第9-1
あ、今蹴った!
女の子かな、それとも男の子かな~?
ねぇ、名前どうする?
会えるのを楽しみにしてるよ、私の赤ちゃん。
ハルトー、聞こえるかー、パパだよー。
元気なお子さんが生まれましたよ。
あずさ、ママだよ。
ちひろ、パパでちゅよー。
かずき……。
えみ……。
けんた……。
ーー愛してるわ。
どこか見知らぬ女性の声を最後に、アンは目を覚ました。夢を見ていた。膨大な歴史の中で、生まれてきた、また生まれることの出来なかった胎児たちが持つ僅かながらの記憶を。
ある時は、女の子の名前だった。またある時は、男か女か聞き分けのつかない名前てあった。名前が無い子たちもいる。その多くは望まれなかった者たちだ。そんな無数の魂たちがアンの中にいる。魂たちが集まって、『アン』という存在をつくっている。
どの名前も馴染んだものはない。どれも定着する前に命を落としてしまったからだ。
アンはハッとなって、自分の顔に手を当てた。目の下が濡れている。
「また泣いちゃった……」
次の瞬間、急にアンの視界が真っ暗となった。
真っ暗な空間。何も見えない。だた佇んでいると、アンの中にいる魂たちの声がワラワラと頭上から降ってきた。アンは必死になって、その声に触れないように避けた。
『聞こえない場所に……』
怖くて泣きべそをかきながら、逃げ惑った。『ママ』にもよく言われていたからだ。その声に決して近づいたらダメ、耳を傾けてはダメ、と。その言いつけが、アンをより怖がらせた。
しかし生まれることができなかった魂たちの悔しい、強い負の念が、アンを暗い谷底を持つ断崖へと着実に追い込んでいった。
『昔のことをつい思い出してしまって、落ち込んだり苦しかったりしたときは、これからをどうしたいのか、明るい未来を想像するの。ワクワクするでしょ? そうすれば、ほら不思議。そんな辛い気持ちなんか吹っ飛んじゃうから』
気持ちが落ち込んだときの対処法を、アンは『ママ』から教えてもらった。それ以来、アンは多少魂たちがざわついても心を落ち着かせることができた。
しかし夢を見てしまった日は、そうはいかなかった。魂たちの言葉に意識が囚われ、『ママ』の言葉を思い出すことができないのだ。
悲痛な魂たちの叫びに、アンはただひたすら耐えた。
どうして私たちは、ちゃんと生まれることができなかったの?
どうして、やっとお外に出れたのに死んじゃったの?
私たちが悪かったの?
お腹でグルグル動いちゃったのが悪かったの?
パパやママに会いたかった……。
もっと生きて、いろいろ楽しいことやお話をしたかった……。
一度、心のドアが開いてしまうと、
『苦しい……』
チクチク程度だった魂たちからの攻撃は、一同集まって最終的には心臓をぎゅっと
『……』
アンはどこからともなく自分を呼ぶ声が聞こえたような気がした。魂たちの負の感情に押し潰され息苦しさを感じながら、アンはその声に耳を傾けた。
また声が聞こえる。
『しっかりーー』
そう聞こえたような気がした。その後も何度もその声が聞こえ、アンの気持ちは次第に暗い底から引き上げられていった。あるところで、その声の主が『ママ』であることにアンは気付いた。その瞬間、真っ暗だった視界が明るくなって、月下島の風景が目の前に戻ってきた。
「うん……大丈夫。ありがと、ママ」
アンにとって、魂たちの声に襲われることは何も珍しいことではなかった。ときどきこうして攻撃が激しく、精神を谷底まで追いやられてしまうときは『ママ』に助けてもらっていた。人の『腹が減ればご飯を食べる』のように、アンにとってこれはごく自然なこと。何事もなかったかのように、アンは背伸びをした。
『ママ』はアンの正気が戻ったところですぐに、アンが寝ているうちに起こった出来事を知らせた。それを聞くと、
「えぇ!? なんで、つまんない!」
アンは月下島の小高い丘に、ゴロンと寝そべり大の字となった。
