第3-3
「じゃあ、またね」
彩香は僕にニコッと微笑みかけると、そのままホテルのエレベータの方へと歩き去っていった。
『何てことをしてくれたんだ』
僕はこれから起こる結末に怯え、実歩の方に顔を向けることができなかった。どこか遠くの部屋から、楽しそうに男女が笑う声が廊下に漏れて聞こえてくる。部屋の中に背を向け、僕は興味もないのにその笑い声に聞き耳を立てた。何もなければ僕たちも今頃、あんな感じでじゃれ合っていたのだろう。僕は備品のスリッパを履いたまま部屋の玄関で立ちすくみ、楽しそうに話す男女を恨めしく思った。
すると部屋の中からゴソゴソと、物をあさる音が聞こえてきた。部屋の中を覗いていいものかと葛藤に駆られ、遅れて振り向くと、ちょうど中から実歩が出てくる。
玄関で佇む僕を避け、散らばったホテルのスリッパの上に器用に足を乗せて履くと、風を切るように僕の横を抜けていった。実歩の腕の中に抱え込まれた浴衣やタオルなどの一式は、辛うじて纏まってはいるものの、ほんの僅かに力を加えただけで今にも半壊しそうなほど乱雑に積まれていた。
すれ違いざまに一瞬見えた彼女の目は赤く、そして涙が流れているように見えた。僕は彼女の後姿が別部屋の隅に消えるまで、執拗に目で追いかけた。
『こんなときどうすればいいんだ……。追いかけて、呼び止めて、その後は……何て言えばいいんだ……』
彼女の姿が消える直前まで、僕は必死に悩んだ。そして彼女の姿が見えなくなると同時に、自分の中に大きな穴のようなものがぽっかりと空くのを感じた。まるで自分の大事な臓器が落ちてしまったかのように。
空いた穴を塞ぐ何かを求め、力なく部屋の中に入ったが、テレビや机、窓など目につくすべての物の名前が実物と一致させることができず、目の前にあるものが何なのか理解できなかった。それでも僕の目は泳ぎ、何かを求めた。
無気力に襖を閉めると、外部の音が一切遮断され部屋の中が一気に静まり返る。普段であれば熟慮にこれ以上とない環境ではあるが、僕はもはやそのような状況ではなかった。放心状態となった僕は、何の感情も芽生えることもなく、ただそこに存在していた。
フラフラと自分のリュックサックの前まで行くと、手に持っていた衣類をバサッと座敷の上に落とした。その真横には彼女のリュックサックが仲良く並んでいる。僕は見るのが辛くなって逃げるようにリュックサックから目を離した。
どれくらい時間が経ったのだろうか。真っ白になっていた頭の中が、時間によって少しだけ色味を帯び、考えるだけの力を取り戻した。気が付くと、僕は畳に敷かれた布団の中にいた。豆電球だけが点灯され、部屋全体が赤橙の色で照らされ夕暮れ時のような寂しさを醸し出していた。
部屋の時計で時間を確認すると、22時を少し越えている。お風呂から戻ってきた時間をはっきり覚えていないが、実歩がお風呂に行ってからおよそ30分ほどは経っているだろうか。落ち着きを取り戻した僕は、起こったことを振り返った。
盗み聞きするつもりはなかった。僕がお風呂から戻ったとき、部屋の中にいる彩香と偶然、目があった。僕を見つけた彩香は、何の表情もなくじっと僕を見つめた。ほんの僅かな時間ではあったと思うが、それはとても長いものに感じた。
彩香は部屋の内側の襖を閉めると、僕を無言で中に引っ張り入れ玄関に立たせた。その後すぐに格子戸ともう一枚ある外側の襖を閉められ、どこにも行くことが許されなくなった僕は、半ば監禁された状態になってしまった。
会話の何割を聞いたのか分からないが、僕の前から実歩が無言で立ち去った話の核心部分はおそらく聞いた。
『家族』。そう言われてさっきはショックを受けたが、今思うと当然といえばそうかもしれない。
『むしろ今の僕たちの関係を表現するのに、一番最高の言葉なのだ』
と僕は自分に言い聞かせた。そりゃあ、実歩が『謙輔は恋人よ』と言ってくれることを、少しは期待したのだが。おそらく実歩はそのことを僕に聞かれてしまい、いたたまれなくなって何も言わずにお風呂に行ってしまったのだろう。
