第6-3
「案外早く終わっちゃったね。時間空いたけど、どうする?」
賑やかな公園から出ると、すぐに退屈そうな反応を彩香が示した。彩香の横に並んで歩きながら、僕は取り敢えず考える素振りを見せる。
「そうだなぁ……」
数秒考えてみたが、何も頭に浮かんでこない。剣十さんと会うことばかりに意識が集中し、その後の予定を何も決めていなかった。彩香から質問されたことにより、これから僕は暇を持て余すことなるのだと理解した。
行く先は決まっていなかったが、僕たちは何となしに歩いた。その方向は彩香の家であり、そして僕の家だったりする。しかし終着点はまだ決まってはいない。
僕は遠くの方の空を眺めて、自身の心に問うてみた。
『僕は何がしたい?』
しかし、心の底から湧き上がる返事は、何もなかった。付き合いだして1か月だというのに、こんなに落ち着いていていいのだろうかと、ふと思う。
世間の若葉カップルであればまだまだ始まったばかりで、あれやこれやと一緒に経験したいことが山積みだろう。だが僕は彩香に対して、一緒に何かをしたい、そんな思いは微塵もなかった。
途方に暮れ、ただぼんやり歩いているといつの間にか、いつも行く路地に来ていた。
路地の両側にはお洒落なアパレルショップが立ち並んでいて、この辺では若者が集まる場所として有名なストリートだ。地面はベージュのタイル貼りで、路地中央には数m間隔で大きな街路樹がキレイに植えられている。その間には様々なキッチンカーが長椅子やパラソル付きの丸テーブルを備えて、通行人たちを待ち構えている。一見すると海外の通りにも見えることから、『ヨーロッパ通り』とも若者の内で呼ばれている。とはいえ、こんなハイカラな通りはここだけで、長さもそれほどない。月引村より都会と言っても東京ほど豪華ではないこの場所は、流行に敏感な若者とって、口寂しいときに食べるツマミのようなものだ。つまりは活発な者であれば、ここでは満足できず物足りない。
ただそんな場所でも僕たちにとって、まだ新鮮で楽しく感じられる場所であった。付き合う前、彩香は1人でここで買い物をしたことはあったというが、やはりカップルで来るとまたその場で味わえる雰囲気が異なるらしい。2人でお喋りしながら買い物するというのは、当然1人のときには出来ないことで、それがまた楽しいのだと言う。僕はというと、もちろんこんなお洒落な場所を1人で通る勇気なんてものはない。ただ何度か来た記憶はあるが、そのとき誰と一緒に来たのか、はっきりとは覚えていない。だから僕にとっても、まだワクワクした気分を味わえる場所なのだ。そういうことなので、僕たちにとってこの通りはまだまだ時間を潰すのには十分な場所なのだ。
美味しそうなものがあれば食べ、可愛い服があれば試着する。食べ歩きをしながらこの路地を通る。それが僕たちのいつものデートコースだ。そして、なるべくお金をかけない。そんな高校生ような質素なデートをするのが僕たちだ。
お互い二十歳となったというのに、未だ青臭いデートから脱却できないこの状況について、彩香に一度聞いたことがあった。
『お金がないんだから、しょうがないじゃん』
彩香からは現実的な答えが返ってきた。可愛い顔をしているにもかかわらず、彩香は現実をしっかりと直視している。容姿に恵まれた者は、大抵ちやほやされて性根や金銭感覚が腐ってる奴が多い……はずだ。これもゆかりちゃんの教育の
しかしお金が無いからといって、ただ街中を通り過ぎただけだったときは、さすがに僕も罪悪感を感じた。
彩香はこんな僕をずっと好いていてくれ、何度も告白をしてくれた。インドア派で家に籠ることが多い僕を外に連れ出そうと、何度も声を掛けてくれた。それなのに、いざ外に出るとただの街の中の散歩だ。行く当てもなくただ気の赴くままに歩くなんて、老人の朝の散歩と何ら変わりはない。果たして彩香は、こんなデートに満足しているのかと思うことはある。これがカップルがするデートかと……。
とはいっても、お金がかかること以外はカップルらしいことをしている。抱き締め合うことはまだにしても、手をつないだり、腕を組んで歩くことはようやく照れずに達成したところだ。
そんな触れ合いが、今の彩香にとって、とても楽しいようだ。腕を組んで歩いているときの彩香の表情は、これ以上ないと思うぐらい明るく微笑んでいて、そして嬉しそうだ。自分で言うのもおこがましいが、恋人となった僕と一緒にいる、ただそれだけで楽しいのだ。完全に心を許している状態なのだろう。
