第7-6
「ふぅ、意外と道は長いな。歳を取るのは本当に嫌なもんだ」
山の斜面を登りながら、裕二さんは額に滲んだ汗を手ぬぐいで拭った。
「防寒対策を間違えたよ。同じようにウィンドブレーカーにすれば良かった」
裕二さんはダウンジャケットの襟を掴むとバサバサと音をたてて、服の内側に籠った熱気を外に逃がした。
6月に入ってから梅雨が終わり、日差しの強い季節が始まった。今日は例年よりも気温が高く、雲が何一つない快晴だ。だから雑木林の影から一歩出ると、標高が少し高いので普段より強い紫外線が僕たちに直撃する。望んでもいない熱を再び帯びることになるが、時折吹き付ける少し冷えた山風が、暑さで苛立った気持ちを静め、僕たちの登山を後押ししてくれた。
僕は足を止め、両手で地図を広げると、周囲を見渡し現在地を確認した。
「車を止めた道からずっと南に進んでいるので、おそらくこのまま進めば着くと思います。それにこの辺りの地形の雰囲気、何となく見覚えがあります」
「そうか、それを聞いて安心したよ。このまま遭難でもしたら目的なんかあったもんじゃないからね。謙輔君に協力してもらって、本当に良かった」
裕二さんは足を止め、少し上の斜面から見下ろしながら僕に言った。
僕が地図をたたみ、ズボンのポケットに突っ込むと、それが合図となって僕たちは再び斜面を登り始める。
月引村に着いたのは、かれこれ2時間ほど前のことだ。ダムのため池には水が貯められているので、中を歩くことはできない。そこでため池に沿って歩こうという話になり、道なき雑木林に侵入し、こっそり進もうとした。しかし運悪く、ダムの関係者に見つかってしまい、そのままダムの外まで追いやられてしまった。一度、目を付けられると近づくのも困難だ。ダムのゲート上に足を踏み入れると、どこからともなくダム関係者らしき人物が無線を持ってやって来て、じっと僕らの行動を見つめて、後をつけた。そんな状況じゃあ、思うように行動ができない。そこで僕たちは東西に伸びる月引村に並走する道路から、山を登って目的地に行くことにしたのだった。面倒な話になったなと思っていたが、後で話を聞くと、裕二さんは元からこのつもりだったらしい。
「見通しもいいし、観光客の人の目や監視カメラもあるだろう。だからあのままもし進めることができたなら、それはそれで運が良くて御の字だ。ため池を横に見て歩くことができるから、迷う不安もないしね。しかしまぁ運はなかったが、これは予定どおりだ。そのためにこうして君に来てもらったんだから」
そのときは、どういう意味で裕二さんが言ったのか分からなかった。しかし山を登りながら不安を紛らわすかのように延々と話をしていくと、僕はその意味を理解した。
僕がじいちゃんと一緒になってよく山に入っていたのを、裕二さんは父との自宅飲みの中で聞き、それを覚えていたようだ。子供だけで山に入ることは禁止だったが、ある程度大きくなって物事の判断ができるようになってからは、こそっと1人で山に入っては探検ごっこのような遊びをしていた。しかしうちの親はよく子供のことを見ていたようで、その瞬間に遭遇していないにもかかわらず、なぜか結構な頻度でバレた。もちろんその夜は、父の怒鳴り声が家中に響いた。
だが止めることは出来なかった。山に1人で入ることがどれだけ危険なことか、子供だったこともあって深く理解していなかったこともあるが、それ以上に山が好きだったのだ。山の中に入って遊んでは、そして怒られる。そんな日々を繰り返していた。
家の裏手にある山の中であれば、今でも地形を覚えているだろう。そこに裕二さんの思惑があったのだ。見知らぬ山を1人で入るのは、遭難の危険性が高い。運任せという不確実な状況で物事を進めることに我慢ならない裕二さんは、この僕を山案内人として誘ったのだ。
本当に人の経験というのは、いつ役に立つか分からない。親不孝が今になって生きるとは。
「それにしても、謙輔君の裏庭は……広いね。いくら自分の家の裏手にある山の中とはいえ……こんな奥地の地形まで覚えているなんて。小さい頃に、ここまで来てたってことだろ?」
斜面の登りが堪えるのか、裕二さんの息遣いが苦しそうだ。会話の節々で、ときどき詰まる。
そりゃあそうだろう。山の中に入って、30分以上も経つのだから。
「じいちゃんの後をついて、よく山菜取りに行ってたんです。だから何となく」
「なるほど、息が切れないのも……経験者だからってことか」
「若さですよ。その頃からもうだいぶ時間が経ってますから」
「はは……それもそうだな」
