第8-3

「え……どうして、そんな……」


 僕の左腹部の服に広がる血を見て、明らかに実歩の言葉に動揺が見えた。


 腹に感じた鋭い痛みを伴う衝撃ーー。


 そうか……、さっき感じた衝撃は、ただ地面に体を強く打ち付けたのではなく、何かが刺さった感覚だったのだ。あのとき、壊れた『とうみ』の破片が、ちょうど飛んだ先に多く流れていた。その破片が刺さったのかもしれない。


「そんな……そうだ、手当。手当てしないと!」

「いいよ……このまま……手で、圧迫するから」

「何言ってるの! そんなので良いわけないじゃない!」

「せっかく……せっかく会えたんだ。少し、話をしようよ……」


 実歩に顔を向けることもなく、岩場に転がった懐中電灯からまっすぐ伸びる光線の先を半開きとなった目で見つめ、僕は出来る限り冷静な口調で言ってみせた。

 僕までも実歩と一緒になって熱くなって話ていては、また無駄な口論に発展してしまう。実歩の動揺した想いに感化されまいと、僕は落ち着くように念じるように自身に言い聞かせた。

 それに分かっていたーー。こんな場所で、この傷の手当をするなんてどう考えたって出来やしないことを。どんな名医であっても、この環境下でこれを食い止めるのは至難の業だろう。押さえた手で感じる傷口の大きさは、もうどうしようもないほどの絶望を僕に突き付けていた。

 どんなに傷口を手の平で押さえつけて圧迫しても、ヌルっとした温かいものが僕の体内からとめどもなく、じわじわと流れ出てくる。体表面は冷えているのに、中から出てくるものは温かい。不思議な感じだ。

 負傷が発覚してからまだ数分ぐらいしか経っていないというのに、僕の中ではすでに『生』への諦めのようなものが芽生えていた。

 そこに執着心や恐怖心といったものはない。おそらく血を流し過ぎたのだろう。僕の脳は次の世界に行く準備に舵を切り、不思議と今の自分を冷静に見つめることができた。大きな絶望に殴られ、焦燥感を味わったのは、ほんの僅かな間だけであった。そして実歩もそれ以上、僕に手当てを勧めることはなかった。それが出来るほど、ここに潤沢な設備が揃っているわけではないことを、彼女も頭では分かっているのだ。

 体を起こしているのが辛かったので、僕は左横腹を天井に向け横になった。頭が辛そうだからと、実歩が膝枕をしてくれた。

 何年ぶりだろうか。こうして誰かの膝に頭を乗せ、こんな幸せな気持ちになれるのは。

 僕は目を閉じ、このささやかな幸せな時間を味わった。こうして実歩の傍にいるだけで、安心感と達成感のようなものが込み上げてくる。

 ーーこの2年間、ずっと探していた。何をしても上の空で、身が入らない。充実感が一切なかった。ただ生きているだけで、自分の体なのにそこに自身の意思はなく、誰かが操る木偶の坊となっていた。感情も何も湧かなかった。笑顔になったり、笑い声を発したとしても、それはその場しのぎで作られたものだった。

 今、この一瞬ーー。沸き立つ想いは、その2年間で得た何よりも濃く、キラキラしていて、そして幸せだ。この後、自分がどうなろうとも悔いがない。そんな風にさえ思えた。

 しかし、たった一点だけ、こんな状態であるにもかかわらず、やはり心残りがあることに気が付いた。人間、欲深いものだ。それは、自分の気持ちを実歩に伝える、ということであった。生まれてこの方、実歩に自分の想い告げたことは一度もない。

 この機会に自分の想いを、きっちり伝えるべきだろうか? 僕は前に広がる揺れる水面に漠然と目を落とし、かすむ意識の中で集中し考えた。しかし結局、答えが見つからなかった。

 諦めた訳では無いが、僕はとりあえずこれまでの経緯を実歩に話すことにした。もしかすると流れが変わって告白するタイミングができるかもしれない。そんな偶然に頼らなければならない自分は、本当にどうしようもなく無様であるが、この際どうでもいいだろう。

 あれから2年が経っていること、僕が大学生になったこと、実歩を探しにここへ裕二さんと一緒に来たこと、陽介のこと。そして……彩香と付き合っていること。この2年であったことをすべて話した。

 実歩がどんな顔をして聞いているのか、この体勢では全く分からなかったけど、ときどき僕の頭を優しく撫でて応えてくれた。彩香と付き合ってることについては、後ろめたさのようなものがあったので、撫でられるたびに僕は涙が出そうになった。


