第8-1

「実歩ー!」


 大きな満月が浮かぶ夜の浜辺で、僕は喉が千切れそうなぐらい大きな声で叫んだ。しかしこの世界の空間は、まるでスポンジで出来ているかのように、声がすぐ吸い込まれ遠くまで響かない。

 すぐ足元で小さな波が緩やかに寄せては返し、ただその波の音だけが周囲に静かに響いていた。


「どこに……痛っ!」


 強い痛みとともに、過去の記憶がより鮮明となる。

 2年前、最後に見たこの浜辺には、彼女の姿はなかった。おそらくーーだろう。

 僕はその場所に向かって、一心不乱に走った。頭が痛い。が、まだ耐えられる痛さだ。あの気を失うほどの痛みが襲ってくる前に、彼女を探さなければならない。大きな焦りがより一層、彼女の元へ向かう僕の足を急がせた。

 見覚えのある光景を急いで走り抜けていくと、あの祭りの場所へと辿り着いた。


「実歩ーっ!」


 彼女の名前を叫び、やぐらの周りで踊る人々の中へと割って入っていく。踊りの輪を半周くらいしたとき、見覚えのある服を着た人物が笛の音色に合わせて踊っているのを見つけた。

 僕はすぐさま駆け寄り、彼女の両肩を強く掴み、名前を呼んだ。


「実歩、実歩! 目を覚ましてっ!」


 2,3回ほど前後に身体を強く揺らすと、彼女の虚ろであった目が、自分にしっかりと焦点が合うのが分かった。


「けい……すけ?」

「良かった。時間がない。早く急ごう!」


 彼女の手を強く握ると、僕は引っ張って走り出した。


「ちょ……ちょっと。どうしたのよっ!」

「後で話すから! 今はとにかく、ここから早く出るんだ」


 実歩は、何がなんだか良くわかっていない様子だ。それもそうだろう。実歩にとって、時間はずっと2年前のあのときから変わっていない。

 ときどき走りながら振り向いては、実歩の名前を呼んだ。しばらくすると意識がまたどこかに飛んでいってしまうからだ。

 遠目で出口が見えると、その前に裕二さんが倒れているのを見つけた。


「え、お父さん?」


 うつ伏せになった裕二さんを、実歩も遠方でありながらも見つける。仲が良くないと言っても、さすが家族だ。顔がはっきり見えなくとも、その人自身が持つ雰囲気から自分の父だと認識したのだ。いるはずのない人間を、しかも遠くからだと認識するには、相当、相手のことを理解していないとできないことだ。

 裕二さんに駆け寄ると、僕はすぐさま両肩を掴み、強く揺さぶって声をかけた。


「裕二さん! 目を覚ましてください!」


 実歩と同じように数回、体を揺さぶるとすぐに意識が戻った。うつ伏せの状態で裕二さんの目がぎょろっと動き、僕の方を見る。


「けん……すけ、くん?」


 地面に手をつき、ゆっくりと体を起こすと、そのままふらりと立ち上がった。頭痛がするのか、こめかみに手を当て、一瞬痛みに耐える仕草をする。


「……っ、……すまない。自力で向こうの建物の前からここまで戻ることは出来たんだが、また倒れてしまった。少し……疲れているかもしれない」


 僕がここに来た時、裕二さんはこの世界の村の手前で倒れていた。裕二さんを介抱している最中、あの頭の痛みとともに僕の記憶も甦った。実歩の居場所を知っている僕は(正確には知らないが)、彼女を絶対に連れ戻すことを約束し、裕二さんにはこの世界の入口で待ってもらうことにしたのだ。


「お父さん、どうしてここに?」


 実歩の声で、ようやく裕二さんが僕の背後にいる彼女の存在に気付く。


「良かった。実歩を連れ戻すことができたんだね。謙輔君、ありがとう」


 裕二さんは僕に向かって、丁寧に頭を下げた。


「あとは小さな女の子か。ここから見渡して探してはみたんだが、全然見つからないんだ。これだけ周囲が暗いと今は……」

「女の子はいいんです、裕二さん。とりあえずここから出ましょう。僕を信じてください。話はその後で。実歩もね」

 

 口早に僕は言った。とにかくここから早く出ないといけない。そんな思いから、多少自分らしくない強引な口調でも僕は気にせず言った。

 そんな僕を裕二さんが、じっと見つめる。すると、すぐに裕二さんは『わかった』とひとこと言って、即座に僕に従った。裕二さんならではの勘の鋭さで、尋常でないこの状況に対しての僕の焦りを感じ取ってくれたのかもしれない。普段であればこんな僕の言葉足らずな説明に、2度3度の鋭い突っ込みが入る。素直に従ってくれたことをみると、僕を信じてくれたのだろう。

