第7-2
月引村の写真を見せた後、裕二さんから『見せたいものがある』と誘われ、1週間経った今日、自宅を訪れた。
「お邪魔します」
「遅かったね。タオルいる?」
「いえ、大丈夫です」
今週から梅雨に入ったようで、外はしとしとと長い雨が降っている。ただでさえ気分がずっと晴れないというのに、このじめっとした感じがさらに僕を落ち込ませる。僕は服に着いた雨粒をマンションの共用廊下で大方はらうと、家の中へと入った。
久しぶりに訪れたその家の中の様子を、玄関から見渡す。訪れるたびに違う花が生けられていた花瓶は、すでに片付けられ無くなっている。廊下には2個の段ボール箱が段積みにされ、通路の半分を通せんぼし、今にも出荷されるのを待っているかのようであった。
「どうぞ、上がって」
廊下を通りながら、ドアが開いている部屋の中をを覗く。大きな段ボールが部屋の真ん中に置かれ、詰めている最中だったのか物が床に乱雑に置かれている。
最後に訪れたのは、もう1年以上も前になる。その時の様子と比べると多くの物が片づけられ、卒業式当日の教室のような物寂しさを感じる。引っ越し準備の方は、終盤といったところであろうか。
「散らかっていて、すまないね。適当に座ってて」
裕二さんに促され、僕はソファに腰を落とした。
しばらくすると、裕二さんが立つ台所の方からコトコトとお湯の沸き立つ音が聞こえてくる。
「謙輔君、ハーブティーは飲める?」
「はい」
そう答えると花の爽やかな香りが、ふんわりと僕のところまで漂ってきた。
『昼食後のハーブティーか』
そういえば歯も磨かず、急いで家を出たことを思いだした。食べたカレーの味が、ほのかに口の中に残る。
人と会うというのに、陽介が実験と言って様々なタイプのカレーを作ったのだ。味はそこそこ美味しかったのだが、量が凄まじかった。この時期、物の腐敗が早い。残して腐らせるのも勿体なかったので、家族3人で必死になって平らげたのだが、案の定、
『サッパリするし、丁度いいか』
少しすると食器同士が当たるカチカチという音とともに、裕二さんがこちらへやってきた。手に持たれたお盆の上には、ハーブティーを入れたカップ2つ、とお洒落な花柄模様のティーポット。
1つ1つのカップをゆっくりとした動作で、裕二さんはテーブルに置いた。
「せっかくの休日に来てもらってすまない。早速だが本題に入らせてもらうよ」
余程、気がせっているのだろう。ティーポットを載せたまま、裕二さんはお盆をテーブルの端に寄せて置いた。すると、おもむろにテーブル横にあった荷詰め最中の段ボールの中から、何やら分厚い冊子を取り出した。
ドンという重そうな音とともに、テーブルに置かれる。見るとその表紙には、ローマ字でアルバムと書かれている。
「そうだな……いきなり本題に入るのは、正気を疑われるか。先にあれを見せるか」
独り言のように呟くと、裕二さんは立ち上がって別の部屋に行き、手に1枚の紙を持って戻ってきた。
「これを見てほしい」
裕二さんはソファに座ると、テーブルにその紙を置いて僕に見せた。
『花瓶、ベランダ、部屋、写真』
4つの言葉が書かれていて、そのうち『部屋』の文字だけバッテンの印がされている。
「何ですか? これ」
「去年……いやその前の年末だったと思うが、この家に帰った時に私が感じた違和感だよ」
「違和感?」
裕二さんはカップを手に持つと、入れたてのハーブティーに息を吹きかけ冷ました。そして一口飲んで、同時に『熱っ』という言葉が漏れる。
カップをテーブルを置き、裕二さんが話を続ける。
「花瓶とベランダ。見れば分かるだろうが、ベランダには鉢やプランターが置かれていて植物が植えてあった。玄関の花瓶なんかもそうだ。花が飾ってあった。まぁ、どれも私が長い間、家を開けていたせいで見たときは枯れていたよ」
だから何だというのだろうか? 誰だって植物をベランダや玄関に置いたりするし、水もやらずに長い間留守にしておけば枯れもする。説明を聞いても、要点を理解できなかった僕は、気のない相槌を打った。
「はぁ」
「分からないかい? 謙輔君も知っているように私は転勤で違う場所に住んでいる。ここに帰ってくるのは2、3ヶ月に一度だ。そんな状態なのに、独り者の私が花のような短い命あるものを育てているというのは、おかしくないか?」
説明を受けても、しかしまだ何を言いたいのか分からない。誰かが勝手に家に入ってきて、植えたということを言っているのだろうか?
「植物を買ったり、植えた記憶はないんですか? その……ベランダに鉢を準備した記憶なんかも」
「記憶はないね。そもそも私はこの辺りのことはあまり知らないから、鉢なんてものをどこで買えばいいのか分からないよ」
「そうですか……」
話の筋が見えないというのは、何とも居心地が悪いものである。要点が分からず、僕が少しイライラしているのを察したのだろう。裕二さんは『ちょっと空気が悪いな』と言うと、ベランダの窓を開けた。外から湿った風と雨の匂いが室内に入ってきて、それまで部屋に籠っていた空気に一定の流れが生じる。
「先の見えない話をして悪かった。結論を先に言おう」
裕二さんはレースカーテン越しに、ベランダを越えた先の風景を眺めながら言った。
「この部屋には別の誰かが住んでいる」
ドドーン!!
