第7-1

「お疲れさんだね。毎回遠いところから帰ってきて」


 今年は、これでもう何度目だろうかーー。

 年に2、3回程度だった謙輔くんのお父さんとの飲み会を、かれこれもう5回以上やっているような気がする。まだ5月に入ったばかりだというのにだ。とは言っても、最近は私も忙しく、飲み会も簡素ですぐに切り上げていた。しかし今日は、ある目的を持ってここに来ている。


「いやいや、山井さんに会いたいためですよ。あははっ」


 というのはリップサービスで、実際はこっちにある自宅を引き払う準備をしているため戻ってきている。今年に入ってその決断した私は自宅の整理をするため、月2回のペースでこっちに帰ってきているのだ。

 山井さんはいつもと同じように瓶の栓を開けると、食卓に並ぶ自分と私のグラスにビールを注いだ。このときの山井さんほど、見て思わず笑みがこぼれてしまうことはない。見た目は中年のはずなのに、その表情はまるで小学生の男の子を見ているのかと思うほど、目は輝き、口はほころび、そして無邪気だ。本当にビールのことを愛してやまないのだろう。

 ビールを一口飲むと、炭酸にしびれ、活きの良い反応が山井さんの口から返ってきた。


「ふぅ……しかし引っ越すとなると、寂しくなるな」

「たまにこっちに帰ってきますよ、私もみなさんの顔を見たいですし」


 10年以上も前に妻に先立たれ、村の閉鎖とともにこっちにある今の自宅に一人で移り住んだ。それから暫くして転勤が決まり、今の自宅にほとんど住まず、転勤先で安いアパート暮らしだ。

 仕事疲れがないときは休日を利用して、こうしてたまに帰ってきては、友人である山井さんとご一緒させてもらっている。5歳ほど私よりも年上だが、新参者の私が村に移り住んだときからずっと仲の良い関係だ。引っ越しぐらいで友人関係を終わらせるには、惜しい人物だ。

 月引村では山井さん以外の村の人たちとは気が合わず、よく口論となっていた。他所から移ってきた者に対してどこか壁がある月引村の人たちを、信用することができなかった私にも責任があるのだろう。しかし月引村の人たちもまるで私に大きな落ち度があるかのように、些細なことでも血相を変えて突っかかってきたのだ。すべて私の方に非があるという訳ではない。

 そんな中、月引村出身の妻がよく村の人たちとの間を取り持ってくれていた。怒鳴り込んできた月引村の人を相手していると、その声を聞きつけ、必ず妻がやってくる。妻は相手の言うことをまず始めにすべて聞き、受け止める。『人間、言いたい事をすべて吐き出しさえすれば、後に言うことは何もないの』と妻は言った。だから妻は、始めに相手の言い分をすべて聞くのだ。事実この方法により、事を穏便にすませることができたのが幾度となくあった。相手の気分が冷めている状態であれば、例えキツイ反論をしたとしても、落ち着いた口調で話しさえすれば、相手も冷静になって話し合うことができたのだ。今考えると、妻に大きな負担をかけていたと思う。

 村の者たちとはそんな関係だったからこそ、山井さんとはここまで気心知れた仲になれたのだろう。旧知の仲とは、こんな関係のことを言うのかもしれない。私は、ふとそんなことを思いながら、グラスに入ったビールを一口飲んだ。


「そういえば謙輔君、会うのは久しぶりだね。元気だったかい?」


 食卓から2、3mほど離れたダイニングのソファで、テレビを見ている謙輔君に、私は背中越しに声をかけた。


「はい」


 座りながらこちらに振り向き、謙輔君が手短に返事をする。

 さっきリビングに入ってきたときもそうだ。謙輔君の私への態度が、少しよそよそしい。久しぶりにあったせいかもしれない。彼が人見知りな性格であることを熟知していた私は、その穴を埋めるべく、会えずに話せていなかったことを話すことにした。


「去年は私も忙しくて、こっちに帰ってくることができなかったよ。第一志望の大学に入学したんだってね、遅くなったけどおめでとう」


 すると謙輔君は見ていたテレビを消すと、わざわざこちらの食卓に出向いて、頭を軽く下げ、礼を言った。私が祝い金などを持っていないにもかかわらずだ。バツの悪さに思わず、私は『いいよ、いいよ』と言って態度を収めてもらう。

