第37話 良い子
「どういうことですか?」
久保田は見当がつかないと景久に問いかける。
「人間は優しいだ賢いだ勇敢だと他者により型にはめられます。しかし所詮他者によって押された烙印に過ぎない。本人の望んだ姿ではないのですから。」
久保田はまだ理解できていないようだが景久には反論するわけにはいかないので大人しく話を聞いている。
「物静かな上品さを求められた人は、実は明るく活発に人になりたい。努力を褒められた人は、実は結果の方を見てほしい。情のある姿を求められた人は、実は理論主義である。このように本人の願望と周囲の評価は異なります。」
久保田はうつむく。
― 何故、説教されなければならないのか?娘を優しいと褒め自慢するのがいけないのか?彼の表情がそう云っている。
「優しさの形は人の数だけあります。物静かに話しかける人もいれば、世間に冷たいと思われても厳しい云い方で教えを授ける人もいます。誰にでも優しくすべきという人もいれば、嫌いな人にまで優しくする必要はないと考える人もいます。ですよね。」
「はい…。」
久保田は力の抜けた適当な返事をする。
「しかし、本人には一定の型のはまった優しさばかり周囲に要求されて、本人の考える通りの優しさができないでいる。そして要求に応えた通りの優しさばかりが褒められる。これは本人にとって屈辱的なことでしょう。」
景久はサキに目を移す。
「それに優しさを求められた人は同時に、優しさを促してきた人々の言動も見ています。例えば…。」
景久は意地悪そうに久保田夫妻を一瞥する。
「誰にでも優しくしなさいと教えるけれども、当の本人は上の人物に媚を売り、下に見た人物には威張り散らしている。それでも教えの通りにしたけれども、他の子は嫌いな人は嫌いと普通に云っている。誰にでも優しくという教えに反している。というのに、その子の発言と行動を叱られていない。」
久保田は重い唇を開いた。
「はい、確かに…そうした方もいらっしゃいますね。他人の事をとやかく云える立場でないのに。」
「…。」
久保田夫妻を除く者は皆黙り込んだ。
この夫妻は自身の事だと気づけていない。
「私には…。」
突如金切り声が響いた。
「私には…お父さんとお母さんは…毎日…。」
金切り声の主―サキは今まで溜め込んできた思いを爆発させた。
「毎日…。他人に優しくするように…悪口はどんな理由があっても駄目な事だと云っています…。でも…。」
サキから苦しそうな台詞が次々と飛び出してくる。
「女中には私には絶対にしては駄目だと云った言葉遣いと喋り方をしています…。家に来られたお客様が帰られた時には悪口を云い…工場の女工たちの事も不平不満ばかりだ雇ってやっているのにと云っています…。大塚家の皆様に対しては不気味だといろいろと…。」
「サキ。あなた何てこと云うの?」
夫人はサキの台詞を止めさせようと慌てふためいた。そして青ざめながら轟木家の面々の顔色をチラチラと見ては心配している。
久保田は冷や汗をたらし、景久に弁明をした。
「女中は出来ない奴なので叱ったまでです。女工たちは私の仕事での苦労を語る上でありのままを話しただけです。別に虐げているというわけではありません。お客様について娘の勘違いでしょう。」
轟木家の様子ばかりを気にする夫妻に景久は口を静かに開いた。
「娘さんの勘違いだと云うなら私たちよりも娘さんに告げるべきでしょう。」
「そうでしたね…。さすがは景久様…。娘には厳しく云い聞かせます。サキ…。いろいろと説教したいことが…。」
裏返る声で久保田がサキに向かうと同時にサキは思いの爆発を続けた。
「私には悪口は駄目だというならお父さんたちの云う悪口は…他の方が云う悪口はどうなるのといつも考えていました…。私には使うようにと厳しく云われてきた言葉遣いも…。同級生はそれを使っていないのは何故なのか、使っていないのに何故叱られないのかが解りませんでした。」
「やめなさいサキ。」
「いいえ続けさせなさい。」
夫人が叫ぶと景久が制した。夫人はぐっと堪えるように唇を噛み締めた。
