第3-4

「遅れてごめん。電車が止まってて」


 彩香は白いトートバッグを肩から外して、僕の対面にある長椅子にドカッと置いた。少し開いたトートバッグの上から垣間見れるその世界は混沌としており、彩香の大雑把な性格が滲み出ているようであった。

 彩香はバッグからハンカチを取り出し、雨で濡れた身体を拭いた。

 久しぶりに会った彩香は、大人の女性の風貌へと変身を成し遂げていた。大きく膨らんだ胸以外の身体的特徴はほぼ変わっていないが、肩まである長く艶のある髪や化粧、アクセサリーを身に着けてのお洒落は、どれも小学校時代には見られなかった姿だ。彩香といえば、小柄で服装が地味でメガネをかけていて、どこをとっても外観的主張が控え目な子であった。電話では分からなかったが、それがここまで存在感ある女性になっているとは、驚きを通り越して脱帽だ。しかし低い身長と幼い顔立ちだからか、身につけている物すべてが若干背伸びしているように思えた。


「ごめん、いつものお願い」


 カウンターからこちらの様子を伺っていたゆかりに向かって彩香は手を上げ、何度も来たことがあるのか『いつもの』で注文をする。その言葉をテレビでしか聞いたことがなかった僕は、同い年にもかかわらず彩香に大人の女性であるかのような印象を受けた。

 『よっ』と小さな呟きとともに重そうなトートバックを一瞬持ち上げると、彩香はすぐ横にずらして置いた。移動で疲れたのか、自重にまかせてダルそうに長椅子に座ると深く息を吐いた。彩香の甘い吐息が僕のところまで届き、僅かな間だけ鼻をくすぐる。


「彩香はここによく来るの?」 

「まぁね。叔母さんのお店だから、待ち合わせがある度によく利用してる」

「え? 叔母さん?」

「あれ? 聞いてない? 途中からタクシーに乗って行くから、それまで暇つぶしの相手になってくれって頼んだんだけど」


 なるほど。だから突然僕に話しかけたり、名前を知っていたりしたのか。違和感として置き去りにされていたことが、オセロのように一気にパタパタとひっくり返って腑に落ちた。


「それより、ホント久しぶり。あのちんちくりんがこんなに変わっちゃって、驚きだわ」

「それはこっちのセリフだよ」


 小学生だった頃、確かに男である僕の方が、背は低かった。しかし今さっき見た感じだと、僕の方が随分と背が高くなり、彩香の方はあの頃からほとんど変わっていない。本人を目の前にして口には出せないが、摂取した栄養が身長ではなく胸にすべていってしまったのだろう。


「ホントよね、私もまだまだのつもりだったんだけど」

「え? まだ大きくなるつもりだったの?」

「『まだ』って、だって小さいのは嫌じゃない?」

「うーん、小さい方が好きっていう男もいるみたいだし。それに大きいと女性って肩が凝るんでしょ?」

「『凝る』って……一体何の話をしてんの? 身長の話だよね? 私は色んな服を着たいの。身体が小さいと服が制限されちゃって、他のブランドが着れないのよ」


 危うく自分の勘違いから、話をミスリードするところであった。彩香が何も気にせず『胸』から『身長』の話に戻してくれて、僕は安堵した。久しぶりにあっていきなり自分の評価を下げるなんてことは、誰だってしたくないだろう。


「はぁ……それにしてもホントにごめん。遅れちゃって」


 電車が止まってしまっては、どうしようもないだろう。何度も謝る彩香に対し、僕は顔を横に振って謝罪を受け入れた。彩香の話だと、2つ前の駅まで電車で来れたらしく、そこからタクシーで来たそうだ。田舎ということもあって、駅前にはタクシーが常駐しておらず電話で呼び出したが、そこからタクシーが来るだけでも15分ほど待ったとのことだ。少しの間、『如何に自分がここまで来るのが大変だったのか』の話を聞いてやっていると、ゆかりが『いつもの』コーヒーを持ってきて彩香の前に置いた。


「謙輔君、うちの子よろしくね」


 偶然、僕と目が合いゆかりが言う。


「何よ、うちの子って。ゆかりちゃん、子供いないじゃん。しかも独身だし」


 『あら、イヤだ』と今思い出したかのようにワザとらしく言ってみせると、彩香の目を見て、


「じゃあ、ごゆっくり」


 と意味ありげな言葉を残して、なぜか妙に楽しそうにしながらカウンターの中へ戻って行った。


「人をおもちゃのように楽しむのは止めてほしいわ、ホントに」


 眉間に皺を寄せながら、彩香が熱いコーヒーをすする。彩香は大きく溜息をつくとようやく落ち着いたのか、ずっと喋り続けた口は閉じられ沈黙の間が流れた。

 彩香は何気なしに僕の目を見つめてきた。ぼーっと見つめてくるその目に何の意図もないことは分かっていたが、真正面から見る彼女の顔はあまりにも魅力的で直視することが出来なかった。まだ幼さが残る顔立ちに化粧をして少し背伸びをした姿に、僕の心は高鳴った。


