第7-5
ゆっくりと歩きながら、僕は手に持つ傘の外の世界に耳を傾けた。
地面に落ちる小さな雨音に混じって、傘に落ちる雨が比較的大きな音を鳴らす。傘の張りで雨が弾け、楽器で奏でたようなその打音は、目を閉じていると、まるで頭上で妖精がおもちゃの太鼓でも叩いているのではと錯覚する。しかし僕がその音を処理することができるのは、そこまでだ。それ以上のことを考えようとすると、すぐに頭の中に真っ白な大きなモヤモヤが広がってきて邪魔をする。外部から入ってきた情報が、本来行くべき場所に辿り着くこともできず途中で
そして考える気力も湧かない。どうにも頭が疲れ切ってしまっていて、どれだけ思い起こそうとしても、裕二さんと話したことを思い出すことが出来なかった。
そして目の前にある道を、ただ無心となって歩き続けていると、僕はいつの間にか自分の家の前にいたのだった。
「あぁ、家……か」
漠然と目に映るものを認識し、声が出る。玄関の軒下に入り、傘をたたむと僕は空を見上げた。
薄暗い空の途中から雨が現れ、そのまま垂直に落ちて、細かい粒だけが緩やかな風に乗って、僕の目にプツプツと入り込んでくる。雨から避けようと軒下の奥深くに入ろうかと思ったが、滝の水しぶきのような雨が火照った体と頭に降りかかると何だか心地良かったので、僕はそのまま顔を上げ、雨のうねりに身を
梅雨どきの雨は長く降り続くため、たしか他の時期より比較的きれいであることをテレビで言っていたような気がするーー。
そんな安心から僕は、しばらく目を閉じ、玄関先でその心地良いひと時を味わった。ある程度、全身の火照りが落ち着いたところで僕は家の中に入った。
すぐに2階に上がり、自分の部屋に入る。崩れるようにベットの上に倒れる。ズボンの裾が雨で酷く濡れているが、そんなことはお構いなしだ。ベットが汚れようが、そんなのはどうでもいい。そう強気に出てみようとしたが、ほんの僅かに残った理性がそれを阻んだ。ズボンの裾が付かないようにベットの外に足を放り出したところで、僕は安心し、意識は一瞬のうちに遠退いた。
気付くと夜20時を回っていた。1時間ちょっと眠ってしまったようだ。じめっとした着心地の悪さからパパッと服を着替えると、お腹がぐうっと鳴る音が聞こえた。
「お腹が空いたな……」
僕は部屋を出て、一階のリビングに行った。ソファでは父がいびきをかきながら寝転び、その前で床に座って陽介がテレビを見ていた。
「お、兄ちゃん、おはよう。よく寝てたね」
「寝るつもりはなかったんだけど」
「呼んでも起きないからさ、先に食べたよ。残りもんだけどテーブルに置いてあるから」
見ると4個の唐揚げの他に、生野菜、ポテトサラダ、スープが置いてあった。僕が料理担当していたときは揚げ物なんかする時間がなかったので、揚げ物が食卓に並ぶことなんて滅多になかった。並んだとしても、それはスーパーで買ってきた出来合いものだ。陽介が作るようになってから食卓にのぼる料理のレベルが上がり、丁寧な味付けもしてくれるので、僕だけでなく父からの評判も上々だ。どうやって勉強しているのか知らないが、腕の上達ぶりはさすが料理人を志す者といったところだろう。
電子レンジで冷えた料理を温めると、僕は黙々と目の前にあるものを口の中に入れた。まるでベルトコンベアーのように口に運ばれていった料理は、非常ボタンを押されることもなく、どんどんと胃に溜まっていく。ものの十数分で平らげてしまった僕は、もう少し食べようかとお腹をさすり、自身の腹にお伺いを立てた。そのとき、ふと裕二さんとの話が頭に浮かぶ。
『3週間後、月引村に向かうつもりだ』
急に言われても、と一瞬呟きそうになるがそれは抑えた。月引村へ行こうかと迷っていた自分に、再び訪れるチャンスを与えてくれたのだ。おそらく僕1人なら、行きたい想いを心の内に隠したまま永遠に行くことはなかったかもしれない。これはありがたい提案なのだ。よく考えて返事をしよう、と僕は思った。
『返答は、なるべく早いほうがいいよな……』
疲れた頭で何となく思う。何となしにテーブルに置いてある卓上カレンダーを引き寄せ、向こう3週間の日付を流すように見ていった。
「特に……予定なし」
口に出して言うのと同時に、3週間後の休日あたりをピンと指で