 少し混乱した様子の実歩には、もう一度『後で説明するから』と優しく言い聞かせ、何とかその場を落ち着かせた。

 無理やり場が収めたところで、僕は2人を引き連れて鉱山の中へと入り、来た道を早足で戻った。僕にとって、ここに来たのは3度目だ。坑道の中が多少暗くとも、何となく地形を把握できる。だが後ろの2人は、共に1度目だ。恐る恐る周囲を確認しながら歩く速度は、僕より幾分遅い。頭の痛みが裕二さんを介抱したときよりも、大分痛くなってきている。焦るあまり僕は、つい2人を急かした。


「早く!」

「ねぇ、何でそんなに急いでいるの? 集合時間まで、まだ時間あるでしょ?」


 実歩が不満そうに、僕の背後から言ってくる。『とうの昔に月引村の内覧は、終わってるんだ!』なんて言い返したかったが、今言うとややこしくなるので僕は言葉を飲み込んだ。

 背後のことは、今はどうでもいい。それよりも今は前だ。

 僕は全神経を前方に注いだ。なぜなら出口に近付くにつれ、来るときに聞くことがなかった音が、段々と近づいてきていたからだ。


「ねぇ、何か音が聞こえる……」


 実歩が僕の後ろで、ぼそっと話す。

 出口付近の曲がり角に差し掛かると、さらに異様な雰囲気を僕は感じ取った。激しく水が流れる音がすぐ近くから聞こえるとともに、足元が水浸しになっていたからだ。


「なんだ、これ……」


 恐る恐る曲がり角から顔を出して、道の先を懐中電灯で照らした。

 見て驚いた。なんと梯子付近にあったカタツムリのような装置の先端から、大量の水がこっちに向かって噴き出していたのだ。ここへ来たとき裕二さんが教えてくれた。『とうみ』という昔の装置で、米のような穀物を脱穀するときに使う装置だそうだ。鉱山でも奥地に新鮮な空気を送る際に使用されたという。


「どういうことだ? ありえない……」


 僕の前で、裕二さんが言った。いつの間にか裕二さんと実歩が、狭い通路の先頭で呆然としていた僕を押しのけ、角を曲がった先の通路に出ていた。

 そんなものが自動で水を噴き出している光景に、僕たち一同は愕然とした。

 懐中電灯で『とうみ』を照らし、観察してみた。手で回して使うはずのハンドルが、勝手にぐるぐると激しく回っている。穀物の投入口である四角い形をした漏斗ろうとには、真っ黒な空調用ダクトホースのようなものが上から接続され、うねうねと左右に踊っている。おそらくその黒いダクトホースを通じて、外から大量の水が運ばれてきているのだろう。

 噴き出した水は、激流の川となって奥から手前に流れ、そのままもう一方の地下に続く坑道へと流れ込んでいる。僕たちから見て出口につながる梯子は、『とうみ』のすぐ左斜め手前の入り込んだ狭い空間にある。つまりそこに辿り着くには、『とうみ』と地下への入口の間で形成された、この激流の川を遡らなければならなかった。


「どうする?」


 実歩は不安そうな声色で言うと、僕と裕二さんを交互に見た。


「私が先に行こう。後からロープを送るからそれを掴んで来るんだ。分かった?」

「はい」


 僕の返事を合図に、裕二さんは激流の中に片足を突っ込んだ。片足が激流の中にすべて入り切ると、今度はもう片足のほうもゆっくりと入れていく。見た目以上に水の流れによる負荷がきついのか、裕二さんは左側にある壁の凹凸に左指を引っかけた。

 一歩一歩、慎重に歩みを進めていくーー。

 『とうみ』の目の前あたりまで進むと、噴き出した水が滝のようになって壁を作り、行く手を拒んでいる。

 裕二さんは一度立ち止まり、懐中電灯を当てて滝の中を覗き込む仕草をした。飛び込むタイミングを見計らっているのだろうか。5秒ほど観察すると、何事もなかったかのように裕二さんは滝の中へと入っていった。

 噴き出す水が体に激しく当たり、のしかかる。裕二さんの体が上下に小刻みに揺れ、水の重さに抵抗しているのがありありと見て取れた。

 すると、水の当たりの激しさのあまり、裕二さんは右手に持っていた懐中電灯を滑らせ落としてしまった。落とした懐中電灯は暗闇を照らしながら、水の流れに乗って、地下道の奥へと抵抗することもなくスルスルと消えていった。しゃがんで手を伸ばせば、届いたかもしれない。しかし、思いもよらない瞬時の出来事だったので、動くことが出来なかった。