さらに進むと、木々の隙間から見覚えのある建物が見えた。裕二さんの名前を呼ぶと、僕はその方向を指でさして知らせた。
立ち止った裕二さんが、木々の隙間を縫うように上下左右に顔を動かし、指した方向を探す。奥に建物があるのを見つけると、裕二さんは無言で僕に頷いて見せた。
裕二さんが少し急ぎ足で、斜面を登っていく。僕も後を追うーー。
長かった雑木林から出ると、緩やかだった風が少し強くなって吹き付け僕たちを迎えた。そして目の前には、昔の僕の家が裏手をこちらに向けて佇んでいた。
「ふぅ、ようやくか。人は流石にうろついていないと思うが、監視カメラがあるかもしれない。ここから先も、周りに注意して進もう」
「はい」
「その前に念のため謙輔君の家も調べさせてもらうよ。土足で失礼する」
裕二さんはトレッキングシューズを履いたまま、押し込み強盗のように躊躇することもなく僕の家の中に上がると、ドスドスと中を見て歩き回った。
雨戸は開きっぱなしで野ざらしの状態なので、畳や壁には砂埃のようなものが薄っすらと付着していて、すでに汚れている。しかしもう住んでいないとはいえ、土足でずかずかと上がる光景を目の当たりにすると、僕は何とも言えない気持ちになった。
僕は目を伏せ、縁側に腰を下ろすと、しばしの休憩をとった。自分のリュックサックから水が入ったペットボトルを取り出すと、勢いよく半分ぐらいまで飲む。そして、これでもかというぐらい、ふぅと大きく溜息を強く吐いた。
しばらくすると裕二さんが戻ってきて、『何もないね』と言って僕の隣に座った。2年前、僕はここで写真を撮った。もしかすると『彼女』も一緒になってここに来たかもしれない。裕二さんはそう考え、念のため痕跡を探し回ったそうだが、何もなかったようだ。
「さて……もう少し、だな」
空をぼんやり見上げながら、独り言のように裕二さんは呟いた。そんな裕二さんを見て、僕も空を見上げる。
快晴だった空にいつの間にか、小さな雲が点々と現れていた。青く大きな空を小さな雲が、ゆっくりと優雅に自由気ままに流れている。たまに太陽との間に小さな雲が流れ込むと、強い陽射しが軽くなって、肌が痛くなく快適だ。ときどき吹く冷たい風が、火照った体を冷まし、これ以上ない快感となって眠気を誘った。
眠気と戦いながら、ふと裕二さんの方を見る。縁側に座って一息つく裕二さんの光景が、じいちゃんとの記憶を懐かしく思い出させる。山菜取りに行った後、よくここに一緒に座って休憩した。疲れて辛そうに縁側に座るじいちゃんを見て、幼いながら『大丈夫?』と気遣った記憶がある。
じいちゃんほどの歳ではないのだけど、過去の光景と重なってしまった僕はつい、家族を気遣うような声のトーンで言葉をかけてしまった。
「大丈夫?」
気付いたときには、もう遅かった。僕の顔を見ながらしばし沈黙が続くと、裕二さんが優しく笑った。
「ははっ、そんなに疲れているように見えるかい? 確かに若さはないけど、彼女を想う気持ちは謙輔君にだって負けない。彼女が見つかるまで、辛くてもどんな険しい道だって進むつもりだ。まだまだこれからさ」
嫌な素振りも見せず、裕二さんは僕に明るく言ってみせた。
「さて休憩はこれくらいにするか」
立ち上がると、歩きながら僕たちはもう一度、この先の行動についておさらいした。僕たちが向かう先は、月引鉱山だ。そこに何があるのか、今は何も分かっていない。そこに向かう理由は、僕の撮った写真がそこを最後に終わっているので、何かあると踏んでのことだ。ため池を見ながら、ここから西に向かって歩く。これなら迷うこともない。それが僕たちの計画だ。
今よりもっと鉱山に近いところで車を止めて、山の中を歩くルートも考えられたが、見知らぬ山中は遭難する危険性があったので、初めからその案は却下された。
しばらくため池を左手に見ながら歩き続けると、月引鉱山の上のあたりに難なく辿り着いた。やはり完全な山中と違って、周りに目印となる風景があると精神的に楽だ。
「ここか」
裕二さんはため池の周囲に立つ柵越しに、鉱山の入口を見下ろした。僕も一緒になって見る。ため池の水面が足元から3mほど下にあるため、鉱山の入口は水没し見えない。
「水没しているね。ここ最近、ずっと雨が降り続いていたからそのせいだろう。ただ謙輔君の写真だと入口は塞がれていなかったように見えたけど、中まで浸水しているということなんだろうか?」
「どうですかね」
「まぁ、実際に確認してみようか」
裕二さんはそう言うと、何かを探すように周囲を見渡した。
「どうしたんですか?」
