第8-4

 今にも途切れそうな弱々しい息遣いで、私の腕の中で謙輔が眠っている。一度、起きて会話ができたと思っていたら、また気を失うようにして眠ってしまった。今度は彼の生きた気配が急に小さくなったので、死んでしまったのかと焦ったけれども、小さく立てる寝息を再び聞くことができて、私は僅かながら安堵した。

 彼が眠ってから、体感的に1時間くらいは経っているような気がする。ただ実際、どれくらい経っているのかは分からない。その間、私はひたすら彼の頭を持ち上げて、溺れてしまわないよう水面より顔を上に出してあげた。

 はだけたウィンドブレーカの隙間から見える、真っ赤に染まったシャツが本当に痛々しい。水かさが上がり、彼の左横腹の傷口を水面がゆらゆらと動き洗い流す。垂らした絵具のようになって、血が広がっていく。


『傷口をもっと強く圧迫してあげた方がいいのかな? でももし痛くて起こしてしまったら嫌だし……』


 小さな息遣いは、どれくらい繊細なのだろう? 何か余計なことをしてしまうと、すぐにそれが消えてしまいそうで怖かった。

 女の力では、男の上半身を持ち上げるだけでも堪えてしまう。右腕で彼の頭を支え、左手では傷口を抑える。腰まで水に浸かった状態で、そろそろ私の体力的にも限界だ。

 だけど、こうして誰かを支えるのは、なかなか悪くない。まるで自分が子守をする母親になったような気分で、気を緩めればすぐに目の前にある命が落としかねない。そんな状況でないと、自身の存在を肯定できない自分に辟易したが、それでも生きることを許されたような気がして気持ちが高ぶった。

 彼の身体を引き寄せ、ぎゅっと右腕で抱きしめるたびに、気付かないふりをしていた彼への愛おしさが私の心を揺さぶる。


「ふふっ」


 見下ろし、見える彼の横顔の表情が心なしか穏やかに見える。いや、喜んでいる? 大変な状態だというのに、彼のニヤけたように見える口元に思わず私は笑ってしまった。


『どんな夢を見ているのだろう?』


 彼の好きそうなことを思い浮かべる。月引村での楽しい時期を思い出しているのだろうか、大学で学んでいる林業のことだろうか、それとも……。

 どんなに頭を捻っても、彼の好きそうなことに辿り着くことができなかった。よく考えれば、いつも彼は私ばかりを見てくれていて、私も自分の話ばかりをしていた。これだけ長い付き合いだというのに、彼の好きなことを深く聞いたことがなかった。会えば、彼はいつも優しく、楽しそうな表情をしていた。だから、そこに興味がいかなかったのかもしれない。


「自分勝手だよね、私って……」


 こんな怪我をしてまで、激流の中に飛び込んで私の手を掴んでくれたこと。申し訳ないと思う一方、本当に嬉しかった。傍にいてくれることが、どれほど勇気づけられるか。彼の身体がこんな状態でなかったなら、抱き着いて跳び上がって喜んでいただろう。

 周囲は懐中電灯の明かりのみで薄暗い。1人であれば心細さから、きっとうじうじとずっと泣いていたに違いない。

 彼が最初に眠ったとき、私は座ったままの体勢で色々なことを考えた。そして理解した。彼が寝ていてくれて、本当に助かった。往生際の悪い私の無様な姿を、晒したくなかったからーー。




 私は腕時計の表面に付いた水滴を軽く親指で拭い、もう一度動いていないことを確認した。やはり何度見ても、一度壊れてしまったものは元には戻らない。大きくため息をついた。

 単に故郷に帰ってきて、ふらっと鉱山に立ち寄っただけだというのに、急にお父さんが現れ、帰り際には水難事故。しかも謙輔が大怪我だ。


『本当にツイていない』


 そんな言葉でしか言い表せないほど、連続的に気に入らないことと思わぬ不幸が続いた。目の前で起きている現実に、私の頭は追いつくことができず、年齢不相応につい大泣きしてしまった。そう簡単に受け入れられるものではなかった。

 大泣きすると、少し落ち着きを取り戻すことができた。『このままじゃいけない』。自分を鼓舞した。座りながら懐中電灯で周囲を照らし、出口がないかと細かく探した。しかし現状を打破する方法がないと分かると、絶望からまた泣いた。今度は、涙が枯れるまで泣き続けた。今の私には、それしかやることが残されていなかった。現実を受け入れる、ということしか。

 無気力症から生きる気力が湧かず、衝動的に何度か『自分の命を絶つ』ことを考えたこともあった。だから死に対する窓口は人よりも大きく、抵抗もないだろう。だけど、自らではなく、向こうから死がやってくると、また話は別である。言いようのない恐怖が私を襲った。

 そして涙が枯れ、泣き疲れてくると、自然と私は受け入れる体勢となった。現状を理解し、受け入れ、そしてある程度の覚悟が生まれたとき、感じていた不安や悲しみは自然と去っていった。乾いた感情だけが残り、淡々とこれまでの人生を振り返る自分がそこにいた。