「この日……海に行くって約束した日か」
つい4日前、彩香に月引村の内覧参加者の一覧を見せてもらうことと引き換えに、海に行くことを了承した件だ。
この時期に海なんてまだ早いだろと内心で愚痴を吐きながら、取引した手前、断ることが出来なかった。取引した翌日に、スマホにメッセージがあり、それが3週間後の土曜だったような気がする。後ろポケットからスマホを取り出すと、念のためそのメッセージを確認した。ーーやはりその日だ。
「しまったな……」
いくら取引とはいえ、安易に彩香の提案を受けてしまった自分を恨めしく思った。さてどうしようか、と卓上カレンダーを見ながら大きくため息をついた。しかし疲労した頭では、どれだけ考えてもまとまりはしない。僕は自分の中から湧き起こる心の声に耳を傾けた。
『行きたい。行って、このざわつく自分の想いの正体を突き止めたい』
一貫して自分の想いは変わらない。しかし同時に非現実的な現象に対する理性的な抵抗も、相変わらず自分の中にあった。
大人である裕二さんが、あれだけ状況を理路整然と分析し説明してくれたにもかかわらず、依然、僕の気持ちは固まらないままであった。非現実的なことを僕たちは話し合っていたわけで、その理解の煩わしさから、どこかこのまま時が過ぎて忘れ去ってしまってもいいのではないかとさえ思ってる自分もいる。
疲労のためあまり気持ちがのらなかったが、裕二さんに早く返事をしてあげないといけないという思いから僕は立ち上がると、戸棚の中から月引村に行った時の写真を取り出しテーブルの上に一枚一枚広げていった。
僕には裕二さんほど突き動かされる原動力はない。確かな情報がないのだ。だからいつまで経っても空想の域から出ることがない。裕二さんを信用していないというわけではないが写真などは簡単に加工できると言うし、人の目なんてそう見ようと思えば何でも見える。超常現象を信じる人であれば、偶然空いた空間も『実はここに人がいた』なんて何度も強く言えば、信じる人も出てくるだろう。
もう一度言うが、裕二さんを信用していないというわけではない。ただ人はどんなに立派な人柄でも、人間は平等に歳をとり、衰えていく。物忘れなんかは、老化で現れる記憶に関する症状で最たるものだ。
僕は彼女が確実に存在したという新たな痕跡を見つけるため、広げた写真を細かく見ていった。
バスの中、ダム、学校の屋上、どの写真も何度も見た。どれもぽっかりと空いた空間がどこかにあるものの、本当に彼女がそこにいたのか確信がもてない。
腕を伸ばしてテーブルの端に配置された写真を、指先で滑らせ引き寄せた。
自分の家の写真。
そういえば、これはあまりじっくりと見ていなかったな、と思い出す。ただぱっと見、普通の建物の写真だ。また別の一枚を滑らせながら引き寄せ、手に取り見た。遠方で縁側から撮った写真で、家の中は家財がなくすっからかんだ。そういえば昔、この縁側で天日干しされた布団の上に寝そべりながら、柱に刻まれた成長線をよく指でなぞっていたことを思い出した。まるで洗濯板のような段々を触るのがどこか気持ちよかった。そうしているうちにいつの間にか寝てしまって、結局一日何もせずに終わるというパターンが多かったが、ただ今思えばそんな些細なことが楽しかったような気がする。
懐かしさのあまりもう一回見てやろうと、洗濯板の柱が大きく写りこんだ写真を探し当て、手に取ってじっくり見た。改めて見ると洗濯板と言うには程遠く、少し間隔をあけて、柱に横線が刻まれていた。
「いち、に、さん……」
ボーっとした頭で何気なく写真に写った線を数えようとしたとき、ふと気付いた。成長線の列が3つあるのだ。どれが僕の列かは分からないが、明らかに低いのは陽介の線だろう。残り2つのうち1つは僕だが……。
『それじゃあ、この残り線は誰だ?』
彩香が僕の家に来た記憶はあまりない。大分幼い時に来ていた記憶はあるが、遠足で本物の熊を見てからというもの、山の上に建つ僕の家に『熊が出るから』と言って怖くて近寄れなくなったのだ。
「それじゃあ……、あっ!」
昔の洗濯板を懐かしむ中で、まだうちに見ていない情報があることを思い出した。僕の人生の一部を写真に収め綴じたもの。
ーー成長アルバムだ。
僕は廊下にある収納棚の中から、自分用のアルバムを2冊取り出してきてテーブルの上にどさっと置いた。
