第4-4

 履き慣れない硬い長靴で、山の階段を慎重に下りる。こんな過酷な階段を学校に行くため、よく毎日上り下りしていたものだ、と僕は思った。今思えば、小学生だった頃の自分の体力は化物だろう。

 見下ろした村の光景が、不意に目に入る。コンクリートで固められた灰色の地面が一面に広がっているだけで何ともつまらない。途中、何度か長靴が脱げそうになるが、僕は勢いに任せて一気に地上まで駆け下りた。

 周囲の光景を見ることもなく、僕は実歩の家がある方へずんずんと進んだ。学校の近くまで来ると、足のつま先が歩くたびに長靴の中で強く当たってしまって、ズキズキと痛む。自分の歩き方が悪かったのだろう。しかし早く実歩のところに行きたかった僕は、気にせず歩いた。

 そのとき、どこからともなく声が聞こえた。


「おーい」


 僕は足を止め周囲を見渡す。多くのものが取り壊されているため、見通すのは簡単だ。周囲に人はいない。

 キョロキョロしているともう一度、僕に呼びかける声が聞こえてきた。そこで、ようやくその声の主が実歩であることに気づく。


「実歩ーっ! どーこー!」


 負けじと僕も大きな声で返す。近くにある建物は、目の前にある学校だけだ。おそらくそこに実歩がいるのだろう。

 僕は学校に近づきながら、1階部分の窓を1つ1つ見ていった。

 するとまた実歩の声が聞こえてくる。


「こっちよ、こっち! う、え!」


『う、え……上?』


 顔を上げて学校の屋上を見ると、こちらに向かって手を振る実歩の姿があった。

 『どうしてそんなところに』と実歩に聞きたかったのだが、慣れない大声を出して喉が痛かったので言うのを止めた。

 来る前に道下から建物への接近は注意するよう説明があったのに、まさか中に入っている者がいようとは……しかも<家族>で。実歩に対して不満を持ちつつ、僕も学校の中へ入った。僕も同罪だ。

 記憶とは不思議なもので学校に入る直前まで校内のことを思い出せなくとも、中の光景を見た瞬間に記憶の蓋が開き蘇る。僕は記憶を頼りに、屋上につながる階段を探した。

 階段は案外、簡単に見つかった。記憶どおりの場所にあったので、特に歩き回る必要はなかった。しかしそこからが問題だ。歩きづらい硬い長靴を履いて、何段もある階段を上らなければならない。ついさっき自分の家に行くためにかなりの段数を上った僕にとって、これはかなりきつい仕打ちだ。屋上到達直後の挨拶がてらに、僕は彼女に文句の1つでも言ってやろうと決めた。

 しかし上ってみて分かった。学校の中の階段は、比較的楽だ。自分の家の前の階段と違って、一段一段の高さが揃っていて、しかも小学生でも上がれる丁度良い高さとなっている。ただそうは言っても2回目の階段上りは、やはりきつい。屋上に辿り着く頃には、僕の息は上がっていた。


「はぁはぁ……」


 屋上の入口扉を力なく開けると、何もない屋上の中央で僕に背を向け、空を見上げる実歩の姿があった。

 その光景に神秘的な何かを感じた僕は、彼女が気付く前に息を殺しながらカメラを構えると、1枚だけ写真を撮った。


『カシャ』


 その音に気づいた彼女が、こちらを振り返る。


「盗撮ね、罰金100万円」


 普段、運動をしない僕にとって、ここまでの道のりは少々荷が重かった。荒くなった息を鎮めるべく僕は大きく深呼吸をした。


「ふふっ」


 辛そうにしている僕を見て、実歩がくすりと笑う。

 再び僕に背を向けると彼女はそのまま屋上の端まで進み、胸の辺りまである高さの手すりを掴むと『ねぇ、こっちに来て』と言って僕を誘った。

 