「何で起こしてくれなかったの? せっかくお姉ちゃんと会えたのに!」
不満な表情を浮かべ、足をバタバタさせ
アンは大きく目を見開くと、薄い青い空に向かって大きな声で『ママ』と話をした。
「可愛かったなぁ、実歩おねーちゃん。え? どんなところって? うーん、髪が長いところ?」
アンの周囲には誰もいない。人間が見れば、独り言を言っているようにしか見えない。しかしアンにはしっかりと、宙に浮かぶ魂が見えていた。
「でもここから出ちゃったから死んじゃうかもね。“あの子”が許さないもん。私のお気に入りには厳しいから。え、私が助けるの? えー、私も“あの子”嫌いだから近寄りたくない」
寝そべりながら嫌そうな表情をすると、アンは顔をぶんぶんと左右に振って反対した。
月下島の入口から激流となって流れる水の音と、坑道が大きく崩れゆく音ーー。アンのいる場所までその轟音が届く。
驚いたアンは立ち上がって、その方向を見やった。
「あぁ、もうっ! “あの子”、やりすぎ! やっと、ここまでこの世界を作ったのに壊れちゃう!」
アンは怒りのあまり
アンが言う“あの子”とは、この月下島の番人。一歩でもこの島から逃げ出そうとした者は、例え、アンが擁護しても”あの子“は許さない。少しぐらいの脱走であれば、”あの子”の嫌がらせ程度で済み、そこで引き返せば何も問題はない。だが本気の脱走となれば嫌がらせではなく、その者の命を奪おうとする。特にアンのお気に入りの存在ともあれば、その審判は明瞭であった。
「わかってるっ! わかってるからって。落ちつくよ」
傍に浮かぶ魂の説得により、アンは興奮状態から引き戻された。
「え? この世界のこと? うーん、そんなに好きじゃないかな。だってみんな無表情だし、ただ踊ってるだけだもん」
アンはうつむくと、短く生えた芝生の先っちょを狙うように、振り子のような動作で右足で何度も蹴った。ここ、月下島を作る前のことをアンは思い出していた。
「ここに来る前、お祭りを見たことがあって、みんなワイワイしてて、ものすごく楽しそうなオーラを発していたの。だからそんなお祭りのような楽しい雰囲気の世界にしたいなって思ったんだけど……失敗しちゃった。えへへ」
横にいる魂に顔を向けると、アンは舌を出して可愛くおどけてみせた。
魂はアンに語りかけた。
『お……、……て』
「え、お姉ちゃんを助けるの? 嫌だよ、だってここ壊さないとダメじゃん。せっかくここまで作ったのに……」
アンの目には、地下深くに閉じ込められた実歩と謙輔の魂の
不満な表情を浮かべたアンは再び地面にしゃがみ込むと、三角座りをして自分の膝の間から目をのぞかせた。その目は月下島の入口を見据えている。
「結局さ、ママは私とお姉ちゃんのどっちが大事なの? お姉ちゃんへの手紙だって勝手に『黄な粉ちゃん』を使って、ママは何度も邪魔したし」
不貞腐れたアンは、魂のほうに目もくれず、遠方の入口から溢れ出す大量の水を眺めながら言った。『ママ』と呼ばれたその魂は、そんなアンに優しく問いかけた。
『……この世界の創造が、なぜ失敗したのか分かる?』
「うーん……お祭りが小さいから?」
『あなたが感じたお祭りの楽しいオーラは、人々から発せられたもの。人は一生懸命にその日その日を生きているの。楽しいことばかりでなく、辛いことだってある。それが生きるということなの。祭りはね、そんな辛い苦しい気持ちから、ほんの僅かな時間だけど開放してくれるわ。祭りを楽しいものにしたい。祭りを楽しみたい。そんな人々の幸せへの切なる想いが、あなたが見たオーラという形となって現れるの。やぐらの周りで踊っている魂たちは、この世にはもう生きていない。生きる辛さを持たない存在は、同時に楽しい想いも持てないの。魂たちはあなたが言ったから踊ってくれてるだけで、あんな見せかけの祭りじゃ全然ダメ。あなたが求めている楽しそうなオーラなんて、到底見ることができないわ。命令されて踊るなんて、あなたも嫌いでしょ?』
