第35話 鈴蘭の庭
櫻から離れた場所だった。
鈴蘭の花壇。今はまだ花を咲かせてはいない。これから咲かせることも不可能となった。
「これはひどい…。」
建介は思わず呟いた。
鈴蘭の葉は無慈悲にも切り刻まれていた。刻まれた鈴蘭の葉は真っすぐな切断面を露にして花壇一体に散らばっていた。
そして花壇の前には枝切ハサミが地面に突き刺さっている。
建介はハサミに近づき、刃を見た。刃にこびりついた緑色。鈴蘭の葉の切れ端だ。鈴蘭の切り裂きに使われた凶器はこのハサミで間違いないだろう。
「このハサミは屋敷のものです。」
タケが建介に教える。
他の使用人が駆け寄ってきた。中年の男は慌てながらタケに報告する。
「確認しましたけど、物置から枝切ハサミが無くなっています。」
「物置からは誰でも取り出し持ち去ることが出来る状態ですか?」
建介に尋ねられた使用人は答える。
「はい。かんぬきで戸を閉める程度で、鍵が無いと開かないわけではないので。」
誰にでも犯行は可能というわけだ。
「最初に発見したのは誰ですか?」
「私です。」
建介が尋ねるとすぐさまタケが名乗り出た。
「この人に、そろそろ會場の方へ戻ってこられるのか尋ねに行こうとしたんです。」
使用人の男もつられて答える。
「はい。私はお客様が集まられる前に庭中を危険がないか回って確かめていたんです。」
男は枝切りハサミを見つめる。
「先程、見た時は、鈴蘭の花壇は特に変わりはありませんでした。でも…まさかこんなことに…」
男は悔しそうだ。
今回の宴の主役は櫻だ。鈴蘭はまだ花を成さず、目玉ではない。とはいえ、花壇がここまで荒らされては警備の名が傷ついただろう。まして地面に突き刺さる大きな刃物は宴に相応しくない。凶悪さしか感じさせないのだから。
その時、後ろからとぼけるような声が聞こえた。
「何かあったの?皆集まって。」
建介が振り返ると藤世が立っていた。藤世は偶然のように花壇を覗き込み、わざとらしい驚きの声をあげた。
「うわあ。鈴蘭の葉がこんなに…。」
建介は恐る恐る藤世に尋ねる。
「藤世さん。今までどこにいたんだい?」
「どこって厠に。」
藤世はそう云ったでしょという顔をする。
「厠はお屋敷の中。大塚先生はお屋敷から出てきたけど、君とはすれ違わなかったと聞いているよ。」
ゆっくりと話しかけ、藤世を観察する。
藤世は動揺を見せなかった。
「お父さんが?気づかなかった。」
「気づかなかっただけなのか?」
「そうだけど。」
藤世は常人とは異なる恨みと慈しみを持ち合わせている。
主人を恨む奉公人の殺人を黙認し遂行を見守ることがあれば、犯人を痛めつける策を実行することもある。
といっても偉そうな事を云える立場ではない。
建介は自分が完璧な善人でないと自覚がある。憎たらしい人間がいたらぶん殴りたいという気持ちはあるし、その相手が困っている時は見捨てたいとも思っている。
藤世と共に犯人を庇おうと犯行を黙って隠そうとしたこともある。
それでも彼女の倫理観を見逃さずにはいられない。
「ねえ…建介さん。」
藤世は建介の気がかりを知ってか知らずか語りかける。
「切られた鈴蘭の葉はどこへ行ったのかな?」
「…。」
嫌な予感がする。
「毒なんでしょ。鈴蘭は。鈴蘭の浸かった水を飲んだら死ぬんでしょ。」
「…実行しようなんて考えてないよね。」
「さあ…。」
冷や汗が建介の頬を垂れる。
その時、横柄な声が聞こえた。
「どうしたんですか?」
声の主、久保田はその場にいる人たちを見下げるように見回した。久保田の側には夫人と娘のサキが立っている。
「あなた…鈴蘭が…。」
久保田の隣で夫人は口許を押さえた。夫人に云われて久保田は花壇へと目を移した。
「ああ何て事だ。せっかく子爵家にお渡ししたものだというのに…。」
久保田は怒鳴るように云う。
「一体、誰がこんなことを!!」
「まだ手がかりが少なくて、どうとも云えないです。」
建介が告げると久保田は相手を見下す顔つきをした。
「月島さん。あなた探偵なんですから。こんな事をした不届き物を早く見つけたくださいよ。頼みましたよ。」
命令といってもいい頼み事だった。
横に立つ夫人も何とかしなさいよと言いたげな厳しい視線を建介に送る。サキは申し訳なさそうな顔をするが一言も発さず、両親の様子を黙って見ていた。
(めんどくさい相手…)
建介は出来る事なら、久保田夫妻を蹴飛ばしたかった。だが、探偵として実現するわけにはいかない。堪えるしかなかった。
その時、久保田夫妻の後ろで藤世がタケに何やら囁いているのに気が付いた。藤世の囁きが終わると、タケはすぐさま夫妻に駆け寄り、こう告げた。
「月島様が捜査されますので、お屋敷の方でお茶でもどうですか?子爵家の方もいらっしゃいますので。」
タケのにっこりとした笑いに久保田は不機嫌ながらも承諾した。
「まあ確かに、ここで犯人探しが終わるまで待っていても仕方がない。景孝様への挨拶も途中で終わった事だし。」
「そうね。お屋敷に轟木家の皆様がいらっしゃるというのなら。」
夫妻は轟木家へのお近づきという目的に釣られ、サキを連れて屋敷へと歩みを進めた。
そして最後に建介に告げた。
「月島さん。捜査の方をしっかりとしてくださいよ。」
こうして建介への久保田夫妻の睨みつけは終わったのだった。屋敷に入る頃には夫妻は、おべっかのための笑顔に切り替わっているだろう。
「それでは私はお茶の準備がありますので。」
タケが夫妻の後を追うように立ち去った。
「大変だったね。」
藤世が建介を憐れむ。
「最初の依頼の時から感じていたけど、絵に描いたようなお偉いさんだよ。」
「殺したくなった?」
そうだと思わず答えそうになり、建介は口を慌てて押さえた。その様子を藤世は面白そうに笑う。
「むかつかない方がおかしいよね。」
「はっきりと云いづらいのも人間の自然の心理だよ…。」
建介は藤世に云い返した。
「それより、タケさんに話してた事は久保田さんにお茶を出してだけか?」
「あとは…お茶を用意したら、すぐには出さずに少しの間その場を離れてと伝えたよ。」
藤世は内緒話にせずに包み隠さず話してくれるようだ。
「…で何のためにタケさんに離れてもらうんだ?」
「それは…秘密…。」
結局は内緒話にされてしまった。
建介はため息をつくと警備をしていたという使用人に目を向けた。
使用人は鈴蘭の被害をどうしたものかと思い悩んでいる。建介は声を掛けた。
「あの最初に花壇を確認した時の話を聞かせてもらえますか。」
「ああ…その時、會が始まったばかりの頃は何の異変も無かったよ…。」
随分と力の抜けた声だった。
「ついさっき花壇を通り過ぎた時も何も無かったんだ…。それなのにタケさんに呼ばれて来てみたら…。」
「てことは今切られたばかり…。」
建介は鈴蘭を眺めた。
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