雑音だ。

 瞬時に、俺と桐原は、ぴたりと笑い止んだ。真顔になり、目を見合わせる。



 海行かば

 水浸みづかばね

 山行かば

 草かばね

 大君の

 にこそ死なめ

 かへりみはせじ *


 ……海に征けば水につかる屍、山に戦えば草のはえる屍。大君のかたわらに死のう。わが身をふりむくまい……



 こんな意味の歌なのに、男声の、明るい合唱だ。特に、「屍」という言葉が、必要以上に、からっと歌われている。


 兵士を鼓舞する軍歌だ。本土にいた時も、よく聞かされた。ラジオ放送では、朗らかに「屍」などと歌った後、戦死公報が続いた。

 遠く異国の地で、お国の為に死んだ男たちの名が、読み上げられるのだ。


 冗談もたいがいにしてほしいと罵ったのは、芳江だった。そんな彼女の口を、俺は、接吻で塞いだ……。



「大伴家持の長歌だ」

ぼそっと、桐原がつぶやいた。前に、彼が、教えてくれた。この軍歌は、『万葉集』から取られている。


 その日も、大伴家持作詞の、古式ゆかしい軍歌に続いて、大本営発表が行われた。

 例によって、日本軍は、アメリカさんに対して、連戦連勝なんだそうだ。




 草を踏む音が聞こえた。生い茂るヤシの葉をかき分けて、軍曹が戻ってきた。最前、俺を殴り倒し、自分のストレスを発散した上官だ。


 俺は身構えた。


 「ここにいたか」

軍曹は、じっと僕を見つめた。蛇のようにいやらしい目だ。

「一週間後、わが師団は、航空地上部隊と合流するため、密林を南下する。お前をその斥候に命じる」


 敵兵がどれだけ潜んでいるかわからないジャングルの中を、偵察してこいというのだ。

 敵兵だけではない。ジャングルの中には、毒蛇や毒をもつ植物、また、どのような獣がいるか、知れたものではない。

 ただでさえ危険なジャングルに、栄養不足の弱った体で偵察に入るのは、命がけだ。


 軍曹の目は、残酷な喜びに輝いていた。

 これは、懲罰人事だと、俺は確信した。純粋に、私怨だ。彼は俺……自分に批判的な部下……を、死に、直面させたいのだ。


 ついで、というふうに、彼は付け加えた。

「だが、一人というわけにもいくまい、桐原、お前も一緒に行け」


 汚い黄色い歯をむき出して、桐原に笑いかけた。

「いつも、こんなやつと一緒にいるからだ。桐原、お前のことは、気の毒に思うよ。だが、これは、命令だ」


 俺と桐原は、起立し、敬礼した。

 そうしなければ、ならなかった。

 背後では、まだ、あの「海行かば」が、繰り返し歌われていた。


 軍曹の目が、桐原の手に向けられた。

「『万葉集』か。まあ、せいぜい、天皇陛下のしこ御楯みたてとなるんだな。お前らのような半端者は、死んでなんぼの、御奉公だ」


「それは、違います」

桐原だった。


 彼が、上官に口応えしたのは、後にも先にも、これが、初めてのことだった。

 絶対に逆らわないと思っていた男に刃向われ、軍曹は、一瞬、ひるんだ。


 その一瞬の間に、俺は素早く、軍曹と桐原の間に割り込んだ。


 「こらぁ! 上官に逆らうかぁー!」


 振り上げられた手は、俺の頬を、鈍い音をたてて殴った。

 軍曹は、はっとしたように、自分の手を見た。


「俺は何もしていませんよ。今はね」

 俺は、にやりと笑った。

「何もしていないのに、あなたにぶん殴られた。もし、大尉殿がこのことを知ったら……」


 この男と違って、大尉は、無益な暴力をひどく嫌っていた。

 軍隊において、上下関係は絶対だ。


 「覚えてろよ」

軍曹は、悔しそうに唇を噛み、くるりと背を向けた。



 「ぼ、僕のことなど、放っておけばよかったのに」

軍曹が行ってしまうと、桐原は、おろおろと謝った。

「僕の為に、君が……。すまない。本当に申し訳ない」


