第5-2

 鉱山の中に入ると、そこは暗闇に満ちた世界であった。何も見えない僕は前を歩く2人の気配を頼りに、壁を伝って歩いた。アンにはこの世界がはっきりと分かるのか、迷いなく前に進む。実歩はアンと手をつなぎ、ときどき立ち止まっては足元を確認し歩いている。その拍子に僕の手探りする手が、彼女の身体に接触する。


「ちょっと変なところ触らないでよ」


 意図しない接触に、実歩から注意が入る。こんな場所でどさくさに紛れて触る度胸は、僕には無い。実歩も分かって言っているのだ。こんな状況でも責めてくるのだから、本当に実歩は悪趣味だ。僕は自分のことでいっぱいいっぱいだというのに……。

 ごつごつとした岩が僕の硬い長靴の先に当たり、たまに鈍い音を鉱山中に響かせる。その度にバランスを崩し、真っ暗闇の中で倒れてしまうのではないかと僕の肝を冷やした。

 緊張して初めこそ気付かなかったが、この鉱山の中に甘い香りが漂っている。チョコレートのようなお菓子の甘さではなく、花が発するような澄んだ甘い香りだ。奥に進むにつれ、その香りはどんどん強くなっていく。鼻がひん曲がるほどその匂いが強烈になった頃、暗闇の中に明るい点が小さく見えた。その明かりに近づくにつれ、前を歩く2人の姿も見えるようになる。


「ふぅ……」


 僕は大きく安堵した。掛かった時間は短かったのかもしれないが、僕にとってはとても長いものに感じた。出発前『僕1人でも行く』と威勢の良いことを言ってはみせたが、いざこうして歩いてみると2人がいて心底良かったと思う。僕1人では恐怖心から到底前に進むことはできなかっただろう。

 それにしてもまさかこの鉱山に、月引村以外の入口があったとは知らなかった。先に見える明かりの中に芝生や空が垣間見えたとき、僕たちはそこが外だと理解した。

 長い坑道を抜けると、僕たちの周囲を眩しい光が包み込んだ。その明るさはまだ慣れない僕の目を眩ませ、顔をしかめさせた。目の前に立ち止まった実歩からも唸る声が聞こえてくる。太陽のような光源が空に見えるわけでもないのに、なぜか周囲が眩しかった。

 次第に目が慣れていく。周囲を見渡すと、どうやら僕たちは丘陵な場所に出たようだ。目の前には青々とした芝生だけの平原が、この付近一帯に広がっていた。

 空気がとても澄んでいるのか、遠くの方まで見通すことができる。奥の方に目をやると、大きな森とその中に家屋がいくつか建ち並んでいて、その戸数の多さから1つの村を形成しているようであった。

 その大きな森は右側に弧を描くようにして、僕たちがいる絶壁まで届いている。太く、背の高い木々が、人の侵入を防ぐかのようにそびえている。左側には海岸があって、幅2、3mほどの小さな砂浜が、森の横を通って奥まで伸びていた。

 僕は全体をぐるっと見渡して、背後にある絶壁を見上げた。ここに自生している木々は異常なほど太く背が高い。そしてそれが小さく見えるほど、背後の通ってきた坑道の入口がある絶壁は高く、先が見えないほど上空へと続いていた。この迫力ある地形が、反対側にある月引村と地形的にどうリンクしているのか、全然イメージが沸かない。

 空には太陽や雲が一切見えず、薄い青一色で空が塗りつぶされている。まるでテレビのディスプレイのように空全体が明るい。

 地面には、至る所に花の『月下美人』。甘い香りの正体は、やはりこれだったのだ。自分の部屋にも月下美人を置いているので、匂いからこの花がきっと坑道の先にあるだろうと想像は出来ていた。

