第7-3

 4日前の水曜日ーー。


「何度も言うけど特別よ。バレたら、おとんから酷く怒られるんだから」


 そう文句を言った後、彩香は丸いテーブルの上に置かれたノートPCのカバーを開くと、起動ボタンを押した。

 彼女のベットを背もたれ代わりにしながら、僕は起動されたノートPCの画面と、それを見つめる彩香の横顔をバレないように交互に眺める。

 まだ化粧のされていない彼女の頬は、透き通るほど白く、そしてぷくっと膨れていてとても柔らかそうだ。その瑞々みずみずしさは、触れるとどこまでも吸い着いてくるだろう。

 PC画面に集中する彩香の傍ら、僕はふと思う。


『こっちの方が可愛いのに』

 

 昼過ぎ、僕は彩香が住むマンションに訪れた。しかし、いざ来てみると約束していたというのに彩香はまだ寝ていて、ドアチャイムが目覚まし時計の代わりとなって彼女の目を覚ました。バタバタと部屋の中から物音がすると、パジャマ姿の彩香がドアの隙間からひょこっと顔を出す。どこか既視感のある光景だ。

 寝起きでも構わず部屋に入れ、と彩香が言うので、僕はそのまま部屋に入った。髪はボサボサ、目はまだ眠気眼、緩めのパジャマを着た彩香が僕を部屋の奥へと案内する。

 ーーそれから今に至るまで、彩香はずっと僕の傍にいる。朝の段取りもせずにだ。いつもは釣り目で、気が強い女性の雰囲気を醸し出す容姿だが、今日は不思議とその目が優しい。すっぴんだからなのか、なぜかそう感じる。

 彩香が住むこのマンションの部屋に入るのは久しぶりで、1年以上も前の引っ越し以来となる。ただここで注意しておきたい。僕が彩香の部屋に入らなかったからと、何も僕たちが不仲という訳ではない。確かにカップルにもかかわらず1年以上も相手の部屋を訪れたことがない、というのは一般的にいって不審に思うところはあるかもしれない。

 相手は二十歳で一人暮らし。しかも、彩香は事あるごとに部屋へと僕を誘う。健全な男であれば、1度訪れるだけでカップルとしての関係が、一気に極限まで到達するだろう。しかし僕はまだ彩香に対し、恋愛感情のようなものは芽生えていない。そんな状況の中で、もし訪れてしまったら、彩香のことだから早とちって、どんな勘違いをしでかすか分かったものでない。過ちがあった後に彩香に弁明しても、それはもはや手遅れだし、失礼だ。だから僕はこれまでずっと、彩香の部屋に訪れることを拒否していた。まぁ、言うなれば、僕が変にクソ真面目ということになるのかもしれない。

 彼女の部屋のベットには大きな可愛らしいクマのぬいぐるみが1体置かれ、じっと背後から僕を見つめてくる。彩香の会社で作成した個人情報を見るという、やってはいけないことを今やろうとしているという自覚はあるので、例えぬいぐるみの視線と言えど、どこか後ろめたさを感じる。

 前に月引村の参加者について知りたい旨を話すと、そのとき作成した参加者一覧のリストを見せてくれるというので、今日、彼女の部屋に来たのだ。


「確かこの辺りに保存してたかな……と、あった」


 マウスをカチカチと操作し、1つの電子ファイルを彩香が開く。

 ノートPCの画面の角度が悪く、僕の位置から少々見づらい。画面をよく見ようとノートPCに手を伸ばしたとき、彩香が顔を割り込ませてきた。 


「門外不出! 情報漏洩禁止! 分かった?」


 彩香から再三の忠告が入る。僕は二つ返事で、身を乗り出した彩香を腕で押しのけ、ノートPCを引き寄せた。隣から『もうっ』と少し不満気な声が聞こえてくる。そんな彩香にお構いなしに、僕はリストに目を通した。

