第6-4

 家に帰ると、リビングで床に座って父と陽介が、何やら頭を悩ませていた。テーブルの上に置かれたカタログのようなものを、2人でじっと静かに見つめている。そんな真剣な雰囲気に水を差すかのように、僕は帰ってきたことを2人に告げた。


「ただいま」

「おぉ謙輔、おかえり」


 僕の挨拶によって張り詰めた緊張の糸が切れたのか、父は大きく息を吐くと、


「陽介、俺はもう駄目だ」


 と言って立ち上がり、背もたれに使っていたソファにずっしりと腰を沈めた。そしてゴロンと寝転がると、天井に顔を向け、目をつぶってしまった。

 2、3m離れて突っ立っている僕からの位置でも、父から発せられる汗のニオイを感じる。休日だというのに、仕事から帰ってきたかのような臭いニオイだ。


「どうしたの?」


 僕はじっと何かのカタログを見ている陽介に声をかけた。

 どうやら陽介の携帯電話の契約について検討していたらしい。そして、その契約プランが色々あり過ぎて、何が適しているのか分からず悩んでいた、とのことだ。


「50歳近い俺には、もう難しすぎる……」


 目を閉じた姿勢のまま、父が嘆く。心底疲れ果てた、そんな雰囲気が父から滲み伝わってくる。そんな光景を見て、2年ほど前にも同じことがあったのを僕は思い出した。


 どこか遠出の後、陽介と2人で家に帰ると、父が勝手に陽介の部屋を片付けてしまっていたことがあった。部屋には不要な物が持ち運ばれ、完全に物置として生まれ変わってしまっていたのだ。

 陽介が『何でこんなことをしたんだ』と怒って問いただしても、父は自分でもなぜそんなことをしたのか分からず、狼狽するばかり。最終的には自分の歳のせいにして、陽介に平謝った。

 ただ父の『過ち』は、それだけで終わらなかった。父は勝手に陽介の携帯を解約していたのだ。父に解約した理由を聞くと、


『確かになぁ、解約したことは覚えている。でも何でだろうな……どうしてそんなことしたんだろうなぁ……』


 と言って自身も心底困った表情で、その後も独り言のように『なんでだろうぁ』と呟き続けた。父は何度も自問自答したのだろう。しかしその答えは結局、見つかっていないようであった。

 その後、携帯電話の再契約のため、今と同じように携帯電話各社の契約プランが載っているカタログを目の前に並べ、頭を悩ませる父を見たのだ。

 父は昔から、契約のような細かいことが苦手だ。僕が携帯を持つことになったときも、自分は苦手だからと僕1人を携帯電話ショップに行かせた。契約に必要な書類一式は、事前に準備していたのでそこは問題なかったのだが、最後の保護者への電話確認で父に連絡が取れないというトラブルが発生した。何度も電話確認の連絡が、ショップからあることを伝えていたのにだ。結局その日は連絡が取れなかったので、後日、父が同行して契約することになった。店員から契約に関する話をされ、額に冷や汗のようなものを見たとき、父は本当に小難しいことが苦手な性格なんだと、初めて僕は理解した。

 あのとき以来だろうか。父がこうして現代の文明に追いつけず、打ちひしがれる姿を見ているのは。この仕事帰りのようなニオイも、父なりに必死に理解しようした証なのかもしれない。

 しかし不思議なことに、陽介にまつわるトラブルは父だけではなかった。夏休みが明け、学校に行くと、陽介の在籍するクラスがなかったのだ。自分のクラスに行くと見知らぬ生徒ばかり。混乱した陽介が偶然通りがかった先生に助けを求めると、そこから嵐の幕開けだった。

 事を伝えられた先生が他の先生に伝え、その者は驚き慌てる。そしてその1人がまた別の者に話を伝え、その者もまた驚く。まるで伝染病のように1人から始まった混乱が次第に広がっていく様子を、職員室まで同行した陽介は目の当たりしていた。そして最後には職員室全体が混乱の渦の中に陥り、もはや一限目の授業のことなど、誰も気にしていない様子であったという。

 まるで、それまで陽介不在で世界が動いていたかのように、様々な手続きが父のみならず学校までもが追われることになったのだ。奇遇なことに一緒に生活していた僕でさえも、直近1年間の陽介に関する記憶について問われると、その部分だけぽっかり穴が空いたように思い出すことはできなかった。もちろん、それ以前の記憶はあるのだが。そんなゴタゴタした雰囲気の生活が1週間ほど続くと、陽介にもようやく、いつもの日常が戻ってきたのだった。


