第4-3

『ジャプン、ジャプン』


 足首ぐらいまである水の中を一歩進むごとに大きな波紋が生まれ、遠くの方までどこまでも広がっていく。まるで大きなプールに水を張って、その中をずっと歩いているかのようだ。それもそうか、僕たちは今、ダムの底である『ため池』の上を歩いているのだから。

 周囲に障害物が何もないので、ため池の内側の壁面まで目が届く。遠巻きに両側の壁面を同時に眺めると、ため池が逆台形の形をしているのがよく分かる。その斜面の至る所には藻が生え、まるで誰かが入った後の浴槽に付く垢の線のように、ため池を内外に一線を画している。


「全然、道が分からない。何よこの風景」


 僕の背後から実歩の愚痴と大きな溜息が聞こえる。


「僕は案外好きだけどね。この非日常的な感じが」

「どこが? 大きな水たまりじゃない」


 実歩はつまらないといった感じで言った。周囲は一面に薄く水が張り、点々と瓦礫の山があるだけ。確かに人によっては、この光景は退屈だ。今は趣ある光景と僕の目には映ってはいるが、ずっと同じような画が続くと人間飽きるもので、数十分も経てば僕も実歩と一緒になって愚痴を吐いているのだろうーー。


 ー数分後ー

 数十分と言ったが、あれは嘘だ。たった数回、残骸の横を通り過ぎただけで、もはやここに初めて降り立ったときのような新鮮さはもう無くなった。目的地に向かって歩くだけ。とても退屈だ。

 時間を持て余した僕は、実歩も暇だろうと思い、昨夜の彩香との話を振ってみた。しかし実歩は『ごめん、今はこれに集中したいから』と言って拒否した。

 昨日のことなど頭にないと思っていたのは、僕の完全な勘違いだった。あんなことがあった後も彼女の態度が日頃とあまり変わらなかったのは、『お母さんへの想いを清算』するという当初の内覧の目的を、今もなお強く持ち続けていたからだ。彼女からすれば、僕のことよりもお母さんのことの方が優先なのだ。それについては、僕はショックでもなんでもない。それよりも彩香の積極的な行動に掻き乱され、実歩の想いを忘れてしまっていたことに僕は深く落ち込んだ。彼女と並んで歩くのがとても恥ずかしかった。つい今朝に『家族』と言って、あたかも何でも分かっているような口を叩いたばかりだというのに……。

 しばらく道の形と建造物があったことをうかがわせる瓦礫の山の位置を頼りに、僕たちは進んだ。すると突然、見覚えのある顔が、水面上に出ているのが見えた。


「あ、あの顔」


 立ち止まった僕の横に実歩が並ぶ。


「どうしたの? あれ……たぬき?」


 5mほど先のところに陶器製のたぬきの置物が、水面から息継ぎするかのように顔を出していた。


「あれ、僕の家の近くにあった蕎麦屋のものだ。そうか、もうそこまで来ていたのか」


 もう少し先のように感じていたが、何せ小さいときの記憶である。ましてやほとんどの建物が取り壊されている状況だ。いくら故郷だといっても、自分の居場所を的確に把握できるはずもなかった。

 たぬきの置物のすぐ近くで、建物の残骸が少し大きな山を作っている。残骸が散らばっていると危ないので、実歩には待機してもらって僕だけで周囲を見て回った。

 太陽の光が水面に反射するので、上から覗き込むように足元の水の中を見る。案の定、折れた木片が至る所に沈んでいて、注意して歩かないと足を踏み外して挫いてしまいそうだ。

 ぐるっと瓦礫の山を一周して分かったのが、やはりそこが蕎麦屋のあった場所だということだ。地面に流されたコンクリートが、元あった建物の境界をうっすらと型造っている。記憶と実際のサイズ感、形を照らし合わせて、相違がないので間違いないだろう。

 沈んだたぬきの表情がとても寂しく感じたので、僕はリュックサックからカメラを取り出し一枚写真を撮ってやった。絵心ならぬ写真心というものを持ち合わせいないが、良い写真が取れたような気がして、少し落ち込んだ気持ちに一筋の明光が差した。


「僕こっちだから」

「うん」


 実歩が軽く頷く。


「要件が終わったら、そっちに向かうよ。父さんから写真を撮ってきてくれって頼まれてるから。自分は来ないからって、注文だけ付けてくるんだから」

「うん、わかった。待ってる」


 そう言って僕たちは、ここで一旦別れた。

 月引村には車4台が通れる割と大きめの舗装された道路が、村を半分に割るような形で東西に走っていた。一旦、村に入ってしまうと他県や他の村へはもう行けない。なぜならその道路の辿り着く先は、昔盛んであった鉱山にしか続いていないからだ。よってこの道を通って鉱山で採掘されたものが、村の外に運ばれていたことになる。

