第2話 浜辺の恋人

 軍での生活は、過酷だった。

 俺はよく、わけもなく、上官から殴られた。わけは、あったのかもしれないが、意味がわからなかった。

 行動が遅いとか、姿勢が悪いとか、目つきが気に入らないとか。


 まあ、言いがかりである。


 だが、ひとつ、わかったことがある。

 人間は、自分より弱い者をいじめて、自分の心に巣くう不安や苛立ちを消そうとする。



 体罰は、激しかった。正直、反抗する気力も失せるほど。

 桐原は、そんな俺の傍らに、いつもいてくれた。

 もちろん、表だって庇ってくれはしない。


 「吉塚君は、少尉殿に対して不平な気持ちなんて抱いてはおりません! 不平そうに見えても、もともと、こういう顔なんです!」


 こんなことを申し立てたら、桐原本人まで、リンチに遭うだろう。

 そうなったら、ひ弱な彼は、生きては帰れまい。


 彼はただ、兵士たちのいなくなった集会場に最後まで残り、倒れ伏した俺が起き上がるのを、手伝ってくれた。殴られて赤く腫れた俺の頬に、水で濡らした手拭いをあてがってくれた。営倉に閉じ込められた時には、自分の分の食事を減らし、こっそりと差し入れてくれた。


 桐原は、そういう奴だ。


 彼は、背嚢の底に、文庫版の『万葉集』下巻を、忍ばせているような奴だ。ただでさえ手榴弾や実包、飯盒や下着などで重装備だというのに。



「本当は、上巻も持ってきたかったんだけど、荷物でね」

 俺に本を見つけられた時、顔を赤らめて、桐原はそう言った。

 華奢な体つきの彼には、文庫本一冊でも、大変な負荷がかかるだろうに。無駄なものなど、持ち歩けるものではない。


「そんなに、その本は、おもしろいのか?」

 ぺっと、血の混じった唾を吐きだして、俺は尋ねた。


 例のごとく、目つきが気に入らないと言われ、上官から、死ぬほど殴られた後だった。口の中のどこかが切れたものとみえる。



 夕方、比較的涼しい時間帯だった。

 緑の木々が、さわさわとなびき、桐原の読む文庫本に、影を映していた。



 「うーん」

桐原はうなった。


 殴られて気が立っていたせいか、俺は、ちょっと残酷な気分になっていた。

「明日の命も知れない時に、本を読むなんて、どうかしている」



 あいかわらず、将校たちは、口では勇ましかった。情報は、徹底的に管理され、戦況は、俺らには伝わってこない。


 だが、負け戦であることは、明らかだった。


 加えて、南の島特有の暑さと湿気が、体力を奪っていく。兵糧に乏しいせいで、ここ数日、満足な食事をしていない。木の根を掘って、かじっている奴もいた。そして、吐いたり下痢をしたりしていた。



「これくらいしか、読む本がないからね」

言い訳がましく、桐原は言った。


 確かに本土では、検閲やら何やらで、多くの本が絶版を強いられていた。貴重な紙に刷られた本は、政府の意向に沿ったものばかりだった。



 「文学は、軍に膝を屈した」

 俺は言ってやった。

 ただ、桐原を傷つけるためだけに。


 案の定、桐原は、悲しそうな顔をした。

 栄養失調でこけた頬が震え、何か言おうとした。が、言葉にならない。

 彼は、無事に復員したら、小説を書きたがっている。そのことを知っていたから、少し、気の毒になった。


 「君は、故郷に、いいなずけを、残してきたのだったね」

ようやく、桐原は口を開いた。


 痩せぎすの少女の面影が、脳裏に蘇った。

 芳江……。

 怒りに紅潮した頬と、刺すようなまなざしを、俺は心に封印した。


「親が決めた許嫁だ。無事帰れても、結婚するかどうか、わからん」


 照れ隠しもあって、わざと乱暴な口調で言った。

 だが、桐原はしつこかった。

「出征の時、見送りに来てた子だろ? かわいいじゃないか」


「きつい性格の女だ」

 そこがいいのだけれど。そんなことは、口が裂けても言えないが。


「人のことより、君だって、いい人を残してきたんだろう?」


 多少、ひ弱に見えるが、桐原くらいの男前だ。当然、恋人がいるはずだと思った。それも、両想いの。

 桐原がこんなんだから、きっとおとなしい、本の好きな文学少女に違いない。


 桐原は、にんまりと笑った。我が意を得たりとばかり、手元の本を叩く。

「僕の恋人は、この中にいる」


 思わず、笑ってしまった。桐原の茶番に、付き合ってやろうと思った。


「どこの姫君だ? 内親王か? 貴族の娘か?」

「なに、田舎ものさ。よく、浜まで誘い出して逢引きしたものさ」

「逢引き? やるなあ」


 大仰に、僕はのけぞってみせた。

 熱帯の、過酷な環境では、穏やかな故郷の話は、いい気晴らしになる。


「浜って、野合ですか。君、隅には、おけないね」

「まあね。僕の為に、おっかさんを裏切った女さ」


 手に持った『万葉集』を、桐原は読み上げた。



「駿河の海磯辺に生ふる浜つづらいましをたのみ母に違ひぬ *


(駿河の海岸の磯に生える浜つづらのように、末長くあなたを信頼して、母の心にそむきました)



 一瞬、呆気にとられた。だが、すぐに突っ込むことができた。

「うらやましいことで」


 してやったりという顔で、桐原が、にやりと笑った。

 俺達は、声を合わせて、笑った。








☆―――――――


和歌

『万葉集』中西進(講談社文庫)

※以下同


*巻十四 3359

現代語訳も







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