「いつものように良い子と決まって云われているうちに…。それが私の本当の姿なのかと思いました。」
「それが…本当の姿じゃないか…。」
久保田は喚く。もはや子爵家の前であることを忘れてしまっているようだった。そして娘を説得するようにあれやこれやと語りだす。
「忘れたのか…。親戚が病気の時に見舞いに行った時の事…。女中が怪我した時にお前が大丈夫と駆け寄った時の事。通りすがりの人の落とし物を拾って追いかけて届けた事もあっただろう。その時、皆お前に礼を云って褒めていたぞ。お前は小さい頃から…。」
「それ以外で褒めていることは何ですか?」
久保田を一刀両断するような声だった。傍観をしていた藤世が突然口を挟み始めた。
「それ以外って…。」
「賢さ、特技。褒める所は他にもあると思いますが。」
「一番大事なのは優しさだろ。」
「そうよ。」
久保田夫妻は藤世にお前なんかが話に加わるなとばかりに怒鳴り散らす。
「それでサキさんの良い所は他に何ですか?」
今度は景孝が口を挟んだ。景孝は現子爵の息子であるため久保田夫妻は大人しくした。
「…娘は裁縫と古典が得意で、生け花とピアノを嗜んでいます。」
するとサキは否定した。
「裁縫は學校の課題だからしていますが、それほど好きではないです。」
「えっ‼」
久保田は声を上げて驚いた。夫人もそうだったのと衝撃を感じている。
「古典は父に勧められて読み、母に云われた通りに百人一首を暗記しました。ただそれだけです。」
サキは必死で想いを両親に告げる。今云わなければ、同じ機会は二度と来ないとでも思ったのだろう。
「つまり。あなた方はそれほど娘を見ていなかったのですね。」
「いや…そんな…。」
「ただひたすら優しい優しいと決まり文句を並べるだけで誤魔化していたのですね。」
景孝の口ぶりは優しく丁寧だが厳しさもあった。
「私…優しいねとばかり云われて嫌だった…。優しい子をやめたかった…。いっそのこと悪い事をしたかった。」
「それで鈴蘭を持ち出したんですね。」
建介に云われ、サキは小さく頷いた。
「學校で危ない植物があるから気を付けなさいと教えられて…。家にある鈴蘭を見て…それで…。」
「サキ。だからって…。」
久保田は自慢の娘に向かって吠えた。
「しかし、結局は鈴蘭を茶に入れることが出来なかったのですね。」
景久が久保田を制すかのようにサキに優しく語り掛けた。
「もう優しい子としか云われない暮らしを終えたいと思いました。でも、実際に鈴蘭を入れようとすると…どうしても…。人の命を危険にさらすと思うと手が震え、花見を樂しむ皆様の姿を見ると手が前に進みませんでした。」
サキは云い終えると同時にうつむいた。
「成程、あなたの善意が勝ったのですね。」
景久は微笑む。そして久保田に向かってこう云った。
「確かに優しい娘さんです。しかし、娘さんをしっかりと見て褒めるべきでした。未遂に終わったことです。サキさんは思いとどまり被害者は一人も出ていません。この事は皆さん内密にお願いします。この場にいない関係者にもこの旨を伝達もしくは誤魔化しますので。」
景久は全員を見回す。
景孝と静子は「はい。」と返事をする。
藤世は柔らかい微笑みをしながら頷いた。
建介は遅れながら「了承しました。」と告げた。
久保田一家は「ありがとうございます…。」と頭を下げた。喜びに対するお礼ではないため、三人とも暗い表情であった。
サキは自身の行いへの罪悪感と後悔反省から…。
久保田夫妻は今まで通りの態度で轟木家に接することが出来なくなってしまったという絶望と落ち込みから…。
建介は久保田夫妻の沈みようを目に焼き付ける。横柄な姿と比べると同一人物に見えなかった。
(あの事は伏せておこうか…。サキさんのためにも…。)
サキが鈴蘭の葉を手に持ち、伸ばした先にあった湯飲み。松の絵柄が描かれていた。
久保田夫妻のために用意された湯飲みだということを…。
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