 振り返って歩いてきた方向を見た。外の世界とをつなぐ唯一のこの道を封鎖するかのように、ダムの門が構えられている。


『あれがなかった頃は、その先にもずっと道が続いていたんだ』


 役目を終えた村に蓋をされてしまったような感じがして、何だか物寂しい気持ちになった。僕は向き直ると、振り切るようにしてその道路脇にあった蕎麦屋を勢いよく右に曲がった。

 僕の家はこの道を行った先にある。山の斜面の階段をいくらか上ったところにあり、小さい頃、よく実歩と一緒になって見下ろすように村を眺めていた。

 実歩の家は曲がらずに、そのまま道なりに進んだ西の鉱山方向にある。その途中に小学校があるのだが、自分の家から離れているにもかかわらず、よく僕の家まで遊びにきてくれたものだ。しかも僕の家はだいぶ山を上ったところにあるにもかかわらずだ。ここまで遊びに来てくれた友達は、実歩か彩香ぐらいしかいない。そういう意味では2人は、数少ない僕の友達だ。


「家族……か」


 昨日の実歩と彩香のやり取りを思い出しながら悶々と歩いていると、いつの間にか家の前に辿り着いていた。木造2階建て5LDKの家だ。ダムよりも高い位置に建てられていたためか、家は取り壊されておらずそのまま残されていた。


「とは言っても、入るのは少し危険か」


 残っていたとは言っても、ずっと住んでいなかった家である。人が住まなくなった家は傷みやすいと言うので、僕は中に入らず家の周りだけにとどめることにした。

 父から依頼された写真を、取り合えず家の外からパシャパシャと何枚か撮った。

 縁側があるほうに回り込むと引き戸が全開となっていたので、僕は恐る恐る家の中を覗き込んだ。太陽の光が縁側を越えて奥の部屋まで照らす。空っぽの部屋を見ながら、僕は自分の記憶と照らし合わせては、その場所を暫し懐かしんだ。

 明るく照らされた縁側付近にある柱を見ると、横に何本も線が入っている。僕の成長記録だろう。

 振り向いて庭に目をやると、地面に岩で囲まれた場所がある。中を覗いてみると大量の落ち葉が入っていて、地面と同じ高さまで埋め尽くされていた。今見ればそこが鯉を飼っていた池だなんて、誰も想像できないだろう。

 足元を見ると木製の桶が転がっていた。スイカでも冷やしたのか、それとも洗濯桶だったのか。9年前のここでの記憶はほとんど残っていないが、過ごした日々はきっと楽しかったのだろう。


『ここに戻りたい』


 ずっとそう思っている自分の気持ちこそが、何よりそんな日々であったことを示す証だ。ここでの生活が幸せだったことを深層心理では理解しているのだ。

 だが、どうしてだろうか。ここに戻っても僕の心は晴れることはなかった。


『ずっとここに戻りたいと、思っていたのではないのか?』


 だからここに来さえすれば、少しは僕の心は成仏してくれるだろうと思っていた。しかし実際は違った。成仏するどころか、僕の心は訳が分からない焦燥感に駆られたのだ。


「一体……」


 期待外れとなってしまった結果に愕然とし、僕は縁側によろよろと腰を掛けた。ひっきりなしに心から送られてくる不安の信号が、僕の脳を混乱に陥れる。


『ここに来たかったのではないか?』


『覚えてもいない過去の幸せに、縛られているだけなのか?』


『人ごみのない、自然がすぐ近くにある田舎暮らしをしたいだけなのか?』


 自分のこの訳が分からない気持ちをどう処理すればいいのか、僕は今一度自分の気持ちを整理することを試みたが、混乱した脳がそれを拒んだ。


「僕は一体何をしたいんだ……」


 両ひざに肘をついて両手で顔を覆うと、目を閉じて大きく深呼吸をした。

 何も変わらない。依然、僕の心は何かを強く語りかけてくる。

 目を薄く開けると、自分の手首に巻いたブカブカの時計が目に入った。実歩のことが頭によぎり、僕は時間を確認する。集合時間まで残り1時間と少し……。


「戻る時間も考えると、そろそろか」


 自分の内覧の目的は、実りのない結果になってしまった。納得はいかなかったが、これ以上ここにいても仕方がなかったので、僕は実歩の元へ向かうことにした。


『実歩が待っている』


 それが僕にとって唯一今、心を落ち着かせる方法であった。自分の心に強く言い聞かせ、僕はその場を後にした。

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