「なに、いつもよくしてくれる、お礼さ」

 努めて何気ない口調で言った。だが、殴られて頬が腫れたせいか、我ながら、くぐもった声に聞こえた。


 桐原は恐縮しきっている。


「こんなことがあって、いいわけがない。君が、僕の身代わりになるなんて、そんな……。僕のことなど、放っておけばよかったのに」

「気にするな。あいつを脅してやれて、せいせいした」

「だって、君が……」


 桐原の顔が、ぐしゃと歪んだ。

 このままでは、泣かせてしまう、と、俺は思った。何か言わねばならぬと、焦りまくった。


「俺は、君を見直したぞ。軟弱な文学青年じゃ、なかったんだね」

「あの歌は……」


 桐原は、ためらった。それから、するすると口にした。


今日けふよりはかへりみなくて大君のしこ御楯みたてで立つ我は **


(今日からはすべてを顧みず、天皇の御楯の末になろうと、出発する、私は)

    


 「なんだ、今の俺らの状況そのままじゃないか」

桐原が詠じるのを聞いて、俺は呆れた。

「サル山のサル軍曹にも、少しは教養があったのか」


「違うんだ……」

桐原は、苦しそうに言った。

「このうたは……違う」


「違うのか?」

よくわからなかった。

「そもそも、大本営発表の時に流される軍歌だって、大伴家持の歌だろう? 『万葉集』には、俺ら若者を、戦地に送る歌があるってことなんだろ?」


「大伴氏は、軍人の家系だった。それに家持は、本当に、聖武天皇が好きだったんだ。聖武帝や、彼の血を引いた息子のことが。だから、彼の歌は、職業軍人としての献身なんだ」


「だが、俺達は違う」

桐原の目を見据え、ゆっくりと言った。

「俺達は、赤紙一枚で、戦地へ呼ばれた。俺達は、職業軍人なんかじゃない」


「そうだ」

俺の目をしっかりと見返し、桐原は頷いた。

「そして防人達も、違う」


「防人?」

「九州大宰府に派遣された、庶民たち。『醜の御楯』の歌は、下野しもつけの国から派遣されてきた、防人の歌だ」

「へえ、そうなんだ……」


 ぶうんと、音を立てて、蚊が飛んできた。

 僕は、舌打ちした。熱帯の蚊に刺されたら、大変なことになる。


「行こうぜ。任務の前に、少し、体を休ませておこう」


 俺は、ためらった。だが、今言っておかないと、手遅れになるかもしれない。思い切って、口を開いた。

「俺のせいで、君まで、斥候に巻き込んでしまって……。すまない」


「すまないなんて。馬鹿なことを言うと、怒るぞ」

頬を紅潮させ、唇を尖らせ、桐原は、本当に怒っているようだった。

「自分の言いたいことを言う君は、僕の憧れだった」


「だが、生きて帰れるかわからんのだぜ……」

「ああ、僕は、生命力が弱いからな。君は、そう、思ってるんだろう?」


 図星をさされ、俺は、へどもどした。

 桐原は、ふと、まじめな顔になった。


「もし、僕になにかあったら……この本だけは、本土に連れ帰ってほしい。この本を、君と一緒に」

「そんな、大君の為に死ぬ、とかいう歌の載ってる本をか?」


 半分、冗談のつもりだった。

 もちろん、他人に聞かれてはならぬ冗談だったのだけれども。


 だが、桐原は、まじめだった。


 「君が、文学が嫌いなのは、よく知ってるよ。だが、覚えておいてくれ。僕は、防人の歌が、大好きだったのだよ」


 自分のことを「醜」いと言ったり、他人(天皇だって、他人だろ?)の「楯」になるだとか、そんな歌が好きだとは。

 桐原は変なやつだと、俺は思った。








☆―――――――


*巻一八 4094 

**巻二十 4373(訳も)







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