第6-2

「ところでどうして剣十さんが、彩香の引っ越しを手伝ってるんですか?」


 疲れた様子でソファに項垂うなだれている剣十に向かって、謙輔は聞いた。副社長ともあろう者が、平社員のような仕事をしていることに謙輔は疑問を持ったのだ。

 謙輔は、冷蔵庫から冷えた麦茶が入ったボトルを取り出すとコップに注ぎ、剣十の前にあるテーブルに置いた。


「今年でちょうど40歳の身だ。普段、デスクワークばかりであまり体を動かしていないんだ。だから引っ越しの手伝いでもして、少しは健康的になろうかと思ったんだが虫がよすぎたよ。キツイ作業だ。いくら可愛い妹のためとはいえ、荷物が多過ぎだ。もう少し何とかならんかったもんか」


 冷えたコップの外側につく結露した水滴のように、剣十の額には目に見えて汗が噴き出している。


「ありがとう、頂くよ」


 礼を言うと、剣十は一気にコップに入ったものを飲み干した。冷たい液体が喉を通って胃に貯まるのを剣十は感じた。剣十が大きく息を吐く。


「夏に引っ越すのは止めろ、と何度も言ったんだ。だがアイツは一度こうと決めたら、きかないところがあるからな」


 エアコンを利かしている中、それでもまだ暑い剣十は、ソファに放置されていた団扇うちわを持って自身をあおいだ。


「4月は引っ越し代が高いらしいですよ。だからこの時期に決めたって言ってましたけど」

「なら5月でいいだろ? なんで暑い時期の7月に引っ越すんだよ。とどのつまり頑固なんだよ。その月にやると決めたらやる。ただそれだけなんだよ、アイツは。それに手伝うのは俺1人だ。少しは俺の要望だって、聞いてもらってもいいはずだろ?」


 精魂尽き果てた剣十は、愚痴を吐くことすら面倒になって大きく溜息をついた。

 謙輔はもう一度台所に戻って冷蔵庫を開けると、今度は麦茶が入ったボトルをそのまま持ってきて剣十が飲み干したコップに注ぎ込んだ。


「剣十さんの仕事柄、そういう体を動かすのは慣れていると思っていました」


 月引村にいた頃から剣十が『何でも屋』の仕事をやっていることを、謙輔は彩香を通して知っていた。具体的に何をやっているのかは知らないが、兎に角、困ったことがあれば何でもやってくれるという。


「副社長ともなれば、基本的に肉体作業は社員がやる。大概、俺自身がやるときは、それは若い時に贔屓ひいきにしてもらったお客さんか、もしくは知り合いだ」


 扇いでいた団扇を目の前のテーブルに置くと、コップに入った麦茶を半分ぐらい一気に口に入れ、流し込んだ。


「しかし謙輔君がいてくれて助かったよ。急に引っ越しの手伝いに付き合わせてしまって、申し訳なかった。まさかあんな大きなベットまで運ぶとは思わなかった。普通、引っ越した先で買うもんじゃないか?」


 トラックで実家に帰り、彩香から運ぶ荷物の種類を言い渡された時、剣十はその量もさることながらサイズに驚いた。てっきり『一人で出来るから』と彩香から知らされていた剣十は、それを信じ切って行ったのだったが、いざ部屋に到着するとベッドも運ぶと告げられたのだ。当然、一人でそんな物を運ぶのは困難なことで、従業員に至急連絡してみたものの、みな別件の仕事で手一杯であった。そんな中、謙輔は荷詰めの手伝いのため、ちょうど彩香の部屋にいた。従業員からの追加人員を見込めないことから、急遽、その日に居合わせた謙輔に白羽の矢が立ったのであった。

 引っ越しの不満から、剣十は妹への批判に話を広げた。如何に妹が頑固で世間知らずか、延々と謙輔は聞かされた。ただ謙輔も彩香のことを若い時から知っているため、どれも納得できる内容ばかり。謙輔はひたすら剣十の愚痴にうんうんと頷いた。


「しかしまぁ、あんな妹だが俺の大事な家族だ。何かあったら、ぜひ手を貸してやってほしい。よろしく頼む」


 剣十は妹を思いやる言葉を吐露すると、ソファに座りながら頭を謙輔に向って軽く下げた。

 愚痴を言いながらも最後は妹のこと心配するその姿に、謙輔は感服した。普通、相手に多くの不満を持つなら、もはやそこに愛情や友情といったものは存在しない。それなのに相手を気遣うことができるというのは、彩香に対して揺るぎない家族愛があるからだ。剣十を兄として持つ彩香のことが、謙輔は少し羨ましく思った。