 彼のそんな礼儀正しい性格が、私は好きだ。教師という職業柄上、時間割表のような『区切り』を好む。ある時間から何を始めて、ある時間までに終わる。そしてまた次の時間から別のことをやる。そんな規律ある生活が私には心地よいのだ。だから予定時間を過ぎても、終わらない会議などがあると『いつ終わるのか』と本当にイライラしてしまう。そしてそんな碁盤の目のような整然としたさまは、何もスケジュールの話だけではない。人に対しても同じで、態度や行動が線引きされたように、はっきりした相手の方が私は安心する。喧嘩した後に、和解もせずに一緒に行動をする、なんてことはもってのほかだ。だから先ほど謙輔君が、『テレビを消して』、『こっちに来て』、『礼を言った』という一連の行動は私にとって、とても好印象であった。もしソファに座ったまま、振り向きざまに礼を言われたとしても、私の心には響かなかっただろう。まぁ、祝い金を手渡してもいないのに、礼儀がどうこう言う私もどうかと思うが……。

 しかし豪快な山井さんが、よくこんな対照的な性格の繊細な子を育て上げたな、と私は改めて感服した。


「努力が実を結んだ、ということだね。子供を持たない私に親心は分からないが、山井さんもきっと誇らしいじゃないですか?」

「何がだ?」

「だってこの辺では中々、レベルの高い大学でしょ? 自慢できるじゃないですか」

「俺にそんな悪趣味はねぇよ。謙輔が自分の力で取った合格だ。何にもしてねぇ俺が本人を差し置いて、自慢なんて恥ずかしい真似ができるか」


 山井さんは吐き捨てるように言った。こういうところが山井さんに好意的な印象を持つ理由なのかもしれない。自分は自分、相手は相手。例え自分の息子であろうと、個人を尊重してくれる。私が月引村出身ではなくとも、山井さんはそんなことなどお構いなしに付き合ってくれていたのだ。


「そういえば月引村への里帰りはどうだった? まだ話が聞けてなかったね」


 例え冗談でも、自分の幼稚な考えを親にでも咎められたような気がして、恥ずかしくなった私は、2年前の夏にあった帰郷の話題へと強引に変えた。そしてそれは今日、謙輔君の家にお邪魔した目的でもあった。


「実は、あんまり覚えてなくて。いろんなところが取り壊されていて、もう昔の月引村ではなかったです」

「そうか、それなら私の家も……」

「『裕二さんの家も無かった』と確か聞きました。僕は見ていないんですけど、えーと……陽介から聞いたんだったかな」


 妻との思い出の場所が、今でも残っていたらどんなに良かったか。何となく想像はしていたがいざこうして知らされると、希望のようなものが身体からすっと抜けていくのが分かった。

 人の記憶には限界がある。まだ歳は44と若い方に私は分類されるかもしれないが、最近、物忘れが多くこのままだと妻のことさえも忘れてしまうのではないかと焦りを感じている。今年で妻が亡くなって15年。2年ほど前まではそんな心配などなかったのだが……。

 人の記憶は物と結びついていることも多いので、もし家が残っていて1枚でも写真に収めることができていたのなら、それが妻との思い出を新たに想起させるきっかけになっただろう。こっちに持ってきたアルバムだけでは、思い起こす記憶に限界があった。新しい記憶を呼び戻すため、現在の家の写真を見ることを期待していたのだが。


「写真をお願いしていたのは……陽介君の方だったかな? わざわざ私の家まで行ってくれて申し訳ないと思う」

「いえ、そんなこと気にしてないと思いますよ。そんな繊細な性格じゃないんで。あぁ、でも家の写真はないですが、一応何枚か村の写真を撮ってきたんで見てください。殺風景な絵ばかりですけど」


 謙輔君はダイニングにある棚を開け、束になった写真を取り出すと目の前のテーブルに置いた。その束の一番上に見えるのは、謙輔君が一人でバスの席に座って撮った自撮り写真のようだ。撮る角度を間違えたのか、少しズレ、謙輔君自身が写真の端っこに映っている。


