第5-4
陽介の後を追い、僕は目の前の突き当たりの角を曲がった。陽介が言ったとおり、3mほどの所にまた曲がり角がある。僕はライトで照らしながら慎重に歩き、さらにそれを曲がった。
角を曲がるたびに、薄暗い空間だったものがさらに深い闇を帯びて僕の視界を邪魔する。ライトを道の先に向けてグルッと時計回りで上から下まで照らして見ると、ここから空間が少し狭くなっているようであった。大人2人分ぐらいの道幅だろうか。地上で待機する佐山であれば、間違いなくどこかで腹がつっかえて出れなくなるだろう。
道は緩やかにカーブしていて、ずっと先まで見通すことはできない。進むにつれ露わになるそのカーブの先を、僕は凝視しながら歩いた。
道は丁寧に掘られていて、小さなトンネルのような見た目だ。たまに大きな石が道のど真ん中に転がっていて、気を付けないと足を引っかける。しかしそれほど凸凹した道でもないので、梯子付近よりも比較的歩きやすい。明らかに人為的に掘られたと分かるほど奇麗なその道は、僕に恐怖心を抱かせることもなく快調に歩ませた。
少し歩くだけですぐに、道の先に出口と思われる光の点を見つけた。近づくにつれ、それは次第に大きくなり、そして形も点から長方形へと変わっていく。出口だと分かると僕は急ぎ足で、一気に光の奥へと抜けた。
「兄ちゃん!」
眩い光に目を細く開けていると、すぐ近くから陽介の声がした。その方向を見るとすぐ横に陽介が立っていた。
「ここ、どこだろうね」
明るさにまだ慣れない目で僕は周囲を見渡す。海と森、奥のほうに建物がいくつか見える。
「くさっ! ここ、さっきより臭うね。やっぱりこの花だね」
地面に同じ花がいっぱい咲いている。陽介は顔を近づけ匂いを嗅ぐと、その後何度も鼻をごしごしと擦った。
「鼻がムズムズする……なんて花なんだろうね」
「月下美人っていうの」
思いもよらない方向から声が飛んできて、僕たち2人は同時に驚きその方向を見た。そこには小学生1年ほどの赤い服を着た小さな女の子が立っていた。
「ようこそ、月下島へ! 来たのはお兄ちゃんたちだけ?」
女の子は僕たちの後ろをチラッと見た。
「この島に来るのは初めてだよね? 案内してあげるよ」
女の子はニコニコと親し気な態度で話しかけてきた。
「いや僕たち、この向こうの外に人を待たせてるから」
「大丈夫! この島はまだ何もないから、10分程度で見て回れるよ」
「え? 10分?」
ここから見渡す限り、この一帯は確かに何もないように見える。この子が言うように10分あれば、この辺りを見て回ることは可能だろう。しかし佐山がいくら待つと言ってくれたとはいえ、10分は長いように感じた。
しかし夜の繁華街の客引きのように、さらに女の子はしつこく僕たちを勧誘した。
「ほら、あそこに建物あるでしょ? あそこにいる人たちは祭りが大好きでいつも飽きもせずにずっと踊ってるの。それがあの村の唯一の名物なの。見ていったら?」
「へぇ、面白そう。ちょっと見ていこうよ、兄ちゃん」
僕が返事を渋っていると、陽介は『先に行ってるよ』と言って村の方へ全速力で走っていった。
『あ、バカ! 止まれ!』
そんな言葉を喉から出す前に、陽介が僕の声が届きそうもないところまで走っていってしまった。
「お兄ちゃんは行かないの?」
女の子が僕に聞く。
「あまり祭りには興味ないかな。それより近くにこんな村があったなんて、ずっと知らなかったよ。昔からある村なの?」
「あ! もしかしてこのトンネルの向こうの村に住んでた人? うーん、9年ぐらい前かな。まだまだ色々足りなくて、祭り以外楽しいことがないの」
幼いくせにしっかりとした口調だ。女の子の精神年齢が高いのだろうか。しかしなるほど、割と新しい村のため知らなかったのだ。9年前といえば、月引村のダム計画が発表された年だ。そして次の年には、もう村は閉鎖されている。その頃は常に村中がバタバタしていて、他の村のことを気にする余裕なんてあるはずもない。仮に隣に新しい村が出来たと耳に入ったとしても、月引村のどさくさに紛れてそんな情報などかき消されてしまっていただろう。まぁ当時8歳だった僕からしたら、聞いていたとしても現在まで覚えている自信はないが……。
ふと気が付くと、女の子は僕の顔をじろじろと見ていた。
「あれぇ? やっぱりどこかで見たことあるなぁと思ったら、山井じいちゃんだ。もしかして山井じいちゃんの子供? うーん、でもちょっと歳が離れてそうだから……分かった! 孫の謙輔だ!」
急に自分の名前が呼ばれドキッとした。学校で授業中、全く別のことを考えているときに限って、急に先生から問題の回答者として当てられたような感覚だ。
「え……どうして僕の名前を」
「お兄ちゃんの名前だけじゃないよ。父は秀太、母は美香、弟は陽介……あ、これはさっき言ってたね。えへっ」
僕の家族構成まで知っているこの子は、家族の誰かの知り合いか? そういえばさっきじいちゃんに似ていると言っていた。じいちゃんの知り合いの子供だろうか?