 そこにはこの間、参加した月引村へのツアーメンバーがリストアップされていて『あいうえお』順に参加者が並べられていた。


『あ、か、さ、た、な……や、山井 謙輔』


 『や』の欄には僕の名前だけが記載されている。弟の陽介の名前が、そこにはなかった。


「このときさ、陽介も行ったんだけど、名前がないのはどうして?」

「えっ? 不思議ね」


 彩香はPCの画面を覗き込もうと、僕に身を寄せた。彼女の肩が僕に触れる。そして同時に大きな胸も彼女と一緒になって、僕の方にやってきた。


『お前は来るんじゃない』


 自制するのも疲れるので、無駄な願いだと思いつつも心の中で祈った。上から下までダボッとしたゆったり着れるパジャマなのだが、その生地が薄いせいで、より一層いつもより胸のでかさが強調される。なんて姿で男の前にいるんだと、親ならそんな娘に怒鳴りつけていることだろう。

 甘ったるい匂いがある一定の温度を持って、彼女の髪と身体から香る。その刺激が僕の頭を掻き乱す。もう頭がどうにかなりそうだ。


「確かにないなぁ、どうしてだろ?」


 そんな状態の僕の横で、彩香が人差し指を顎に当て、頭をかしげる。一瞬、彩香から目を外し呼吸を整えると、直って、僕は目の前のことに意識を集中させた。

 僕が今回の件を彩香にお願いした最大の目的は、名前の頭文字が『な』の参加者を確認することだ。陽介と共に携帯電話を変えたとき、自分の古い携帯電話の中に見覚えのないアドレス登録やメールのやり取りを見つけた。僕自身、何も覚えていないが何度もメールのやり取りを行っていて、その内容を見る限り、頭に『な』がつく人物と月引村へ一緒に行ったことは容易に推測できた。

 『な』の欄には5人。しかし1人だけ名前の記載がない参加者がいた。


「ここさ、空白の参加者がいるんだけど誰だかわかる?」


 僕は空白となった参加者を指さして彩香に聞いた。


「頭文字が『な』の人か。このメンバーで元住人となると長門さんぐらいかな。あ、ちょっと待って」


 何かを思い出したのか、彩香は僕からノートPCを奪うように取ると、僕に画面が見えないようにPCの向きを変え、何やら操作をしだした。


「さっきも言ったけど、参加者情報は大事なものなの。だから今さっき見せたのは、抜粋された一部。実際は住所なんかの細かい情報があって……これかな」


 目的のファイルを探し当てたのか、同時にマウスをダブルクリックする音が聞こえる。僕の方からはPCの裏側しか見えないので、何をやってるのかさっぱり分からない。


「さてと、どーしよっかなぁ……って、おい!」


 何かを考えている彩香の隙を狙って僕がノートPCを取ろうとすると、彼女は両手で頑なに掴んでガードした。


「だめ。タダでは渡さない。取引よ、今度一緒に海いこーよ」


 取引というからには相当のことだと覚悟したが、海で良かった。今の僕には、取引を選択している余裕などない。普段なら相手にしない提案でも、今なら甘んじて受け入れるしかなかった。僕は彩香の取引を承諾した。

 がっちりと彩香の手によってブロックされていたノートPCが解放されると、自分の方に画面を向け、彩香が開いたファイルを見てみた。


「びっくりね、こっちのファイルも名無しよ。最終版のデータなんだけど。でもほら『名無しさん』でも、ちゃんと住所や電話番号はあるみたい」


 彩香が指をさして、僕にその箇所を示した。


「この住所……謙輔の家とすごく近いじゃない?」


 見てすぐにそこがどこなのか分かった。裕二さんの住所だ。そして住所の隣には電話番号の記載もあるが、それは裕二さんのものではなかった。


「へぇ長門さんの家か。でもなんで電話番号が違うんだろ」


 電話番号は裕二さんのものではない。しかしその番号には見覚えがあった。僕の古い携帯電話に登録されていて、その人物こそが僕と何度もメールを交わした相手。

 それまで散らばっていた不可解なことが、1つの線のようにつながっていくのが分かった。月引村へ行った記憶がないこと、写真の妙に空いた空間、古い携帯電話での『名無し』とのメールのやり取り……月引村から帰ってきた後の陽介のいざこざ。おそらくすべての不可解なことは、ある一因によって生じた事象なのだ。

