第8-2
ーー瞬間の出来事であった。
真っ暗闇で流されている最中、何度も飲みたくない水を飲まされた。ただ急流に身を任せ、抗うこともできない、自分の意思が全く通じない状況に、体が硬直するほどの恐怖を感じた。
これから僕たちは、一体にどこに連れられていくのだろう。そんな悠長に考える余裕もなく、見えぬ闇の一点を無駄に凝視しながら、叫び声すら発せず淡々と流されていった。
すると突然、ジャングルにある大きな滝の上からダイビングしたかのような浮遊感が襲った。体験したことのない滞空時間を味わうと、勢いよく水の中へ足から落ちた。
「どっぽんっ!」
深い。学校のプールなんかよりも深い。周囲が暗くて見えなくとも、ため池のような場所に落ちたのだろうと直感した。
水中で目線の先に、しかしどれくらい先なのか分からないが、一点で輝く光を見つけた。そんな状況であるにもかかわらず、なぜか僕はこのとき胎児を連想した。『きっと胎児も現世に誕生するとき、外の世界の光を目指して生まれてきているのだろう』。そんなどうでもいいことが、ふと頭をよぎった。
『そっちが水面側なのか?』
僕は必死になって光に向かって、水をかき分け進んだ。しかし、不思議な力によって引き戻され、中々その光に辿り着くことができない。
何度も挑戦した。しかし疲労からなのか、それとも水を浴び過ぎて体力を奪われ過ぎたからなのか、引力に対して踏ん張ることができなかった。
くたくたになり、足掻くことを諦めようとしたとき、偶然、僕の足が水面を蹴った。
間違っていたのだ。僕が向かっていた先は、水面側ではなく水底側だったのだ。目指していた光が水底側であることに気付いた僕は、すぐに体勢を反転させ、足元付近にあった水面の上に顔を出した。
「ぷはっ!」
ーー危なかった。判断がもう少し遅れていたら、溺れ死んでいたかもしれない。荒く呼吸する中、今更、恐怖が心の底からじわじわと湧き起こった。
真っ暗闇の中、僕のすぐ隣で荒く呼吸をする実歩の声が聞こえる。僕と同じように、実歩もまた急に水の中に放り込まれ、混乱したのかもしれない。
呼吸が落ち着くのを互いに待っていると、突然上から光る物体が僕の付近に落ちてきた。
「ぼちゃんっ!」
明るいビームを発しながら、深淵に落ちていこうとするそれが、僕の手にあった懐中電灯であるということはすぐに分かった。実歩を助けるとき、思わず手からすっぽ抜けたのだ。完全に底に沈み込む前に、僕は懐中電灯をすくい取った。
懐中電灯を水面上に出し、僕はそのまま周囲を照らした。
水の流れが一切なく、大きな水溜まりとなった直径30mほどの閉ざされた空間に僕たちはいた。天井は高い。おそらく僕たちが落ちてきたであろう穴が10mほど上の方にあり、そこからマーライオンのようになって水がドボドボと吐き出されていた。
その穴のちょうど反対側の高さにも、同じような大きさの穴があった。もしかするとあの穴同士は、元々は繋がっていたのかもしれない。これだけ無意味に広い空間が、鉱山の地下に存在しているのだ。おそらく老朽化により、2つの穴をつなぐ坑道が陥没してしまって生まれた場所なのだろう。その2つの穴以外、どこにも他の道は見当たらなかった。どうやら水が溜まった深い穴に、僕たちは閉じ込められてしまったようだ。
「真っ暗だね……あっ」
実歩の声が聞こえたかと思うと、『じゃぷん』という水の中に潜る音が聞こえたような気がした。上から落ちてくる水の音がうるさくて、どうしても周囲の音の変化に反応が遅れてしまう。
実歩の声がした方向に懐中電灯を向けると、彼女はその場にいなかった。滝のように落ちる水の波紋に混じって、彼女が潜ったと思われる波紋の痕跡を僅かに見つける。
懐中電灯で照らし水中を覗き込もうとしたが、いかんせん光が反射し、水面から1cmの中ですら、はっきりと見えない。僕は懐中電灯を別の方向に向け、もう一度実歩が潜った場所を薄暗い中で覗いてみた。
水中のずっと下の方ーー。電気もないのに密かに光る点。
その場にじっとしていた光の点が、一度、大きく横に揺れ動くと、徐々に光の点が大きくなっていく。水面にはっきりと大きな光の円となって映し出され、再びその光が小さくなっていったとき、『ふあっ!』と息継ぎする大きな声とともに、実歩の顔が水面から勢いよく突き出てきた。
実歩の手には、僕と同じタイプの懐中電灯があった。そういえば、さっき裕二さんが懐中電灯を落としていたことを思い出した。
「ちょっと……眩しいんだけど」
突然現れた実歩に驚き、思わず当ててしまっていた懐中電灯の明かりを、僕は慌てて彼女の顔から逸らした。
光源が2つあると、何かと心強い。僕たちは周囲を照らし、とにかく水の中から上がることができる場所を探した。
休憩できる場所ーー。この空間の中央に、水面上にうっすらと顔を出した岩場があった。僕たちは取り合えずその岩場に上がって、水の中から出ることにした。
岩場は思いのほか、水より冷たかった。まるで冷蔵庫で一晩中、冷やされていたかのようだ。しかし幸運にも岩場の表面はそれほどデコボコしておらず、座って休憩するには申し分ない。
実歩は手に水をすくうと、適当に岩場の上に撒いた。水の方が暖かいので、いくらかマシかもしれない。そう思ったのだろう。僕たちは濡れた場所に腰をおろし、休憩をとった。
手足の感覚がほとんどなく、体がすごく重い。こうして一息つくことで、いかに自分の身体が長旅で疲れているのかがよく分かった。少し寒気もする。水に浸かってあれだけ踏ん張っていれば、それもそうかもしれない。
「ごめんなさい。私がもたもたしていたせいで、こんなことになってしまって……」
岩場の上に水平に置かれた懐中電灯のビームから漏れた僅かな光によって、実歩の顔がうっすらと見える。その表情は、はっきりと見えないが、やはり酷く落ち込んでいるように見えた。僕はそんな彼女に向って、小さく首を横に振って答えた。
「ううん……。大丈夫って言ったくせに……しっかり実歩を支えることが出来なかった僕の責任だよ。僕がもっと……」
疲れた……。言葉を1文字発するごとに、僕の体力がどこかに奪われていくような気がした。
酷い倦怠感から何度も言葉に詰まる。それでも僕は落ち込んだ実歩を元気づけるため、力をふり絞って応えようとした。すると突然、実歩は僕の頬に手を当てると顔を自分の方に向けさせた。
人差し指を縦にして、スッと僕の口に当て、塞ぐ。
「やめましょ、こんなところで。もうどっちだっていい」
その時、急に鋭い痛みが横腹に走った。思わず手で押さえ、うずくまる。
「うっ……」
さっき僕が実歩に飛びついたとき、地面に思いっきり打った箇所だ。
「謙輔? どうしたの? お腹痛いの?」
実歩は懐中電灯で、僕が手で押さえている左横腹を照らした。
「きゃっ!」
実歩が悲鳴を上げる。その反応に驚いた僕は、手で押さえている左横腹にゆっくりと目をやった。手で押さえていても、それがすぐに目に入った。
手でも隠しきれないほどの血が服に滲み、真っ赤な範囲が重力に従うように広がっていたのだ。
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