じいちゃんは、僕が小学生低学年のときに亡くなった。かれこれ11年ほど経っている。その頃であれば僕たちはまだ月引村に住んでいる。村にいたときは家族の誰がどんな人と仲が良いとか、どんな人がよく訪ねてくるとか、家族の日常会話の中に人の名前がよく出てくるので自然と関係を把握していたものだ。だからじいちゃんの知り合いならもちろん僕も知っている人であり、そしてこの子はその人の子供なのだろう。この子の歳から考えて、ご両親もしくは祖父母から何かの話題で山井家が挙がったときに、じいちゃんの写真を見せてもらったに違いない。
「あれ? ということはぁ……。あ、やっぱりそうだね!」
僕が推理している横で、女の子が独り言のよう呟いては喜んでいる。『僕も小さい頃はこんな感じだったのだろうか』と、コロコロと変わる女の子の様子を見て僕は思った。
「そろそろ時間かなぁ? 陽介をすぐに連れ戻してきてね」
その女の子はその場で待っているというので、僕はその子を置いて陽介を探しに村に行った。迷路のような建物の間を縫うように進むと、大きな広場に出た。そこでは多くの人がやぐらを囲んで踊っていて、その輪の外側のすぐ近くで座り込んでいる陽介を見つけた。
「陽介、そろそろ行くよ」
僕は陽介に近づきながら、少し離れた位置から声をかけた。しかし陽介は聞こえていないのか、やぐらの周りで踊っている人たちをじっと見ている。
「陽介」
陽介の真横に行って、もう一度名前を呼んだ。それでも踊る人たちに見入った陽介は、こちらの呼びかけに気付く様子もない。僕は片手で陽介の肩を掴むと大きく揺らし、また名前を呼んだ。今度は気づいたようで、ゆっくりと陽介は僕のほうを見た。しかしその顔はなぜか強張っていた。
「え……どうした?」
尋常じゃないその表情に僕はたじろぎ、そして少し間を開け、陽介に問いかけた。
「兄ちゃん。この村……いや村なのかどうか分かんないけど、ここは普通の世界じゃない」
僕は陽介が何を言っているのか分からなかった。
「ほら、あそこ見て。あそこで踊っている身体が大きい男」
陽介が指差した方向を見た。周囲と比べると比較的大きな男が輪に混ざって踊っている。その男を見て、陽介が言っていることを瞬時に理解した。なんとそこで踊っていたのは、僕たちの亡くなったおじいちゃんだったのだ。しかし亡くなったときの老成した姿ではなく、若返っていて20代ぐらいの若者の姿となっていた。父からおじいちゃんの若い頃の写真を見せてもらったことがあったので、なんとか判別できた。
「どっ……どういうこと?」
そして見覚えのある顔は、じいちゃんだけではなかった。昔、月引村で亡くなった人たちも何人か見かける。若くなって容姿が変わってしまっているので癖のある顔立ちの人しか見分けがつかないが、もしかするとここにいる人たちはみな月引村で亡くなった人たちなのかもしれない。
「ここの人たちは何も見えていない。さっき話しかけてみたんだけど、みんな反応なくずっとああやって踊ってるんだ。まるで自分が透明人間でもなった気分だよ」
「陽介……取り合えずここを出よう」
僕は怖くなってその場を離れようとしたとき、急に頭が痛くなった。あまりの痛さに地面に膝をつく。奥歯を嚙み締め顔を歪めながら陽介の方を見ると、陽介もまた同じように頭を両手で抑えうずくまっていた。僕はその激痛から地面にペタンと座り込むと、尻を擦って陽介に近寄った。
「よ……すけ」
僕の呼びかけに応じることもなく、陽介は激しい頭痛に耐えている。そのとき、
「ちょっとぉ、何やってんのよ! もう時間オーバーしちゃってるじゃない!」
女の子がいつの間にかすぐ傍に立っていて、僕たちを見下ろしプンスカと怒った。そのとき上空の光景が偶然目に入る。さっきまで青空だったのが急に夜になっていて、信じられないほど大きな満月が空を覆っていたのだ。
「不可抗力ね。私はちゃんと言ったんだから。だから悪くないんだから」
自己暗示にでもかけるかのように、『そうよ、そうよ』と何度も言い女の子は両手を組んで頷いた。