 僕はもう一度、周囲を見渡した。『トンネルを越えると雪国』なんて、別世界を表現するのによく使われるが、まさにここがそれだ。


「こんな近くに別の村があったなんて……ずっと月引村に住んでいたのに知らなかった」


 実歩が驚きながらそう漏らすと、アンが僕たちの前に飛び出てきた。


「月下島(げっかじま)へ、ようこそ!」


 片足を軸にくるっと一回転し、明るい調子で言うとアンは一礼した。


「げっかじま……もしかしてあなたここの子?」


 実歩がニコニコと笑っているアンに聞いた。


「うん! ここにずっと住んでるの。ねぇ、おねーちゃん。月下島を案内してあげるよ。一緒に行こ!」


 アンは実歩の手を握ると、またどこかへ引っ張っていこうとした。


「ちょっと……それよりあなたのお母さんは?」


 腕時計を見ると、まだ少し時間がある。


「10分ぐらいならいいんじゃない? 僕は適当にぶらぶらしてるよ」


 困った表情をしていた実歩に、僕は時間を伝えた。せっかく暗くて危険な坑道を通ってきたんだ。僕も少しは見て回りたかった。


「そうそう、謙輔おにーちゃんは向こうだね」


 アンが奥の方に見える村を指差した。


「それじゃあ、私たちはこっちっ!」


 アンは実歩を海岸の方へ、グンと引っ張った。実歩は一瞬踏ん張って『じゃあね』と僕に一言いうと、アンになすがままに引っ張られていった。

 僕はアンが指差した森に見える村を眺めた。森の手前の端に2件の家が見える。そこから森に深く入るにつれ、家の戸数が徐々に増えている。


「あの村に何が……」


 アンがここに来る前に言った『忘れ物』が、あの村にあるのだろうか? 初めて会ったアンが僕のことを知るはずもない。だから偶然『その言葉』を言った可能性もある。ただ『その言葉』が僕の心にハマって、共鳴したのは間違いのないことだ。『もしかするとアンは、人が潜在的に気にしている言葉を言い当てる超能力者なのかもしれない』なんてことを思いながら、僕は村まで歩いた。


 村までは、すぐであった。そして村に着いて分かったことがある。建物の造りが全体的に古い。どこもかしこもテレビでよく見る農家の焼杉の平屋で、どれも年季が入っていた。それとリズムの良い太鼓の音が、どこからともなく聞こえてくる。僕は雑に配置された家々の間を縫うように、音が鳴る方へと進んだ。

 それにしても変わった村だ。1つ1つの家が大きいくせに、外門から前方にある別の家の壁まで、2m程度の距離しかない。しかも地面は芝生だ。あまり見たことがない光景に僕は違和感を覚えながらも、レンガ積みの目のような道を進んだ。すると芝生の道が途切れると同時に、目の前に大きな広場に現れた。

 広場中央を見ると高さ2mほどの土台のやぐらが設置され、その周りでは浴衣を着た人やうちわを持った人たちが踊っていた。やぐらの上では若い2人の男が向かい合うように調子よく太鼓を叩き、その横では同じような年頃の男が笛でメロディを吹いている。


「祭りか」


 僕は付近に設置された長椅子に腰を掛けた。

 周りを見渡すと、広場の外周に沿うようにしていくつもの屋台が出店している。綿菓子、おめん、金魚すくい、射的、他にも昔ながらの定番の店がずらりと並んでいる。ただ不思議なことに、どのお店にも客が寄り付いていない。そして店主すらもいない。


『みんなどこに行ったんだ?』


 まさか店主も一緒に踊っているのだろうか? 確かに祭りは地域によって、その意味や形が異なる。もしかするとこの村ではそれが普通なのかもしれない。初めて見る光景であったが、これが見知らぬその土地の祭りなのだと僕は受け入れた。


「さてと……」


 祭りの見学はこれぐらいにして、僕は鉱山の前に辿り着いた時からずっと続いている焦りのようなもの、つまりはアンが言う『忘れ物』を探すため立ち上がった。

 とは言っても、何をどう探せばいいのだろうか? 頭を巡らそうとしたとき、前で催されている祭りに対し、何か漠然とした違和感を覚えた。


『あれ、なんだろ。この感じ……』


 少し考えると、それが何なのかすぐに分かった。


『祭りの音』だ。


 やぐら上で奏でている『音』が、たった数音なのだ。短いフレーズが、何度も繰り返されている。

 歌でもなく、祭りの踊りで使うものであるなら、こんな単調なものでもいいのかもしれない。『こんな曲もあるんだな』と僕は理解し、その音に耳を傾けながら、やぐらの周囲で踊る人々に目をやった。

 この『音』に合わせると、どんな人でも踊りが単調になる。それは踊りのプロであってもだ。観察していると踊り自体も同じリズムで、繰り返されているのが分かった。

 太鼓、笛、踊り。ここの祭りでは、1小節の『音』が基本なのだ。しかしなんだろう? まだ何かこの『音』に違和感がある。気になった僕はこの『音』に神経を集中した。

 笛の音色、太鼓を叩く音、そしてまた振り出しに戻って笛の音色……。


 ーーいや違う。


 楽器で奏でている音に混じって、この『音』を構成しているものが、もう1つあることに僕は気付いた。

 それは……『人の笑い声』だ。そして同時にある事実に気が付いた僕は、恐怖のあまり身の毛がよだった。

 人の笑い声はもちろんのこと、その場にある息遣い、表情といった人の動きすべてが、祭りの音色と一緒になって何度も繰り返されていたのであった。


「何なんだ、ここは……」


 僕は怖くなって、その場を走り去ろうとしたとき頭痛が走った。


「いたっ! うぅ……」


 これまで感じたことのない痛みが僕を襲う。あまりの痛さに僕はその場でうずくまった。

 顔をしかめながら痛みに耐える。すると、どうだろうか。頭に一筋の痛みが走るたびに、ある記憶が頭の奥底から沸々と湧いてきたのだ。今までずっと蓋をされ、忘れ去られていた『記憶』。

 そう、この世界のーー。


「思い……出した」

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