第4-1
窓の障子から透過した朝の日差しで、僕は目が覚めた。薄く目を開けると、ときどきその光が何かに遮られ、ちらちらと僕の目に影が入る。その方向を見ると実歩がすでに起きていて、窓際にある椅子に座って、タオルを軽く髪に当てていた。目の前にあるテーブルの上には、確か洗面用具が入った小さなポーチが置かれている。
「おはよう」
僕が起きたことに気が付いた実歩は、タオルを膝の上に置くと挨拶をした。
「おはよう……今、起きたの?」
布団に寝転びながら、彼女に顔を向け僕は言った。
「ううん、大分前。布団が違うし昨日のこともあって、ちょっと早く起きちゃって……。だから大浴場に行って、今戻ってきたところ」
時計を見ると、7時を少し回っている。
昨日の晩、お風呂に行った実歩を待っていたが、結局何も話せずそのまま寝てしまった。しばらく待った後、虚ろになった目の隙間から彼女の足らしきものが微かに見えたのが最後、次の瞬間僕は深い眠りに落ちた。
僕は布団の上で上半身だけ起こすと、昨日のことを詫びた。
「昨日はごめん。待っていたんだけど先に寝ちゃって」
「ううん、別にいい。相当疲れていただろうし。それに私も色々話したかったけれど考えが纏まらなくて、結局のところ無理だったと思う」
元気がない様子で実歩は、目の前の何かをじっと見つめている。少し湿った髪が纏まって肩の上を通って前に垂れ下がり、いつもは長い髪で隠れて見えない彼女の背中のラインが横から覗き見ることができた。外から入る光によって陰影が強調され、服を着ているとはいえ彼女の背筋が真っすぐ伸びているのが分かる。微動だにせず細く奇麗な姿勢の彼女は、まるで黒く塗りつぶされた1つのシルエット作品のように思えた。
「大丈夫。僕も、その……家族だと思ってるから。実歩のこと」
実歩のことは好きだ。ただ今は僕の気持ちなんかより、彼女の思いを汲むことを優先した。それによって彼女とのわだかまりが解消し、元通りの関係に戻れるなら、と。
「彩香と実際に会ったとき、僕も言われたんだ。実歩と距離をおいてくれって。でもそんなことしないから。これからも一緒だから」
僕の言葉がどこまで彼女に届いているのか分からない。ただ一言『ありがとう』と実歩は言うと、それからしばらく僕たちの会話は無くなった。
朝の豪華な食事も無言の中で食べると、味気ないものだった。話しかけても何かをずっと考えているようで、何も返事がない。2,3回そういうのを繰り返して、僕は実歩に話しかけるのを止めた。
食事を終えて帰り際に、昨日様子がおかしかった仲居の瞳が、自身の無礼のことで謝りに来た。同じ人だと思えないほど、昨日の彼女とは打って変わってその口調はしっかりしたもので、母親の初とよく似ていた。話を聞くと、昨日のことはあまり覚えておらず、母から事情を聞いて謝りに来たのだと言う。あれからずっと休憩所で今日の朝まで寝ていたらしく、痛かった頭もようやく治ったとのことだ。昨晩、無理やり起こして帰そうとする母の初を、支配人の佐山は制止し『俺もそんなことあったから』と言って、ここで一晩過ごすことを許可してくれたそうだ。しかも母親を家に帰して、佐山がずっと看病してくれたとのこと。佐山も同じように体調を悪くしたとき介抱してくれたのが母親の初だったらしく、そのときの恩義を感じていたのではないかと娘の瞳は話した。
何度も頭を下げる瞳に『いいですから』とこちらも何度も言い、僕たちは半ば強引にその場を離れた。あまり気にしていないことで何度も謝られても、こちらも気持ちが良いものではない。
部屋へ戻り、静かな雰囲気の中で僕たちは支度をササッと整えた。出発時間より30分ほど早かったが、僕たちは早々に心情的に窮屈になってしまった部屋を出て、ホテルのロビーで待機した。そこには待ちきれない様子の元住民たちがすでに何人かいて、時間を持て余した人たちがロビーの中を彷徨っていた。
僕はホテルの玄関口横にある待合の全席埋まったソファの後ろに立ちながら、垂れ流しのテレビを見ていた。流れている番組はどこかの地方に行った有名人が美味しいものを食べるというもので、出された料理を一口食べては面白おかしくコメントをしている。今ここで出発のバスを待っている僕たちにとっては正直どうでもいいことであったが、特にやることもないのでただその映像を眺めていた。
気が付くと、いつの間にか横にいた実歩がいなくなっていた。その場から周囲を見渡し、探してみたがロビーにいないように見える。『トイレでも行ったのだろうか』と頭によぎるのと同時に、ロビーの一角にある購買コーナーで陳列された商品を見ている実歩の姿を見つけた。遠くてよく見えないが、手には人形のようなものを持っている。人形を買うイメージがなかったので、その意外な買い物に僕は少々驚いた。家にもあまり人形なんて置いてなかったはずだ。