それにしてもずっとこんな表情見せられていると、いつか彩香が言ったように自分も好きになってしまいそうだ。そうなった暁にはむしろ自分の方が、彩香に熱を上げてしまっているに違いない。
彩香の告白を受けたのは、何も嫌々ではない。自分の中で釈然としない気持ちがあって、それが引っかかって告白を断っていた。大学入って1年経った後も一向に気持ちが晴れる様子もなかったため、彩香に待ってもらうのが申し訳なくなり承諾した恰好だ。正直なところ、彩香に対して友達以上の感情を持つことは、今のところ無い。だから恋人という言葉に多少抵抗を感じてしまう。もちろん告白を受けるとき、僕の彩香に対する想いは伝えている。ただ彩香は、今の僕の想いなど歯牙にもかけていない。付き合いさえすれば、そんな想いなど
『付き合う』とお互いが宣言することは、若い人でもできる一種の契約だ。だからこの宣言が無ければ、彩香は相手に恋人らしいことはしたくないし、してもらいたくもない、と言う。これもゆかりちゃんからの教えなのだろう。この宣言を境に、彩香の行動が以前と比べ大胆になった。こちらの心の準備ができていないというのに、自身の胸に当たるほど腕を引き寄せたり、口が触れ合うのではないかと思うぐらい顔を近づけたりするのだ。まるでそれまであった見えない壁がなくなったような感じだ。いくら彩香にまだ心が無いとはいえ、男である以上、しかも客観的に見ても可愛い女性を前にして『興奮するな』というのは無理がある。彩香が僕の予想を超えた大胆な行動を取るたびに、僕の顔は照れのあまり赤く紅葉し(しているはずだ)、心がドキドキと高鳴った。
「ねぇ、この色どう思う?」
彩香が僕に顔を近づけ、唇を見せた。薄いピンク色で明るい口紅だ。濃艶な彩香に対し、そこだけトーンダウンしたような物足りなさを感じる。僕は頭を軽く捻って、口紅が並んだ棚から赤みが少し強いものを選ぶと彩香に手渡した。
「えぇ、これ? うーん、似たような色あるし……」
彩香は『ほら』と言うと、僕に向って、先ほどよりさらに唇を尖らせ突き出した。
刺激的な光景が僕を一種の混乱へと導く。艶のある柔らかそうな唇が警戒心もなく、すぐそこにあるのだ。
何が『ほら』なのか。主語述語が無い言葉に、僕は戸惑う。これは『ほら、(早くキスをして)』ということなのだろうか? 『いや、そうじゃない』という理性的な思いと、『そうだ! せがんでいるんだ』という男としての欲が僕の混乱した脳でつばぜり合いを始める。
勝負が決し、僕が彩香の頬に手をそっと沿わせて、自身の顔を近づけると、
「ちょっと、何考えてんの? もう一度、口紅の色よく見てよ」
と、彩香は僕の手を払いのけ、不満な口調で言った。
『そりゃあ、そうだよな』
僕は周囲をちらっと見て、こんな洒落た店内で彩香が誘うはずもないことを再認識した。可愛い顔をして普段遊んでいるような恰好の彩香だが、あばずれ女のように場所を選ばずそこらかしこで要求する女ではないことは重々承知だ。しかしあんな恰好を見せられたら誰でも勘違いするだろ、と僕は後から沸々と残念が気持ちが入り混じった怒りのようなものがわいてきたのであった。
「その色は……やっぱり彩香には似合わないかな」
「えぇ? そっかぁ。そろそろ夏っぽい色にしたいんだけど。ねぇ、大学の夏休みっていつから? どこか行かない?」
「8月頃からかな。まだ3ヶ月あるよ、気が早過ぎ」
「いいじゃん。計画は早いほうが、押さえられる旅館も多いよ?」
去年の夏は、高校のときの同級生たちと旅行に行った、と確か彩香が言っていたのを思い出した。
「去年のメンバーとは行かないの?」
「去年? そりゃあ女同士で行くのも楽しいけどさ、当然彼氏ができれば彼氏と行くのが一番楽しいでしょ」
彩香はそう言って、手に持っていた口紅を惜しげに棚に戻すと、僕の片腕を抱え込むようにぎゅっとして腕を組んだ。
とりあえず『今年の夏にどこかに行く』という大雑把な約束だけして、僕たちは帰ることにした。ちょうど辺りが薄暗くなる頃、彩香のマンションに到着し、そこで僕たちは『またね』と言って笑顔で別れた。彩香もようやくこちらの生活に慣れてきたのか、最近はずっといつもの彼女だ。