「車をレンタルした後、謙輔君との待ち合わせ時間までまだ時間があったから、近くの資料館に行っていたんだ。月引村に関する資料が、色々あったよ。月引村が昔、鉱山で栄えた村であることは出身者の謙輔君も知っていることだろ? 鉱山の入口は今は下にあるが、昔は上から入っていたらしいんだ」
「上から?」
「つまり私たちが立っているこの辺りから下穴を掘って、降りて入っていたということらしい。運が良ければ、まだあるかもしれないが……」
鉱山の入口を起点に、真っ直ぐ雑木林の中へと裕二さんは入っていった。大きな木々を避けながら、僕も後をついていく。すると目の前に井戸のような形をしたものを見つけた。
裕二さんはその石垣の上に置かれた木板を退け、頭を中まで入れ覗いた。
「何か見えますか?」
「いや、薄暗くて底が見えない。しかし位置的に考えると、ここが昔の鉱山の入口だろう。中に梯子が備え付けられているから、間違いだろう」
裕二さんはリュックサックの中から、懐中電灯を取り出した。それを見て、僕も自分のリュックサックの中から懐中電灯を取り出す。すると、なぜか裕二さんの顔が、ありありと渋い表情に変わっていくのが分かった。
「どうしたんですか?」
裕二さんに僕は聞いた。
「大の大人が、しかも教師の私が若い子を引き連れて危険な場所へ入る。しかもその理由が『忘れ去られてしまった娘を探す』だ。冷静に考えると、本当にこれでいいのかと思ってね。決して許される行為じゃない」
「僕たちはその非現実的なことに、一番近い人間です。他の人には分からない。僕たちが動かなかったら誰も彼女を、裕二さんの娘さんを助けることはできないんです」
「一部の若者がノリで過ちを犯してしまって、たまにニュースになるだろ? 彼らも後になって冷静に考えると、そのときの自分が如何に馬鹿であったことかときっと後悔しているはず。今の自分がまさに、それじゃないかと思ってね……」
「裕二さん……」
僕は裕二さんの急な迷いに狼狽えた。せっかくここまで来たというのに。彩香との取引も『海行き』から『他の何か』にランクアップさせることで、ようやく納得してもらったのだ。このまま帰ってしまっては、僕が納得できない。
彼女の存在は、いくつもの証拠により確信している。ただ彼女がここにいるかどうかは分からない。せめて彼女がここ『鉱山』にはいないということだけでも分かれば、少しは前進するというもの。
僕は裕二さんの迷いに気にも留めず、石垣の中を懐中電灯で照らして見下ろした。
「すまない謙輔君。私が掛けた梯子を外すような真似をして申し訳ないが、やはり……」
「あっ!」
そのとき僕は底に何か動くものが見え、思わず声を出してしまった。
「どうした?」
「何か下にいました」
「動物だろうか?」
裕二さんも一緒になって、懐中電灯を点けて中を覗く。すると一瞬、石垣の内壁の丸い円を、人が横切るのが見えた。
「裕二さん、見ました?」
「あぁ、女の子だ。小さい女の子が横切った。おーいっ! 誰かいるのか!」
裕二さんが大声で、石垣の中に向かって叫んだ。しかし反応は何もない。
「まずいな、この辺に住んでいる女の子だろうか。もし遊び場にしているなら止めないと」
裕二さんは石垣によじ登ると、両足を梯子に乗せ僕のほうを向いて言った。
「そこで待っていてくれ。すぐに連れ戻すから」
僕の返答を待つこともなく、裕二さんは懐中電灯で下を照らしながら降りていった。すぐに石垣の中を覗き込むと、ちょうど下に降り着いた裕二さんの姿があった。懐中電灯を片手に、周囲をゆっくり見渡す。それから女の子が歩き去った方向に、裕二さんは消えていった。
どれくらいの時間を待っただろうか。頭上に見えていた太陽が、周囲の背の高い雑木林の裏に隠れ、薄っすらと見えていた石垣の中は、今は真っ暗となっている。
何度か裕二さんを呼んではみたが、返事は返ってこなかった。『いつまで待てばいいのか?』という先が見えない状況に、不安と苛立ちに苛まれていたが、次第にそれは『いつ行くのか』という迷いへと変わっていた。
ここに来るまでは長かったが、今は僕の決意は揺るがない。どんな危険なことがあろうとも、彼女を探し出すと僕は決めた。
裕二さんから待機を命じられたが、あまりにも戻りが遅い。僕は懐中電灯に再び明かりを灯すと、石垣に腰を下ろし梯子に足を下ろした。目を閉じ、何も考えずに大きく深呼吸する。
「よし!」
自分の発した声を合図に目を見開くと、ゆっくりと梯子を下り、裕二さんの後を追った。
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