 躊躇うこともなく謙輔は、剣十からの頼みを承諾した。


「さてと……彩香の奴もそろそろ部屋の中を少しは整理できた頃か。もう少し頑張ってみるか。謙輔君はまだいけるかい?」

「はい」

「さすがだね、若くて潔いよ。彩香には勿体ない男だな。あははっ」


 剣十はソファから笑いながら立ち上がり、大きく背伸びをした。そのとき剣十は部屋に漂う甘い香りに気が付いた。


「ん、何だ……この香り。いい匂いだね」


 剣十は目を閉じ、クンクンと鼻を鳴らして部屋の中の匂いを嗅いだ。


「あぁ、僕はもう匂いに鼻が慣れちゃっているので分からないんですけど、多分、月下美人の花だと思います」

「花か、いい習慣だな」

「いえ、いつ買ったのか分からないんですけど、枯れないのでそのままにしてるんです」

「枯れない? それは不思議なことだな。うちも花を扱うサービスをしているから、多少なりとも花のことは知っている。花の寿命はもって2週間ほどだ」

「1年以上は経っていると思いますよ」

「1年?」


 剣十は驚きのあまり謙輔の顔を見た。『造花ではないか?』といぶかしがられたため、謙輔は2階にある自分の部屋から花を持ってきて剣十に見せてやった。


「確かに……本物のようだ。しかし1年なんて……」


 月下美人の花を目の前にして、剣十は言葉を失った。『謙輔君の勘違いではないか?』と一瞬、剣十の頭にそんな言葉が過る。


「良かったら差し上げますよ。元気な花を捨てるのも勿体なくて置いてただけですから。花は好きな方ですけど、さすがに同じ花がずっと部屋にあるのも飽きていましたから」


 謙輔はふふっと笑って、月下美人が入った花瓶を目の前のテーブル置いた。仕事で扱っていただけで別に花が好きではなかった剣十は、謙輔の言葉に少し迷った。貰ったところで花を愛でる性格でもないし、水の入れ替えをしっかりできるかも不安だったからだ。ただこんなにも香りが良く、異常に寿命が長い花をこのまま断ってしまうのも勿体ないと剣十は考えた。


『自分ではなく、誰かに贈れば……』


 剣十の頭に1人だけ花を贈りたい人物が浮かんだ。彼女の性格ならこの花を大事にしてくれるかもしれない。そんな理由から、剣十は謙輔から月下美人の花を譲り受けたのであったーー。




「あれをゆかりに渡したんだよ。とても喜んでくれてね。あの花の香りを嗅ぐと、昔の嫌な記憶がどんどん薄まっていく気がするんだってさ。それで結婚にも前向きになれたって。ここだけの話、アプローチしてきたのは向こうからなんだ。だから謙輔君のあの花のおかげなんだよ」


 剣十は改めて謙輔に頭を下げて、礼を言った。


「謙輔君のおかげでゆかりと結婚することになったんだ。謙輔君に礼を言うついでに、彼女である彩香にも報告しようと思ってね。そういう訳で今日という日をセッティングしたんだ」

「私はおまけかよ」


 彩香の突っ込みが、下手な芸人のそれのように謙輔は感じた。

 剣十はふと思い出し、懐から白い封筒を取り出してテーブルの上に置いた。


「そういえばこれ、引っ越しのバイト代。元はといえば、俺の作業内容に対する見積もりが甘かったせいだ。身内の引っ越しだと思って、いい加減に考えていたんだ。俺の気が済まないから、悪いが受け取ってくれ」


 剣十は封筒の端に人差指と中指をつけ、スッとを滑らせるように謙輔の前に寄せた。

 すかさず彩香が手を伸ばして、その封筒をかっさらおうとする。しかし剣十はその行動を察知して、すぐに封筒をテーブル上から取り上げた。

 彩香がじろりと剣十を睨む。


「彼女よ?」

「これは謙輔君に支払われるべきものだ。その後どうするかは謙輔君が決めたらいい」


 剣十と彩香のにらみ合いが少しの間続くと、『そうね』と言って彩香はその場を引いた。好意で手伝ったことに対してバイト代が支払われることに、謙輔は釈然としなかった。しかし剣十の気が晴れるならと思い、謙輔は渋々その封筒を受け取った。血は繋がっていないが、頑固なところは兄弟揃って似ている。何度受け取りを断っても、剣十が引き下がらないことを謙輔は知っていた。


「あと謙輔君、ちょっとこっちに」


 剣十は椅子から立ち上がると、テーブルから少し離れた場所へ謙輔を誘った。


「どうしたの?」

「男同士の大事な話さ」


 彩香が怪訝な表情で、席を立つ謙輔と少し離れた場所で待つ剣十の2人を交互に見る。しかし謙輔自身も何の話なのか、見当がつかなかった。少し不安になりながら、謙輔は剣十に近寄った。


「悪いね、こんなコソコソさせてしまって。古い話なんだが、去年仕事で顧客情報を整理していてね。一部の名前の情報が抜けているデータがあったんで、詳しく調べてみると長門さん宅だったんだ。それでそのデータの備考欄を見ると『秘密事項。山井謙輔と協力』と記載があってね。支払いは一括で前払いしてもらっているから特に問題はないんだが、ただ何のことだったか覚えてなくて。ずっと君に聞こうと思ってたんだが、ズルズルと今日まで遅くなってしまった。毎年7月7日に決まって長門さん宅へ花をお届けしていたんだが、何が秘密事項だったか覚えているかい?」


 謙輔は何のことか全然記憶になかった。


『僕が協力して裕二さんに花を送っていた? 何のために? しかも裕二さんは仕事の関係上、ほとんどこっちの住まいにはいない……』


 謙輔は裕二が帰ってきたときのことを思い出した。しかしどの場面を思い出しても、裕二と花が結び付く映像が頭に浮かぶことはなかった。

 謙輔が難しい顔をして考えている姿を見て、真相を知るのはやはり困難であると剣十は理解した。


「いや、覚えていないならいいんだ。俺も10年以上届けているはずなのに、全く覚えていないんだから。結婚に浮かれて、大事なことまで忘れてしまうなんて情けない話だ。昨年で長門さん宅への配達も終わっているから丁度良かったよ」


 謙輔と剣十は話し終えると、眉間にしわを寄せずっと2人の様子を伺っていた彩香のところへと戻った。

 剣十は再び椅子に座ることもなく、


「じゃあ、式のことはまた連絡するから」


 と言うと、その場を軽やかな足取りで去っていったーー。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る