 『許してあげる』


 そう言ってくれれば、どれだけ僕の心は救われただろうか。しかし実歩は何も話さなかった。ただずっと、僕の頭を静かに、そして優しく撫でるだけであった。

 僕の腹から出た血が蛇行し、赤い糸のようになって岩場の上をどろどろと流れていく。それをじっと見つめながら、僕は話し忘れたことがないかと頭を巡らせた。しかし思考が脳の深部まで届かず、表面の領域でとどまってしまう。脳の奥まで回る血が、もうないのかもしれない。

 滝のようになって水がドドッと流れ落ちる音に、僕は目を閉じながら耳を澄ませた。まるで100mぐらい先で水が流れ落ちているのかと思うほど、遠くの方から音が小さく聞こえる。


『ドドドドドッ……』


 蚊が飛ぶようなその音は、集中していないとおそらく聞き逃してしまう。音がどんどん遠ざかっていくーー。

 一瞬、実歩の泣く声が聞こえたような気がした。気になって、すぐ実歩の口元らへんに意識を集中させ聞き耳を立てる。しかし実歩からそんな声は聞こえはしなかった。

 僕は目を開け、実歩の顔を下からゆっくり見上げた。懐中電灯の反射光によって薄く照らされたその顔は、喜怒哀楽のどの感情もない表情でじっと僕を見つめていた。


「どうしたの?」


 実歩が優しく僕に言う。


「さっき……泣いているような、気がしたから」

「ふふっ、そう? 寝ぼけていたんじゃない? 謙輔、一瞬寝てたから……」

「そっか…」


 実歩の言ったことを気にすることもなく、膝枕をされながら僕は目の前の水面に向き直り、再び眺めた。滝となって落ちる水が作る波紋によって、ゆらゆらと岩場との水際が動く。水際が作る境界線を目で追っていくと、岩場の上に置いてあったはずの僕たちのリュックサックが半分ぐらいの高さまで水浸しとなっていた。リュックサックの位置は変えていない。ということは、水位が上がってきているのだろう。そういえば岩場で寝そべり始めたときよりも、手を伸ばせば触れられそうな距離まで水面が迫ってきている。


『すべて水没するのかもしれない……』


 そんな言葉が脳裏によぎったが、その後に言葉は続かなかった。何の感情も湧かなかった。

 イカ墨のようなモヤっとしたものが目の前の水面上に漂っていたので、僕は片手を伸ばしてぱちゃぱちゃと分散させ遊んでいた。すると、いつの間にか横腹を押さえた僕の手の上に、実歩の手があった。驚いた僕は顔の角度を変え、実歩を見上げた。泣いているような雰囲気を感じ取ったが、涙は流していなかった。しかし、


「ごめん……ごめんなさい」


 実歩の顔に暗い影が落ちたかと思うと、悲痛な面持おももちで僕に謝った。そんな表情でいて欲しくなかった僕は、咄嗟に思い出した過去のことで話を逸らした。


「昔……こんな風に実歩が膝枕してくれたときがあったよね」


 重い腕を気力を絞って持ち上げると、実歩の頭を軽く撫でた。


「たしか……年上の村の悪ガキに、僕がからかわれていたとき……」

「うん……」

「実歩が割って入ってきてくれて……怒った悪ガキたちが実歩を殴りかかろうとした……。でもそのとき咄嗟に僕が間に入ってしまって、僕が……代わりに殴られたんだ。あのときは痛かったな……ふふっ。でも嬉しかった。僕を……そんな風に守ってくれる人がいて。友達っていいなぁって初めて思えた……」

「うん……」


 友達……か。自分で言った言葉に、改めて僕は呆れた。あれから何年経っているというのだ。こんな状況でも、実歩とは友達以上の触れ合いしかできないことに、これまでの自分の不甲斐なさを強く悔いた。せめて、せめて最後に……。


「ねぇ、聞いて……」

「うん」

「僕は……実歩が、実歩のことを……」


 しかし喉から出かけた言葉を僕は飲み込んだ。こんな状況ですら、実歩に気持ちを伝えることはできないのだ。男として本当に情けない話だ。お母さんへ気持ちを実歩は、まだ清算できていない。それを差し置いて、自分の想いを優先することにどうしても気が引けてしまうのだ。これが僕なんだ。自分に失笑し、思わず口元がほころんだ。

 ならば最後は、僕らしい言葉で……、


「実歩、ありがとう」


 その言葉を聞くと、悲しい表情をしていた実歩は、僕に健気に微笑んで見せた。


「ううん……私もありがとう」


 この空間に降り注ぐ水の音が、絶え間なく遠くから聞こえる。水面から露わになっている岩場の表面は、もうどこにもなかった。水面はもう僕の背中、実歩が正座する膝のところ辺りまできている。

 もう時間の問題だろうーー。朦朧とする意識の中で、僕は訪れる最後を静かに待っていた。

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