彩香の家は、僕の家から1kmも離れていない場所にある。5階建ての最近建てられたオートロック付きの賃貸マンションに住んでいて、引っ越してきてすぐの頃は寂しいと言って、よく電話がかかってきたものだ。会うたびに死んだ魚のような目をしていたのが、日を追うごとに瞼が下がっていった。最後には瞼が完全に下りてしまって、そのままご臨終となってしまうのではないかと心配さえした。何か楽しいことがないかと僕に訴えること半年、突然彩香からの連絡が途絶えた。一週間ほど何も連絡がなかったので、さすがに心配になった僕は彩香に電話をした。すぐに電話に彩香が出て、明るい口調で僕の声に反応した。なんでもカフェ店でアルバイトを始めたから、疲れで僕に電話をかける時間もなかったそうだ。しかし話しぶりからすると、彩香はとても楽しそうだった。人はある程度忙しい方が、幸せなのかもしれない。
僕は帰り道を歩きながら、薄暗い空を見上げ、賑やかな後の余韻に浸った。彩香と一緒にいると本当に楽しい。ただその分、別れた後の反動が大きい。祭り後の名残惜しさのようなものがある。
横断歩道で信号待ちをしていると、そんな気分に水を差すかのように信号機の『ポッポ』という音が僕の耳に入ってきては現実に引き戻そうとする。いつもそうだ。この場所でいつも僕の浮かれた気持ちが、リセットされてしまう。いっそ別の道から帰ってしまおうかと思ったこともあったが、遠回りになってしまうので結局は同じ道である商店街の中を通っている。
この時間は多くの主婦や仕事帰りの人たちで、どの店もごった返している。ガラス越しに店内を覗くと、みな自分の買ったものをせっせと袋に詰めるとすぐに店を出て、また次の目的へと急いでいる。まるで自分だけが、時間の進みが遅い世界に取り残されているような気分だ。
以前は僕もこの時間になると、目の前にいる人たちに混ざって、夕食の食材選びに奮闘していた。しかし弟の陽介が『将来、料理人になりたい』と急に宣言したので、1年前から代わって夕食づくりをお願いしている。陽介にとって今年度は最後の高校生活となる。来年どうするのかは聞いていないが、料理人ならいきなりどこか名のある店に頼み込んで修行させてもらう、という手もあるのかもしれない。料理の世界のことは僕や父も知らないので、どういうプロセスを経てプロになるのか、それは陽介に任せている。もしかすると海外で修行したいと言い出すこともあるかもしれない。ただどんな判断を陽介がしたとしても、兄として背中を押してあげるつもりだ。
商店街を抜けると静かな住宅街に入る。僕はいつものように、少し行った先にある公園に入ると木造のベンチに座った。19時を回っても小学生ぐらいの子供たちがグランドでサッカーをしていたり、遊具でも数人の子供たちが遊んでいる。季節が冬から春に変わり、そしてこの時間になってもまだ明るい空が夏の気配を感じさせる。季節が変わりゆくにつれ世の中は活発になっていくというのに、僕はいったい何をしているのかと公園のベンチに座り考えていた。
みんなそれぞれ次なる新境地に向かって頑張っている。将来の夢や結婚、それに仕事だったり……。せっかく希望の大学に合格し入学できたというのに、将来のことはおろか、毎日の講義さえも身が入らない。陽介が料理人になりたいと言ったのも、元はと言えば僕に原因がある。この1、2年で急激に僕の料理の腕が落ちたからだ。不味くて食えないわけではないが、美味しいわけでもない。そんな僕の料理に嫌気がさしたのだ。それは僕自身、自覚はあった。何をするにしても、集中できず、上の空で、味付けがうまくできなかった。最近、そんな自分を嫌に思う。何のために大学に入ったのか、入学とともにその目的をどこかに置いてきてしまったのかもしれない。いわゆる燃え尽き症候群と言われるものだ。だから今は彩香と一緒にいるととても気持ちが楽になる。そんな自分を
僕はベンチの背もたれに上半身の体重を少し預け、空を見上げた。さっきまで明るかったのが、この数分間で少し暗さを帯びていた。薄暗く、雲何1つもない侘しい空に、欠けた月がただ1つだけ浮かぶ。月の周囲に何もない。そんな月が、まるで自分のように僕は感じた。
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