 僕はソファで倒れている父を横目に陽介の横に座ると、一緒に契約プランを検討することにしたーー。




「いやっほー!」


 陽介の奇声が帰るなり、家中に響き渡る。


「陽介、うるさい」

「えぇ? 兄ちゃんもうれしいでしょ?」

「別に興味はないよ」


 僕たち2人の手には、新しい携帯電話が入った手提げ紙袋がぶら下がっている。僕はいらないと父に言ったが『またいずれ来るのが面倒くさい』と言う理由で、陽介1人の携帯電話の更新のはずが、僕や父も更新することになったのだ。今流行りのスマートフォンというもので、画面をタッチして操作でき、とても便利なものだとか。陽介は料理の勉強を始めたので、インターネットで簡単に調べ物ができるため何かと都合良いようだ。ただ僕にとっては、前の携帯電話(ガラケー)でさえあまり使わなかったのだから、こんな便利なものはきっと宝の持ち腐れになるだろう。


「高かったんだから、お前ら大切にしろよ」


 父が背後から、陽介の浮ついた気持ちに釘をさす。


「わかってるよ」


 陽介は雑に靴を脱ぐと、おしっこでも洩れるのかと思うぐらい、急いでリビングへ駆け込んでいった。そんな陽介の慌てた動きを見て、父から『おいおい』と呆れた声が聞こえてくる。

 父はリビングに着くなり、新しい携帯が入った紙袋をテーブルに置くと、そのままソファに倒れ込んで寝てしまった。契約に関する手続きで疲労困憊ひろうこんぱいなのだろう。

 僕と陽介はその横のカーペットが敷かれた床に座って、『スマホ』というものがどんなものか、さっそく手に取って体験していた。僕の隣で操作しながら大はしゃぎその姿は、同性でありながらも可愛い弟だと思った。


「兄ちゃん、電話かけていい?」

「いいよ」


 僕がそう返事をすると、電話の着信が鳴り、携帯の画面にでかでかと『弟』の文字が表示される。


「おぉ、ちゃんと電話できた。へぇ! なんかかっこいい音だね」


 慣れない携帯電話を手に持ち、どうやってこれを消すのかと画面を見て悩んでいると、陽介の方から発信を取り消した。

 初めて操作しているというのに、まるで既に知っているかのように陽介の操作が早い。たった2歳の違いだというのに、陽介の感の鋭さを見せつけられたような気がした。

 そんな簡単な操作すら、手間を取った僕は自身に嫌気がさし『やっぱり前の携帯電話が良かったな』と、買ったスマホの備品が入った紙袋から、古い自分の携帯電話を取り出した。

 自分のてのひらに収まる程度の古い携帯電話は、あまり使用頻度は多くはなかったが目隠しでも操作できるほど慣れ親しんでいた。もう通話などはできないが、最後のお別れといわんばかりに僕は電源を入れ、適当に操作をし惜しんだ。

 そのとき、ふと僕は気になることを見つける。メールの受信履歴を開いて、過去のやり取りの内容をさかのぼったときだ。送信者や内容自体が空白となったメールが、いくつもあったのだ。数通という量の話ではない。ほぼ僕の携帯に入っている受信メールがそんな状態であった。

 調べていくうちに、ある特定の人物からの内容だけが消去されていることが分かった。ただある人物といっても、消去されているので名前は特定できないが、アドレス帳の『な』の項目に登録されていることまでは突き止めた。


『メールだけでなく、着信も何度も受けている……。これだけ頻度が多いと記憶に残りそうなものだけど……全く覚えていない』


 古い携帯電話を今となって熱心に操作している僕を、陽介は不思議に思ったのだろう。


「さっきから何やってるの?」


 と、陽介が訝しげに聞いてきたので、僕はあらましを説明した。すると、


「それだけメールが来てるなら、自分からも何か返しているんじゃないの?」


 と、考えもしていなかったことを、陽介が言い放った。相手のことを熱心に追求する余り、そんな簡単なことすら頭からすっぽり抜けて、思いもしなかった。

 陽介が言ったとおりメールの送信履歴を確認すると、確かに、送信先が空白となった相手に僕からもメールを返していた。

 数件のメールを開き、内容を確認する。どれも業務的な内容ばかりだ。何を買うだとか、何時に行くだとか、まるで親とのメールだ。

 この人は誰なのだろう。なぜ僕はこのメールのやり取りすら覚えていないのだろう。メールの文面からして、家族のように近い存在であることは分かった。ただそこまでだ。これ以上のことは何も分からなかった。なぜこの人物とのやり取りだけが消去されているのか知る由もないし、自身の記憶にもない。


『携帯電話の更新の際、ある特定のデータだけが消えてしまったのだろう』


 僕は自分の中で大雑把にそう処理し、そっと古い携帯電話の電源をOFFにしたのであった。


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