 確証はない。しかし、が本当に現実で起きえることなのであればすべて説明がつくのだ。

 僕はPCを操作して、参加者リストを横にスクロールした。名前の横に性別『女』の記載がある。携帯電話のメールの文面から相手は女性であることは何となく推測できたが、それを裏付ける証拠だ。

 ここにきて、一気に心の重石が落ち、気持ちが軽くなったような気がした。その解放感から、僕はつい彩香に意地悪をしたくなった。


「あれ? ということはさ、これってまずくない?」

「なにが?」

「だって、これって間違いってことでしょ? 彩香、お父さんに怒られない?」


 僕の言葉を聞き、みるみると彩香の表情が青ざめていくのが分かった。

 彩香のお父さんは怖い。そしてどんなことにも厳しいのだ。些細なミスさえも、後になって何倍にもなって返ってくることを、彩香は幼少期に学び知っている。


「あわわ……どうしよ」


 僕のこの推測は、非現実的だ。


『月引村に行くと記憶や存在そのものが無くなる』


 しかし現に非現実的なことが起こっていることも事実。おそらく答えは月引村にあり、行けば分かるのだろうが、理性がそれを拒否する。

 大きく溜息をつき、さてこれからどうしようかと考えていると横から『あ、改ざんをすればいいんだ!』と嬉々として叫ぶ彩香の姿があった。いや、そこは『修正』と言って叫ぶべきところだろう、と心の中で僕は突っ込みを入れた。





「その番号からいくと、携帯電話のようだね」


 紙に書いた電話番号を見て、裕二さんは言った。


うちにあるのは、私のこの携帯電話だけだ」


 裕二さんはズボンの後ろポケットから携帯電話を取り出し、僕に見せた。


「そうですか……裕二さんなら何か知っていると思ったんですが」


 電話番号について裕二さんなら何か知っているものと高をくくっていたので、安易に考え過ぎてしまっていたことを僕は後悔した。


「あぁ、ちょっと待って。私のものではないけど、見たことがある番号だ」


 電話番号が書かれた紙をじっと見つめながら、裕二さんが唸る。しばらく考えた後、おもむろに自分の携帯電話を手に持つと、紙に書かれた番号を打って電話をかけた。電話がつながらなかったのか裕二さんはすぐに電話を切る仕草をする。その後、携帯電話を数回操作して、僕に画面を見せてくれた。


「どうやらその番号、私の携帯に登録されている。誰だか分からないけどね」


 その画面はアドレス帳で、確かに同じ番号が映し出されていた。しかし名前の欄は空白になっている。


「すまないが説明してくれるかい? さっき私が話ことと関係しているんだろ?」


 裕二さんが僕の自宅を訪ねて来てから今日まで、僕が調べてきたことをすべて話した。


「なるほど、この番号の人物と一緒に月引村に……。しかも住所はここ、か」


 裕二さんはしばらく考えると『ふふっ』と笑って見せた。僕が怪訝な表情をすると、


「びっくりするぐらい、すべてのことがうまく繋がっていくことに驚いているんだ」


 と裕二さんは言って、続けた。


「それだけ『人の存在』というのは、大きなものなんだろう。摩訶不思議な力で例え記憶を消そうとも、存在していたことをすべて隠しきるのは難しいってことさ。これを見てくれ」


 裕二さんはアルバムをペラペラとまくると、1枚の古い写真を見せてくれた。写真には裕二さんの妻である杏月あづきさんが、ベットで何かを抱くように両腕の上にタオルを置いている。しかし、そのタオルの上には何もない。これはまるで……。


「もう古い写真でね。私も覚えていないが、でも見て分かるだろ? これは病院で妻が出産したときの写真だ。これを見つけたときびっくりしたよ。まさか自分に子供がいたなんてね。この写真に記された日付印から考えると、謙輔君より1歳上になる。似たような年頃だし、一緒に月引村へ行ったとしても不思議じゃないだろう。つまりだ……」


 裕二さんは一呼吸置き、僕の顔をこれまでにない真剣な眼差しで見ると、静かに言い放った。


「謙輔君がメールしていた相手は……私の娘だ」

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