 裕二さんは流されまいと、薄暗い中、両手で壁にへばりついていた。灯りは僕が持つ懐中電灯しかない。僕は、後ろから裕二さんの行き先を照らし援護した。

 大量の水に打ちのめされながら、じりじりと、しかし着実に裕二さんは出口へと近づいた。

 出口直下にある梯子の場所は、1本真っ直ぐに伸びた坑道から少し入り込んだ所にあるため、噴き出す水の直撃もなく、激しい水の流れもない。

 裕二さんは右足をそのまで伸ばし、右手の指を壁の角にかけると、一気に腕の力を使って自分の体をその場所へ引き入れた。


「ふぅ……少し待っててくれ!」


 水の濁音に紛れながら、裕二さんの声が僅かに届く。休憩する間もなく裕二さんは、黒いダクトホースを押しのけながら梯子を上っていった。

 しばらくするとロープの末端を持って、裕二さんが現れた。


「このロープを持って進むんだ! 投げるぞ!」


 そう叫び、裕二さんはロープを水の中に入れた。水の流れに乗って、徐々にロープが伸びてくる。

 ーーそして、僕たちの手が届く所まで伸びると止まった。


「それで届きそうか!?」

「はい!」


 波乗りサーファーのようにロープは水流に乗って、自由気ままに左右にふらふらしている。比較的に水流が弱い箇所を見つけると、僕はそこに片足を突っ込み、タイミングを見計らってロープを掴んだ。


「よし! 実歩、これ」


 僕の後ろで成り行きを見守っていた実歩にロープを渡した。しかしその表情は不安に満ちていた。


「大丈夫。僕が後ろから支えるから」


 実歩は弱弱しく首を縦に振ると、前に振り向いた。ロープを掴み、そろそろと進みだす。僕も実歩の後ろに付いて進んだ。実歩がいつロープから手を離してしまっても大丈夫なように、すぐに後ろでいつでも受けられるような態勢で、僕は臨んだ。

 ときどき実歩の足が止まる。そんなとき僕は彼女の背中に体当たりするように自分の体を押し当て、彼女の全体重を支えた。しかし僕のそんな余裕も『とうみ』に近づくにつれ無くなっていく。

 たかだか水位が膝ぐらいの高さでも、流れが激しいと、バランスを崩して足が持っていかれそうになる。男の僕でさえそう感じるのだから、華奢な実歩にとっては、さらに筋力的にキツイものがあるだろう。


「足が……動かない!」

「後ろから押すよ! いい?」

「うん!」


 周囲の水の音にかき消されまいと、口から出す声が自然と大きくなる。

 僕はピタッと左の上腕を実歩の背中に押し当てると、左足を前に出しては右足で押す、といった動作を繰り返して、少しづつ実歩を前に送った。だが僕もどちらかというと男性の中では華奢なほうだ。この送る動作を2、3回繰り返すだけで、一気に全身の筋肉が限界を迎えようとしていた。

 ーーたった5m。

 それだけの距離がとても長く感じる。


「もう少しだっ! 頑張れ!」


 裕二さんの手が、ロープに沿って実歩に伸びる。


「お……も、い」


 まるでコンクリートの壁でも押しているかのようだ。どんなに力を入れても、実歩がびくともしない。滝のように噴き出す水が地面に強く落ち、白泡の波となって僕たちを押し返そうとする。

 見かねた裕二さんは、さらに踏み込んで滝のような水の中に身を入れた。そしてそこから手を伸ばし、ロープを握りしめた実歩の手を掴もうとしたーー。


 ーーその瞬間。


 車のエンジンのように高速回転していた『とうみ』が、バキャという大きく短い音とともに瓦解がかいした。


 そこからすべてが、一瞬の出来事であった。


 バラバラと崩れた『とうみ』の木材の破片が、水流に乗って僕に迫ってくる。『とうみ』から外れた黒いダクトホースがひとりでに蛇のようにうねって動き、僕たちに向かって放水した。水鉄砲ならぬ水大砲だ。

 条件反射で僕は、思わず顔を放水から背けて直撃を避けた。しかし実歩は強力な放水を浴び、ロープから手を放してしまったのだ。その途端、実歩は後ろに向かって足を滑らせた。

 裕二さんが実歩の腕を掴んでいたので、頭を地面に打つことはなかったが、絶え間ない激しい放水を受け、実歩は鮭の遡上そじょうのように体を左右にうねらせ流される。しかしそれも束の間。裕二さんは水に手を滑らせ、実歩を離してしまった。

 実歩は大量の放水によって、驚くほどスイスイと地下道の方へと運ばれようとした。


「実歩ーっ!」


 水の濁音が響く中、裕二さんがそう叫んだような気がした。僕は流されていく実歩に向かって飛びかかり、宙から落ちて今にも実歩を捕まえようとしているところだった。

 思いっきり腹が水面に叩きつけられ、激痛が走る。しかしそんなことは、今はどうでもよかった。目の前にいる実歩の手さえ離さなければーー。

 僕たちは互いの手を掴み合ったまま、激しい水に流され、深い鉱山の地下へと吸い込まれていったのだった。

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