「ここに咲いている月下美人はね、香りを嗅ぐと人は10分ぐらいで激しい頭痛に襲われるの。同時にその人は、空に浮かぶ大きな満月を見る。もしすぐにこの匂いが届かない場所に移動できれば、記憶を忘れる程度で済むけど、もし移動できなければ永遠に夢を見ながらこの世界で彷徨うことになるの。この世界にいながら、自力で夢から醒めることは不可能。つまり一生この島から出られないの。お兄ちゃんたちはその10分をもう過ぎちゃってる。この世界の月下美人の香りはね、死者をも魅了し束縛するの。残念だけどお兄ちゃんたちは死者と一緒になって、この世界の住人になるしかないよ」
地面に倒れている僕たちの傍らで、淡々と女の子は話をした。女の子の声が僕の耳に届いてはいたが、絶え間ない頭の痛さにその内容を自分の頭の中で整理することができず、そして何度も意識が奪われそうになった。
『このままではいけない』
激痛が溢れかえった頭の中に、そんな言葉がはっきりと輪郭を持って一瞬だけ見えた。
「でも困ったなぁ。最近、自ら進んでこの島に来る人もいて、ちょっと増え過ぎなんだよね。お兄ちゃんたち2人、あの踊っている輪の中に入れるかな?」
「に……ちゃ、おねっ……い」
陽介が苦しみもがきながら、こちらを見て僕に何かを伝えようとしている。痛みに耐えながら意識を陽介に集中させた。陽介は震える手で自分の腕から時計を外すと、僕に託して言った。
「に……げて、に……て、たす……て」
断片的に言われた言葉であったが、僕は陽介が何を言っているのか直感的に理解した。
痛みで朦朧としながらも、僕は体を起こし立ち上がった。この世界や女の子が一体何なのか、そして陽介がこの後どうなるのか、今は何も考えないようにした。とにかく自分がこの世界から出ること、この花の匂いが届かない場所まで移動すること、それが僕が今一番やらなければならないことなのだ。
僅かに開かれた目の隙間から周囲を確認すると、僕は来た道をゆっくりとした歩みで戻った。
「すごい! 頑張れるんだ? すごいなぁ、人間って。私も手伝ってあげたいけど、残念だけど手引きは出来ても、出ることに関しては手伝えないルールなの。でも応援するよ!」
女の子が何か話をしているのは分かったが、それを頭で理解するのは後にした。連続的に訪れる痛みの中で、僕はたまに耐えられる瞬間を狙っては周囲を見渡し歩いた。何となく後ろから女の子も一緒に付いてきている気配はあるものの、目視する余裕もなくただ前だけを見て進んだ。
どれくらいの時間を歩いたのだろうか。気が付くと絶壁に開けられた鉱山への入口の目前まで迫っていた。
「へぇ、謙輔は本当にすごいね。あの状態でここまで戻ってくるなんて。個人差があるのかな?」
僕の背後から『すごい、すごい』と連呼する声が聞こえてくる。
「ここまで来ればもう戻れるね。ねぇ、今度は実歩おねーちゃんを連れてきてよ。だから、これ!」
女の子は僕のズボンの後ろポケットに何かを差し込んだ。
「この月下美人の香りが、謙輔をここにまた連れてきてくれるから大切にね。私も実歩おねーちゃんが来てくれるように、色々応援するから。じゃ、またね!」
鉱山に入る直前、ちらっと後ろを振り向いてみると女の子は元気よく両手を振って僕を送り出していた。その後、僕はただひたすら歩いた。後ろから何度か女の子が元気な声で叫ぶのを聞いたような気がした。その後、どう歩いたのか全く覚えていない。
僕が明瞭な意識を持った時、似合わない腕時計を片手に僕は家方面の電車の中にいた。そして、今思い返すとそれからというもの陽介の存在は世間から抹消され、僕の記憶からも月引村に行ったという事実とともに無くなっていたのだったーー。
「よ……すけ、ようすけ、目を……覚ませ」
頭の激痛にふらつきながらも、僕はやぐらの周りで踊っている陽介を見つけ、体を両手で揺さぶって名前を呼んだ。
「陽介!」
名前を何度呼んでも、陽介の目は虚ろなままである。
『あまり時間がない……』
僕は陽介の意識が戻ることを諦め、手を引いて戻ることにした。前回、意識が飛ぶほどの痛みを経験した僕にとって、今の痛みはまだ耐えられるものであった。
激痛が増し動けなくなる前に僕は、鉱山の入口に辿り着いた。入口付近に実歩の姿がない。アンが手を引いて歩いて行った海岸の方を見ると、夜の砂浜で1人倒れている実歩を見つけた。