『文句を言ってやりたい。しかし息苦しい……』


 八方塞がりとなった僕は、大人しく彼女の言うこと聞き、彼女の横に並んだ。

 ちらっと横から彼女の顔を見ると、どこか遠くの方を薄く目を開けて見据えている。屋上から外を見やる彼女に習って、僕も手すりを持って遠くを眺めた。


「村の建物、全部壊されてたね。私の家も……やっぱりバラバラだった」


 彼女の横顔を見ると健気に振る舞ってはいるが、どこか作られたようなその表情に悲しさのようなものが垣間見えた。

 時々、屋上に少し強めの風が吹き、彼女の髪をなびかせる。髪が目に入るのか、それとも悲しみを堪えているのか、薄く開けられたその目に僕は惹かれた。


「ここに来れば、お母さんへの後悔が吹っ切れると期待していたんだけど……」


 どう答えていいのか分からず、僕は相槌だけ打った。

 彼女のこの旅の目的は、亡き母への後悔の念を断ち切ることである。彼女の母が亡くなる1か月程前、彼女は母と大喧嘩をしてしまった。それまで優しかった母の態度が急に変わり、すべてのことに対して厳しく躾(しつけ)をするようになったからだそうだ。最初のうちは自分が悪かったのだろうと思っていたが、日を追うごとにその指導は厳しくなっていった。しまいには子供の彼女の目から見ても、それは躾ではなく八つ当たりだろうという言動が多くなっていった。


 ーーそして、彼女の塵に積もった不満が一気に爆発した。


 彼女は母と一切口を利かなくなった。床に伏した母から何かお願いされても、彼女はそれを無視した。母の眠る部屋にすら近づかなくなった。それが2週間ほど続いたとき、彼女の母は亡くなった。彼女はそれを心底悔いた。


 なぜ母と意固地になって仲直りしなかったのか。


 なぜ母と喧嘩をしてしまったのか。


 なぜ母の言うことを従順に聞かなかったのか。


 自分の過ちを何度も反芻(はんすう)し、答えが見つからないまま彼女は今日まで生きてきた。それを僕は何度も聞き、そして彼女を慰めた。

 本当に大変だった。精神的に病んでしまった人を支えるというのが如何に大変か、世の精神科医の辛さが骨身に染みて理解できた。

 以前よりだいぶ精神的に安定してきたとはいえ、たまに母の夢でうなされたり、後悔の気持ちが沸き起こったりと、依然として尾は引いている。彼女はそれを今回の旅で清算したかったのだ。


「私は、私は……ここに来れば何かあると」


 手すりを持ったまま、彼女の目の端からブワッと涙が溢れた。頬をつたって勢いよく顎の先から涙が零れ落ちる。同時に嗚咽する彼女の声だけが、静まり返った屋上で小さく鳴り響いた。

 来れば何かあるだろうと、藁にもすがる思いでここに来たのだ。それが何も無かったーー。

 僕はそっと彼女に近づき、抱きしめた。


「ダメ……昨日、彩香に言われたんだから」


 彼女は泣きながらも、振り絞って言葉を出す。僕の腕の中から彼女は出ようとしたが、僕は強く彼女の身体を抱きしめ逃がさなかった。


『そんなことは、どうでもいい』


 こんな状態の彼女を目の前にして、どうして放っておけようか。ずっと、ずっとこれまで一緒にいたんだ。そしてこれからもずっと一緒に……。


「ちゃんと向き合ってこなかった。私は……お母さんだけじゃなくてあなたも。大切な……あなたも。とても……大事なのに」


 我慢の尾が切れ、彼女は大きく声を上げて泣いた。彼女から発せられる熱が、僕の腕を通して伝わってくる。


『熱い……苦しい』


 心が火傷しそうなほど、彼女の辛い想いが僕の中に流れ込んできた。

 小刻みに震える彼女の背中が、時々大きな波となって僕に失意の大きさを教えてくれる。僕はそんな彼女をただただ抱きしめることしかできなかった。

 ここまで彼女が酷く泣いたのは、いつ以来だろうか……。僕は彼女が落ち着きを取り戻すまで、真っ青な空を見上げて涙をこらえた。周囲に響く彼女の声に耳を傾けながらーー。




 彼女の様子が落ち着いた頃、軽く片手で抱きしめながら、僕はポケットからハンカチを取り出した。僕の胸でうつむいて泣いていた彼女の顔の前にハンカチを差し出すと、彼女は『ありがとう』と言って、ハンカチを受け取った。