『少し早く来すぎたか』。あまりにも暇で早々に部屋を出たことを後悔していると、聞きなれた声が僕に挨拶をしてきた。
「おはー。ちゃんと寝れたかい?」
声がした方向を見ると、昨日と同じスーツを身にした彩香がこちらに近づいてくるところであった。昨日と同じ薄い化粧で表れた彩香の顔を見ると、いつぞやの喫茶店で会ったときのようなバッチリメイクを見た僕にとっては物足りなさを感じる。
「おはよう」
昨日のことで少し居心地の悪さを感じつつ挨拶を返す。
「あれ? 実歩は?」
そう言って彩香が周りを見渡す。まるで昨日のことがなかったかのように平然とした態度で、しかも実歩の名前が簡単に口から出てくることに僕は困惑した。女性だからか、それとも僕の考えが幼稚なのか、普通あんなことがあれば相手に会うのに抵抗があるはずものだが、彼女には一切そんな素振りがなかった。
僕が一言『購買』と言うと、彩香が遠巻きに実歩を探す。彼女がまだ購買コーナーにいることを確認できると、彩香は振り向いて僕に謝った。
「昨日はごめん。あんなところで待たせちゃって。でもこっちも大事な話だったから、部屋に入れるわけにはいかなかった」
彩香にとって実歩との関係は、もはや過去のものなんだろう。その言葉から、実歩よりも僕との関係を優先させたい彼女の強い決意を感じた。
「あの後、実歩は何か言ってた?」
「ううん」
あれから僕たちの間にほぼ会話がないことを、僕は打ち明けた。
「謙輔とのこと、ちゃんと考えてくれてるのかもね。安心したよ」
「『安心した』って、こっちは……」
こっちの雰囲気などお構いなしの彩香の態度に、僕は向かっ腹が立った。文句の一つでも言ってやろうとしたとき、彼女の後ろから実歩がこちらに歩いて来るのが見えたので僕は途中で言葉を止めた。
「おはよう」
実歩が彩香に声をかける。突然の背後からの声に彩香は肩をすくめた。ゆっくり振り向き、その声の主が実歩であることが分かると彩香も挨拶を返した。
「おはよ。よく寝れた?」
平然とした様子で彩香が実歩に言う。
「誰かさんのせいで少し寝不足よ」
そう言ってニコッと実歩が微笑んだが、その表情はどこか疲れているように見えた。
「それは悪かったね」
彩香も微笑んで返して言った。
昨晩の2人のやり取りを知っている僕にとって、今のこの場の雰囲気は居ても立っても居られない状況だ。彩香のみならず実歩も平然と相手と会話をやってのけているが、本人たちは一体どういう心境でいるのだろうか。もし僕が父から叱られたら、翌日にいつもどおりに接することができるかというと、決してそうはできないだろう。
いつの間にか2人の話題は、実歩が買ってきた女の子の人形に移っていた。
『私に似てると思って買ったんだけど』
そう聞こえ、2人が話す横からこっそりと実歩が手に持つキーホルダーの人形を見てみた。髪が長く、少し憂いの表情をした人形だ。似ていないと僕は思ったのだが、彩香が賑やかに『似てる!』と連呼する。心の底ではどう思っているのか分からないが、傍から見れば楽しそうに会話をしている2人だ。
そうこうしているうちに集合時間になる。彩香は腕時計で時間を確認すると、周囲に向かって声をかけた。
「時間になりましたので月引村の元住人のみなさん、こちらに集まってください」
その声を聞いて、ぞろぞろと人が彩香の周囲に集まりだす。
「あ、すみません、みなさん。こちらに、もっとこちらへお願いします」
彩香を中心とする集団から膨れるようにいた数人の元住人に対し、彼女は立ち位置の変更を促す。彩香の隣にいつの間にかスーツ姿の男が現れ、彼女と一緒になって元住人を誘導する。昨日の宴会時に、ステージ上にいた男とは違う。
「はい。いいですか? おはようございます。昨日の宴会の司会を務めた大里です。みなさんはこれから月引村へ移動します。本日まで色々とみなさんをフォローさせて頂きましたが、これからは私の横にいるこの男性の方に従って行動してください。みなさんへお出しした招待状からこの場までが大里建設の私、大里彩香が務めさせて頂きました。もしみなさんの周りで建築のことでお困りの方がいましたら、是非弊社へご連絡ください。よろしくお願いいたします。どうもありがとうございました」
彩香がゆっくり頭を下げると、周りからパチパチと盛大な拍手が送られた。約30人ほどの参加者であるが、これだけいれば問い合わせも多かっただろう。バイトとはいえ、今日までしっかりと勤め上げた彩香に僕も一緒になって拍手を送った。
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