テレビドラマや漫画なら、このタイミングで裕二さんの背後に大きな雷が落ちているところだろう。しかし僕がいる世界は現実だ。そんな衝撃的な言葉を聞いても、外からは雨の落ちる小さな音だけが聞こえてくるだけであった。
「まぁ、正しくは『住んでいた』が正解だろう。今はその気配ない」
裕二さんは僕の向かいのソファに再び腰を下ろすと、カップが入ったハーブティーを静かにすすった。裕二さんが手に持ったカップがテーブルに置かれ、再びその口が開かれる前に、僕は頭をフル回転させ情報を整理した。
裕二さんはここに引っ越してからずっと一人。奥さんに先立たれ、本人は転勤で基本的にこの家には誰もいない。つまり……
「えっと……じゃあ鍵を持っている人ってことですよね? 例えば管理人さんとか」
ハーブティーを飲む手を止め、裕二さんは一瞬『おっ』という顔をする。
「君の言葉で、今思い出したことがある。覚えているかどうか分からないが、昔、月引村に占い師がいただろ? 私は非科学的なことが大っ嫌いだったが、うちの妻が好きでよく家に招き入れていたんだ。ある日、私が帰ると病床の妻が布団から起き上がって、占い師にパールの指輪を見せていたんだ。私は『そんな高級なものを怪しい占い師に見せるもんじゃない』とその場で怒ったんだ。すると、占い師は何とも恨めしそうな顔でその指輪を見ていてね。それからしばらくして妻が亡くなったんだが、同時に妻が大切にしていたその指輪がどこかにいってしまったんだ。おそらく葬儀のどさくさに紛れて、その占い師が盗んでいったんだろうと私は思っている。結局、妻は信じていた相手に裏切られたことになる。今の話に戻すと、『そんなことをするはずがない』と管理の職に就いた人間を私は完全に信じているが、裏切られる可能性も十分に秘めていることを君の言葉で思い出したよ。確かにその線もある。ふふっ、謙輔君、探偵の素質あるかもね」
裕二さんの態度が、まるで玩具で遊ぶかのように僕の反応を楽しんでいるように見えた。気分を悪くした僕は、少し突き放した言い方で返した。
「すみません、今日僕が呼ばれた理由ってこのことなんですか?」
すると今度は急に真面目な顔になって、僕の目をじっと見つめた。そして落ち着いた口調で話した。
「これは……君にも関係することなんだよ、謙輔君」
力強い目が、僕の目に釘を打つ。目を逸らすことができない。この表情は冗談でも、僕をからかっている訳でもない。僕はそこでようやく、一連の会話はすべて本気なのだと悟った。
「……僕に?」
「ほら、この写真を見てどう思う?」
先ほどテーブルの上に出したアルバムを開き、1枚の写真を見せてくれた。写真には裕二さんが1人が映っており、お花畑などを背景にカメラの方を向いて楽しそうに笑っているものであった。
そしてその写真を見て、僕はすぐに裕二さんの言いたいことを理解した。
「これは……僕の撮ってきた写真と同じ……ですね」
「そうだ。謙輔君が月引村で取ってきた写真と全く同じなんだ。この横に空いた妙な空間、私が撮った写真でも同じ現象が見られる」
アルバムに入った写真を指差して、裕二さんは話した。写真は結構、昔のもののようで、裕二さんの顔が今より随分と若い。
「他にも謙輔君の写真と共通していることがある。例えば、この何を被写体として写したのかよくわからない風景写真だ。ピントが背景ではなく中央手前に合っている。まるでそこに何かがあったかのように、だ」
裕二さんの話を聞き、僕の鼓動がいつにも増して早くなっていくのが分かった。
心の中で『もしかしたら』と思う一方で、そんな非現実的なことが起こるはずもないと否定していたーー。
希望の大学に進学し、2年生への進級も問題なかった。周りが羨むほど可愛い彼女もできた。これほど生活が順風満帆で何に不満があるだろうか? しかしなぜか僕の心は、受験勉強から解放された、この1年間ほど満たされない。そう、おそらく月引村へ行ったときからだ。
ただ以前から月引村に対し、
先週の休日、自分の古い携帯電話にその形跡を見つけ、それから色々調べていくうちに、徐々にのしかかった石が軽くなっていくような気がした。おそらく核心に近づいていっている証拠なのだろう。ただ一方であまりにも空想的な考えだったので、月引村へまた行くことに二の足を踏んでいた。
はっきりと口には出していないが、同じ事を裕二さんも思っているに違いない。
『自分の近くに誰かがいて、そしてその人は今、存在しない』
自身と同じように感じている人物が、こんな近くにいたことに、僕は激しく胸が高鳴ったーー。
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