「他に何があったかな?」


 勝手に喧嘩して仲直りもせずお母さんが亡くなってしまったこと、それを機に自分の性格が変わってしまったこと、引っ越したこと、あとは……。

 たった19年しか生きていないのだ。いや、2年経っているのなら21歳か。良い人生だった、と振り返って思いたかったが、それほど心に残る場面はなかった。

 自分の人生が薄い紙切れのように感じた私は、少々憂鬱な気持ちだ。じゃあ何が一番楽しかったかと問われると、それも思いつかない。カラオケや遊園地みたいな娯楽は私の性に合わず、高校生のとき誘いがあればついては行ったが、自分から積極的に誘うことはなかった。それに引っ越してからインドアな性格に変わった私は、専ら楽しみは家の中にあった。読書、園芸、映画。地味な趣味かもしれないが、毎日が休みの私にとって、それらが人生を彩る生き甲斐となっていた。


「あ……そういえば本」


 市立図書館から本を借りていたのを思い出した。このまま私がここで死ねば、誰が返してくれるのだろうかと、ふと思う。たしか借りていたのは園芸に関する本だった気がする。今ほど過激な本を借りてなくて良かったと、心底思ったことはない。濃厚なラブロマンスを描いたものや官能小説を滅多に読むことはないが、その時の精神状態によって出来心で借りることもあった。別に赤の他人にバレたところで何とも思わないが、おそらく返却するのはお父さんだろうだから嫌なのだ。自分の恋愛嗜好が異性である自分の父親へばれるてしまうことに、何となく嫌悪感を持ってしまう。生理的なものだから、仕方のないことだ。例を挙げるとするなら、自分の裸を包み隠さず父親に見られているような感じだ。顔から火が出るほど恥ずかしい。

 ひとしきり自分の人生を振り返ると、私は再び目の前にある現実に向き直ったーー。



 今にも消えそうな小さな息遣いは、まるで赤ん坊のように儚い。そしてときどき苦しそうに、腹の底からうめく。どうしたら、もう少し彼を楽にしてあげられるだろうか? 起こしてしまわない程度の力で、私は彼の左肩を優しくさすった。

 振り返ると、私の人生のどの場面にも彼はいた。いつも私を支え、元気づけてくれた。本当に私が感じるこの感謝の気持ちは、どんな言葉でも言い表すことができない。ひょっとして、これが愛というものなんだろうか。

 彼から『彩香と付き合った』と聞いたときは、正直見ず知らずの他人の恋愛話でも聞かされているかように何も感じなかった。だって昨日の夜に、彩香から宣戦布告されたばかりだ。小説を読んで、意外な2人が恋愛関係になって『へぇ、そうなんだぁ』と驚いている感覚と一緒だ。

 しかし今は、なんだか少し悔しい。私という存在がいなくなった途端、すぐに彼に恋人ができたのだ。しかも彩香のような派手で色気のある女性だ。これだけ長い間、一緒にいたのに私の知らない彼がまだいたような気がして残念でならなかった。


「あなた、あんな派手なタイプが好きだったの? 私のこと、好きだったんでしょ?」


 小声で囁くように言うと、彼の左頬を指で、つんと軽く押してやった。私からのささやかな反撃だ。思わず『ふふっ』という笑みの声が漏れる。

 誰にも誰かを縛る権利などない。それは私たちにも言えること。だから彼が誰と付き合おうとも、私には関係ない、関与してはいけないのだ。だからショックではあるものの、彼を非難するつもりはなかった。そもそもこっちは、付き合ってもいないのだから。人が良い彼のことだから、私がいない世界できっと何か色々あったんだろう。彼からの積極的な意志ではないことに、私は期待した。


『私の代わりに、彩香が謙輔の横にいる』


 そんな光景を想像すると、何だか心残りだ。お母さんのことがなければ、私は彼の想いに躊躇することもなく応えていたかもしれない。手をつないで、映画を見たり、カフェでお茶したり、帰りに園芸屋さんなんかに寄ったり……。今より一歩進んだ関係なって、連れ添ってデートをする。それは私が心の奥底で望んでいた関係なのかもしれない。

 お母さんを亡くし、お父さんとも仲があまり良くなく単身赴任で、家には私1人。家族からの愛を享受することがなくなってしまった私に、彼は愛されることを思い出させてくれた。彼なら家族になってもいい。そう言っても過言ではないほど、私は彼のすべてを受け入れていた。

 本当の家族になることができたら、どれほど良かったか……。お母さんのことにこだわりすぎてしまった結果、本当に自分が望む未来へ歩むタイミングを逃してしまったのかもしれない。ただそれだけが後悔だ。でも……、


「一緒に過ごせて本当に楽しかった。本当に幸せだった。ありがとう、謙輔……」


 これが、今の私が伝えられる精一杯の言葉なのだ。本当にありがとう。

 私は小さく息をする謙輔をぐっと抱きしめた。

 




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