「どうしたの?」

「ううん、何でもない」


 平然を装うには無理があったかもしれない。自分でも分かるぐらい目が泳いでいたので、彩香は怪訝に思って聞いてきたのだろう。


「何よ、変なの。あはっ」


 彩香が吹き出すようにして笑った。

 女性には色々なタイプがいるもんだ。彩香を目の前にしてつくづくそう思う。実歩は顔立ちは奇麗ではあるものの、本当に魅力的な部分は内に隠れていて話すまでその魅力には気付かない。しかし彩香の場合は、魅力が前面に出過ぎていて顔を直視することができない。分かりやすいその魅力は、周囲の男たちを魅了し、きっとほったらかしにされることもないはずだ。まぁ、化粧の力も多少あるのかもしれないが。


「おしゃれだね。いつもメイクしてるの?」

「普段はしない。学校が禁止だから。でも中には隠れてやってる子はいるけどね」


 そういえば実歩は、どんなときに化粧をしているのだろう。あまりやってるところを見たことがない。


「こうやって外に出るときだけ。特に今日はね」

「なるほど」


 慣れない化粧の香りで頭が少しクラクラしてきた僕は、適当に相槌を打った。


「そういう謙輔だって香水つけてるじゃん。良い香りするよ」

「香水? あぁ、これは花の香りだよ。家で『月下美人』っていう花を飾ってるから、その香りだよ」


 実歩は体に染みついたこの香りがとても好きで、よく僕の傍に寄って来てはクンクンと匂いを嗅ぐ。実歩が言うには『月下美人』の香りはもちろん好きなのだが、僕が放つこの香りが特別好きで、嗅ぐと辛いことも忘れて安心するのだと言う。かれこれもう1年程、自分の部屋に置いているだろうか。


「ねぇ、普段休みは何してる?」


 彩香が僕に質問する。


「最近は勉強ばかり。大学に行くつもりだから」

「へぇ、どこの?」

「家から通える範囲。林業を学べるなら取り合えずどこでもいいかな」

「将来、林業の仕事をするってこと?」

「どうかな、出来たらいいんだけど。村のダム化がきっかけでダムの事を調べるうちに、林業に興味を持ったんだ」


 初めは村のダム化には、反対の気持ちしかなかった。月引村を壊してまで作るダムに、一体どんな意味があるのだろうか。『ダムは人の暮らしを良くする』とあるが、それ以前に追い出された月引村の人々の暮らしはどうなるのか、と。リビングのテーブルに行政からの資料が無造作に置かれ、その表紙にでかでかと書かれたうたい文句を見て僕は憤慨していた。しかし暇なとき、ふと気になり、その資料を手に取って読み進めていくうちに僕の考えは変わった。そんなことで簡単に考えを変えた僕を、


 『裏切者だ!』


 なんて月引村の人たちから後ろ指をさされそうだが、何も知らなかった僕を変えるのには十分な内容であった。いかにダムが重要で、人々の生活に必要なものかということが分かったからだ。同時に林業という仕事の存在を知り、僕は次第にその魅力に取りつかれていった。


「林業ってね、生産に必要な分だけ植林して伐採をやっているんだ。伐採された木は、売って、加工して、出荷されていく。環境に優しいサイクルの中で行われていて、本当に素晴らしい仕事だなって思う。他にも環境保護のために、樹林をすることもあるみたい」


 『僕のような人見知りが激しい人間でも、就くことができるかもしれない』


 とっかかりはそうだった。僕は山林が好きだし、周りに人がいなくても寂しくない。適正としては申し分ないはずだ。


「出来たらいいね、そんな仕事」

「うん」


 目の前に置かれたコーヒーの表面に映る光を、ぼんやりと見つめ僕は静かに頷いた。

 去年の夏頃だった。実歩に大学受験や将来のことを初めて相談したとき、驚かれはしたが話をするにつれ最後には『応援するよ』と言ってくれた。同時にこんな僕を羨ましいとも言っていた。なぜなら自分には大学に行く意義や将来の夢がないからだと。


「彩香は大学はどうするの?」

「私は行かない。受験勉強なんか嫌だし、大学に入ってからもそう。ずっと勉強するなんて考えただけでゾッとする」

「ははっ、そういう勉強嫌いなところ変わってないね。彩香らしいよ」

「そう? あははっ」


 彩香は勉強が心底嫌いなようで、顔をしかめて体を震わせた。その中で見せた子供のような愛嬌のある表情と、目の前の大人っぽい姿の彩香とのギャップに僕は思わず笑ってしまった。それに釣られて彩香も大きく笑う。

 笑う彼女の顔を見ながら、見た目は大人になったものの根は変わっていないことに僕は安心した。小学生時代の彼女もよく僕の前で笑っていた。コロコロ変わる彼女の表情は山の天気のようにその時々で違っていて、見ている側を楽しませてくれた。


「ありがと、彩香と話していると何だか楽しいよ。昔の何も考えずに、みんなで遊んでいた頃を思い出させてくれる。今は色々と悩みもあるからね」


 久しぶりに爽快に笑った気分もあって、僕は彩香に礼を言った。


「お安い御用よ。いつでも私に任せて」


 彩香は胸を張って偉そうな表情を作ると、拳でポンと胸を叩いた。それを見た僕は、また笑みがこぼれる。


「ねぇ、さっき言ってた悩みってさ……」


 一転して、彩香が真面目な表情になる。彩香に似合わないその表情は、今から深刻な話になることを僕に予言させた。


「……実歩のこと?」


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