少し古めのアルバムのほうを手にとり、分厚い表紙を開けパラパラとめくる。赤ちゃんの写真から始まって、少しづつ自分が成長していって2、3歳のところでそのアルバムは終わっていた。そのほとんどが親との写真か、僕1人で写っているものばかりであった。念のためもう一度始めからパラパラとめくって写真を確認するが、特におかしな様子は見当たらない。
1冊目のアルバムを閉じ、2冊目を手に取ると同じように流しながら写真を見た。途中から陽介が赤ちゃんとなって登場すると、そこから2人で写る写真が多くなる。
さらにページをめくっていくと、僕の七五三のときだろうか。袴を着た僕と一緒に小さな陽介が、家の前で並んで写る写真があった。写真の右下に印字された日付からすると僕が7歳のときだ。僕にしては似合わない笑顔で、ズンとその場に根付いているかのように堂々と真っ直ぐな姿勢でポーズを決めている。しかし気のせいだろうか。何となく僕の右隣が少し空いているような気がした。注意しながら他の写真も見ていく。
すると、やはり似たような写真がぞろぞろと出てきた。
『ーー思ったとおりだ』
柱に刻まれた成長線の残りの1つがもし『彼女』であるなら、昔のアルバムに痕跡があるだろうと思ったがそれが的中した。『彼女』との出会いは、ここ最近ではない。僕たちは何度も出会い、遊び、親しい仲だったのだ。柱の傷がそれを証明している。
昔のアルバムを見れば一枚ぐらい手がかりがあるだろうと思ったが、そんなレベルではなかった。やはり『彼女』は、間違いなく存在するのだ。僕はようやく彼女の存在を確信した。
裕二さんが言ったことも、今なら素直に受け止められる。僕の心は雨上がり後のすっきりした空のように、晴れ晴れしくなっていた。その途端、さっき眠りこけたというのに大きな脱力感に襲われ、引かれるように椅子の背もたれに寄りかかった。
「ふぅ……少し、疲れたな」
僕は小さく呟いた。そういえば僕の部屋の机の中に、買った記憶がない指輪が入っていたのを思い出した。もしかするとあれは、誕生日プレゼントか何かで彼女にあげるつもりの物だったのかもしれない。
見るともなく、腕を伸ばして遠巻きにアルバムをペラペラとめくり見た。嫌なことがあったのか、怒った感情を露わにした僕の写真ーー。
何があったのか思い出せないが、ただ昔の僕を考えれば特別、不思議なことではない。小学生時代の僕は、気に入らないことがあればすぐに怒り、周囲にその気持ちを当たり散らかしていたからだ。特定の何かに怒っていたというわけではない。誰しもがある成長に伴う反抗だ。僕の場合、それが人より早く、小学生から始まっていた。不満の溜まる
あれから10年以上。少しはマシな奴になっただろうか。リビングのソファでテレビを見ている陽介の背中を見やりながら、僕は思った。
何枚か写真を見たところで、僕はあることに気がついた。このアルバムに写っている僕の写真の多くは、無表情だったり不機嫌そうな顔をしている。僕1人はもちろんのこと、陽介や家族全員と一緒に写っているときでさえもだ。しかしある写真のときだけは、楽しそうに笑顔で写っている。それは『彼女』がいるときだ。
『ふふっ……こんな顔、できるんだな』
心の中で小さい頃の自分を、力が抜けたような感じで僕は笑ってやった。自分でもびっくりした。七五三の写真で見た笑顔は、撮った角度やタイミング的にそう見える瞬間を偶然捕らえただけだと思っていた。しかし、そうではなかった。『彼女』と写る写真すべてに、自然な表情で笑う自分の姿があったのだ。自身でも気付かなかった『僕』がそこにいたのだ。
「これも、これも……全部彼女がいるんだ」
どれだけ『彼女』が自身にとって大切な存在か、思い知らされたような気がした。
ーー心を許せる存在。
こんな僕でもそんな相手がいたと思うと、急に目から涙が溢れ出してきた。止めようにも使い慣れていない蛇口は上手く締めることもできず、涙は頬を伝ってそのままアルバムにどんどん落ちていった。悲しみや嬉しさ、そんな両方の感情が混ざったよく分からない中で、僕は静かに嗚咽し、彼女を探すことを決意したのだった。
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