 僕は落ち着きを取り戻した彼女の肩から左手を放し、彼女に背を向けた。

 大切な人の悲しむ姿というのは、本当に心に突き刺さるものがある。何度見ても慣れるようなものではない。彼女が辛い思いをするたびに、僕の心も同時にすり減らしているのだ。

 彼女の身なりが整うまで僕がずっと後ろを向いていると、彼女は僕の腰に腕を回し、元気のない声で話しかけてきた。彼女の柔らかい頬の感触が、僕の背中に伝わる。


「また……私は1人になるんだね」


 まるでその言葉は、実歩自身に向けられているように聞こえた。


「ならない。そんなことはさせない」


 僕は強い口調で否定した。振り返って彼女を抱きしめようとしたが、腰に回した彼女の腕の力が強く、できなかった。仕方がないのでその体勢のまま、僕は言葉を続けた。


「僕はお母さんのように、実歩を置いてどこかに行ったりしない」


 そう言うと、実歩は『うん、ありがとう』とだけ答えた。その声はとても優しく、そして温かみのあるものであったが、なぜかすっきりしない感情が僕の中に残った。

 すると突然、実歩が僕から離れたかと思うと、彼女はポンと僕の背中を軽く叩いた。


「ねぇ、謙輔の家はどうだった?」


 急に雰囲気が変わり、僕は戸惑う。


「えっと、ボロボロだった」


 実歩の家がなかった手前、まだあったとは言えず適当な言葉で僕は返した。


「そっか、何にも無くなちゃったんだね、この村」


 一瞬、考える間があって、さらに実歩が言う。


「ねぇ、今から鉱山に行かない?」


 唐突過ぎるその提案に僕が驚くと、


「あ、ううん、やっぱり何でもない。私、どうかしちゃってるね」


 と実歩は、自分が言い出した提案をすぐに引っ込めた。


「どうして鉱山なんかに?」


 気になった僕は実歩に聞き返した。しばらく実歩は黙った後、言いずらそうに口を開いた。


「安直な考えだったんだけど……あそこに見える鉱山なら形として残ってそうだし、何かあるかなと思って。でもお母さんは確かに鉱山の病気で死んだけど、そもそもあそこには近づかなかった。だからあそこは、お母さんとは関係のない所なんだってすぐに思い直したわ」


 屋上から西の方角を見ると、その突き当った先に鉱山の入口が小さく見える。


「そういえば、昨日、仲居の娘さんが鉱山に行けって言ってたね」


 鉱山という言葉を聞いて、僕は昨日のことを思い出した。


「時間もまだ少しあるし、ここからなら近いから寄って行こうよ。何があるのか僕も興味あるし」


 僕がそう言うと、一旦断った手前か実歩は引き気味に『うん、そうだね』と答えた。

 そうと決まれば時間も限られているので、僕たちはすぐに行動した。屋上から出ると、来た通路を戻って学校を出た。

 鉱山までは、ほんの少しだけ距離がある。小学校を出てしばらく歩き、村一番最も西にある実歩の家の横を通り過ぎると、それが見えてきた。村人たちが勝手に入ってこられないよう、昔は大きな柵が鉱山前に横一列となって村と隔てていた。しかし今はそれが撤去され、遠くからでも大きな鉱山の入口を確認できる。村の地面より少し高い位置に鉱山の入口があるため、また少し息を切らせて上ること数分ーー。

 僕たちは鉱山の入口に、辿り着いたのであった。

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