「うん……」
『私や他の魂たちもみんな、あなたのことが好き。だから例えあなたが間違っていたとしても何も言わないわ。言葉だけじゃ分からないことって沢山あるからね。色々経験して成長していけばいいと思う。でもね、今を必死に生きようとしている命だけは、ぞんざいに扱ってほしくないの。あなたにそんな存在になってほしくないの。例え、ここが無くなったとしても』
「うぅ……わかんない、わかんないよ! 難しくてママの言ってることがわかんない! じゃあ、ママはせっかく作ったここを壊せっていうの!?」
涙を目に浮かべながらアンは反抗した。
『私たちがあなたが好きなように、私もあの子が好きなの。だから助けてほしいの……お願い』
ママの言葉を聞き、
魂の集合体となって、行き場もなく彷徨っているとき、この月引村でママと出会った。ママはこの世界にいた私たちを見て一瞬驚いたけど、何かを悟ったような表情した後、言った。
『私と一緒にいる?』
生きることの出来なかった私たちが、初めて人の優しさに触れた瞬間だった。孤独で震えていた私たちの心は、なんだか温かいもので包まれたような気がして、涙が出そうだった。
お腹にいたときの感覚が、ふと脳裏のよぎる。何だか温かい。これはまるで……。
『ママ? ママなの?』
ママは一瞬、戸惑った表情をしたように見えた。でもすぐに、
『そう呼んでくれてもいいわ』
と言って笑顔で迎い入れてくれた。
アンにとってママは、初めて長く一緒にいてくれたママだった。何も知らないアンに色々教えてくれた。
『ママって、どうしていろんなこと知ってるの?』
『あなたよりずっと長く生きていたからよ』
『ママはいい子だったんだね。アンは体がよわいから……』
無数の胎児たちの記憶が、何重にもなって心が不安定になったときもあった。突然、涙が溢れ、言いたくないのに、つい悪い態度をとってしまう。でもママはいつだって、アンを優しく諭してくれた。
『アンは体がよわいから死んじゃったんだ。よわいからママたちを泣かしちゃったんだ。アンは悪い子なんだ。悪い子は、生きてちゃダメなんだ! そうなんだよね? うわーん』
幼すぎるアンの頭では、数えきれないほどの悲しみを背負うことはまだ荷が重すぎた。『アン』として存在してから、ようやく自分の気持ちを伝えられる相手が目の前に現れたのだ。ずっと我慢していた気持ちをアンは、ママにぶつけた。
『そんなに自分を悪く思っちゃダメ。生きているということ自体、奇跡なの。運が悪かっただけ。あなたは悪い子じゃない。だって、こんなにも悲しむことができるじゃない。そんな子が悪い子のはずなんてないわ』
また当てもなく彷徨うのことがイヤだった。寂しい想いをしたくなかった。もうママを失うのがイヤだった。どこにも行ってほしくなかった。
『ーーもう1人になりたくない……』
そんな強い想いだけが、ぐるぐるとアンの中で渦巻き、助けることを躊躇させていた。
ーーアンはママの方に向き直った。
「……ママ、あのお姉ちゃんのところに行ったりしない?」
上目遣いとなって、アンは恐る恐るママに伺った。
『もちろん。ずっと一緒よ』
柔らかい声がアンの中に広がり、疑心暗鬼で暗かった表情に、いつもの明るい笑顔が戻る。
「よかった!」
大きな声で元気にアンは叫び、喜んだ。
「しょうがないなぁ。また
『また一緒に世界を作りましょ。でも次は、他の魂たちもたまには外に出して休憩させてね。あんなところでずっと踊ってるのも退屈なんだから』
「うん、わかった!」
『ありがとう……アン』
ママに向かって、アンは元気に微笑んでみせた。
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