「実歩! 実歩っ!」
僕は思いっきり叫んだ。しかし実歩に反応はない。
『どうする? まだ余裕があるか?』
そんな事を考えていると、またあのときと同じように連続的な激しい痛みが襲ってきた。
「くっ……」
出来ればこんなところに2度と来たくはない。ましてや3度目など。痛みを振り切り、実歩の方へ歩こうと決意したとき、聞き慣れたあの声が頭上から僕の行動を遮った。
「ダメだよ」
声がした方向を見ると、夜に浮かぶ大きな満月を背景に、なんとアンが空中に浮いていたのだ。そのまスルスルと降りてきて、僕の前に立ちはだかった。
「陽介はいいけど、実歩はダメ。返すことはできない」
アンが人間でないことは薄々気付いていた。この世界のことを良く知っていて、しかも平然としていられるからだ。おそらく妖怪の類だろうと。
「1年前、謙輔が偶然来てくれて本当に良かった。月下美人の花もしっかり作用してくれて、実歩おねーちゃんをちゃんと連れてきてくれた」
「違う……ここに実歩が来たのは彼女の意思だ……。そこを退いてくれ」
「意思? まぁ自分の足で来たのは間違いないね。でもあの花があったから、おねーちゃんはここにいるんだよ? 思い出してみて。あれがあったから、実歩おねーちゃんと謙輔の絆が深まったんだ」
確かにここ1年で、僕たちの仲は深まった。それまではまだ『友達止まり』だったのが、恋人までとは言わないが彼女の僕に対する態度は変わった。しかし、それが花のお陰だなんて……。
「謙輔はいずれ陽介のためにここに来ると分かってた。だから2人の絆が固ければ、実歩おねーちゃんも謙輔と一緒に来ると思ったの」
僕が彼女をここに連れてきてしまったというのか。
「謙輔が来なければ、実歩おねーちゃんも来なかった。そうじゃない?」
僕がなんと言おうと、アンの思惑にハマってしまったことは間違いのないことなのかもしれない。『月引村に来ればお母さんへの後悔が解消されるかもしれない』と、期待させたのは確かに僕であった。
アンを避けて横を通り過ぎようしたとき、再びアンはすぐさま僕の前に立ち、遮った。
「アン……」
「恐い顔しないでよ。謙輔が来てくれなかったら、実歩おねーちゃんに会えなかったんだから。これでも感謝してるんだよ。実歩おねーちゃんにずっと会いたかったの。良い子なんだろうなってずっと想像してたけど、想像したとおりの子だった。ありがとう」
アンが僕の胸に手を当てると、ひょいと僕を軽く押してみせた。するとそんなちょっと押した程度とは思えないぐらい、僕の体は後ろへ突き飛ばされてしまった。
「痛っ……」
「お礼にトンネルの向こうまでエスコートするよ」
そう言ってアンは指をパチンと鳴らした。するとアンと僕たちの間の地面から、黒い霧と共に黒いミミズのようなものがうねうねと湧き出してきた。
丸い円を形作るようにして次々と湧き、ある程度の量になると各々が融合し1つのスライム状の塊へと変化した。もごもごと動く黒いスライム状の物体は、次の瞬間、水たまりに重いものを落とした時にできる王冠のような形となって、僕たちに襲い掛かってきて飲み込んだ。
目の前は真っ暗で、黒い物体が口の中まで入ってくる。
「み……実歩ーっ!」
海で溺れたときのようにその物体の中でもがき、思いっきり彼女の名前を叫んだ。
『ここまで来て……今度またいつ来れるのか分からないんだっ! 今……今、連れ戻さないと』
僕は必死になって抵抗した。しかしブヨブヨと動く黒いスライム状の塊の中では、どんなに動いても徒労でしかなかった、そしてーー。
僕はそのまま意識が、途切れたのだった。
ーーーーーー
ーーーー
ーー
気が付くと僕たち2人は、村の最寄り駅である月元駅の長椅子で横になっていた。これまで一体どこで何をしていたのか、何のためにここに来たのか全く思い出すことはできなかった。ただ、身体には酷い倦怠感だけがあった。
陽介と二言三言言葉を交わすと、それから僕たちは無言のまま電車に乗り込み、帰路についたのであった。
ー第1部 完ー
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