「じゃあ、ちょっと見せてもらうよ」


 私は写真を手にとって一枚一枚じっくりと見せてもらった。はじめの何枚かは練習だろうか。風景だけの写真を撮っているのに、ピントが合っていない。


「ふふっ、謙輔君、あまり写真を撮るのは上手くないね。これならまだ私の方が上手いかもしれない」


 謙輔君は本当に写真を撮ることが苦手なんだろう。自撮り写真の多くは、肝心の謙輔君自身が写真中央に捉えられていない。そのせいで彼の隣に妙な空間が空いていた。写真を見せて指摘すると、


「ふふっ、バレましたね。現像した後に、僕も気付いたんです。ちょっと下手くそですよね」


 謙輔君はちょっと照れた様子で笑って見せた。


「それと陽介が映る写真が一切なくて、あとで少し怒られましたよ」

「怒られた? 陽介君に?」

「父にです」

「そりゃあ、そうだろ。カメラを持ってる本人ばかり映ってるんだから。少しは可愛い弟のことも撮ってほしかったよ。まぁ……勝手に携帯を解約している俺に比べれば、随分マシなほうだがなぁ、あはは」


 軽快な口調で話す山井さんの顔を見ると、少し赤らんでいる。ビール瓶を外から透かして見てみると、中身がもう半分ほど無くなっていた。謙輔君との会話に夢中になっていたので、1人でビールが進んでしまったのだろう。医者から注意されていることを考えるとこれ以上、山井さん1人で自由に飲ますのは危険だ。

 私は山井さんの目の前にある瓶ビールを手に取ると、グラス一杯に注ぎ一気に飲み干した。間髪入れず再びビールをグラス一杯に注ぎ、半分ぐらいあったビールを一気に空ける。

 山井さんは、私が気を許せる数少ない友人だ。酒好きの山井さんには申し訳ないが、身体のことを思い、目の前のビールを空けることで私は彼の減酒に協力した。

 保護者の謙輔君の前に空となったビール瓶をどんっと置くと、すみませんと言って彼は頭を下げた。謙輔君からこれが最後の1本であることを告げられると、山井さんは『ちぇっ』と舌打ちし、いつか見た光景と同じように、残り僅かのビールをちびちびと口をつけて飲みだした。こうなってしまうと、山井さんは口数が少なくなる。意識をビールに集中するからだ。いつだったか、話が盛り上がってせいで、無意識にグラスを空けたことがあった。山井さんはそれを酷く悲観した。それ以来、山井さんの中では、会話<(より)ビール、なのだ。

 安心した私は、再び写真に目を戻す。


「謙輔君、これは?」


 何の変哲もない、おそらく学校の屋上で撮られた写真だと思うが、その1枚に私はなぜか引き付けられた。メインの被写体が何なのか見て取れず、ただ漠然と屋上の中央が映っている。まるで屋上中央に何かが存在していたかのような構図に、私は妙に引っかかるものを感じた。


「僕も分かりません。あまり覚えていなくて。ただその時、何か綺麗のものがあってそれを撮ったような気がします」

「綺麗なもの……」


 私には廃墟などが醸し出す哀愁のようなものを楽しむ心はない。謙輔君も私が知る限り、そんな趣向を持つ人物ではないはずだ。

 だとすればーー、


 ーーーーーー


 ーーーー


 ーー


「ふ……ふっ、あは、あははっ」


 堪えようと思ったが、我慢がきかず腹の底から笑ってしまった。


 何も面白楽しくて、笑ってしまったのではない。


 ーー嬉しかったのだ。


 歓喜の笑いだ。


 怪訝な表情で謙輔君や山井さんが、こちらを見る。でもそんなことは、お構いなしだ。ここ最近不思議に思っていたことが、ようやく自分の中ではっきりとした。謙輔君自身は、気付いていないのかもしれない。しかし間違いなく彼は私と同じ境遇であることを直感した。


『まさかこれほど近くに、同じ境遇の人間がいたとは』


 今日来た目的である、月引村の写真を見せてもらう、は叶えられなかったが、思いもよらない収穫を得た。

 2人には申し訳ないが、私の込み上げてくる嬉しさに、しばらく付き合ってもらうことにした。

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