しかしさっきのことはちゃんと話し合えば、お互い気まずい思いは無くなるはずだ。それよりも僕たちの今後のことだ。僕たちの間に彩香が割り込んでくるとなると、これまで以上に実歩との関係がややこしくなる。ただでさえ実歩の病気は理解と忍耐が必要だというのに、これに加えて彩香の気ままな性格だ。僕の精神はおろか、これまで築いてきた実歩との関係性も失われかねない。彩香の僕に対する好意は嬉しいが、今のところ受験勉強と実歩のことで手一杯なので、早々に彩香に断りを入れたほうがいいだろう。
1回目の電話が終わってからすぐであった。実歩の内覧への参加希望を伝えてから、彩香から直接会わないかという誘いの電話があったのは。
配達不可となった実歩へのハガキを実際に見せてくれるというので、興味があった僕は二つ返事で承諾した。お互い住んでいるところが離れているのでその間をとって、ちょうど中間あたりの『パーダ』という山間にある喫茶店で会うことにした。
知っている相手とはいえ、久しぶりに会うのは緊張するものだ。しかも異性。久しく経験していない胸の高鳴りにつられ、僕の頭は落ち着きがなかった。どうでもいいことをあれこれ考えていると、
『カランカランッ』
店のドアが開き、仕掛けられたベルが落ち着いた店内に一瞬の緊張を投げかける。店内にいる他のお客さんも僕と同じように、相手が来るのを待っているのか、ベルの音が聞こえるたびに一斉にその方向を見る。その光景はまるで餌を持った親鳥が巣に近づくと、一斉に口を開ける雛のようだ。
1人のご老人の男性が、黒い傘を閉じながら入ってきた。
「いやぁ、今日は天気が悪いねぇ」
男性は常連なのか、店の女性のマスターに気軽に声を掛けた。マスターも『そうですねぇ』と食器を拭きながら、にこやかに言って返す。男性は傘立てに自分の傘を入れると、迷うことなくまだ誰もいないカウンターに座って、マスターと何やら会話を始めた。
店内は4人掛けのテーブル席が4つと、6人ほど座れるカウンターのみでこぢんまりとしている。そのため小さな店内で少しでも大きな声で話そうものなら、店内中に話が知れ渡り、明日には自分の知らないところで誰かの会話のネタになっているだろう。店内にはクラシックのような曲が流れているが、音量が小さいので何のネタ防止対策にもならない。別れ話や痴話げんかのようなものは、もっての外だ。
店の入口付近に座った僕の位置からだと、店内と外の風景を同時に目にすることができ、それぞれ独自の世界を見て楽しむことができる。とは言っても、窓から見える風景は店前の少し大きな道路と電車の駅ぐらいで、人里離れた場所に建てられたこの店では、都会で見るような人の行き来を目にすることはできない。ここから開放的な駅のホーム上を覗くと、電車は10分に1本停まるぐらい間隔が短いというのに、ホームに人が降りる様子もなく、止まってはまた発車、の動作を虚しく繰り返していた。
そんな面白味もない光景に、僕は飽き飽きしていた。『どこか興味を引くような光景が、きっとどこかにあるだろう』と切望し、細かく探したところ、最終的に店先の頭上に張ってあるテントに辿り着いた。テントの少し窪んだところに小さな雨粒が集められ、溜まった重さに負けて、かたまりとなった雨水が時々こぼれ落ちてくるのだ。よくよく見るとテントを張っている紐が、一部外れている。
雨の強弱によってその瞬間の間隔は変わり、暇な僕はそれがいつ行われるのかとじっと見守っていた。緩んだテントの先がこぼれそうな角度になっても、なかなか水が流れ落ちないときは、下から小突きたくなる気分だ。
そうしているうちに、自分の瞼が重くなっていくのに気付く。店内の壁に掛けられた時計を虚ろな目で見ると、待ち合わせ時間から15分ほど過ぎていた。思ったより早くここに着いてしまったこともあり、かれこれ45分ほど呆けている。
「すみません、同じものもう一杯お願いします」
僕は席から立ち上がり、カウンターに近寄るとマスターに3杯目のコーヒーを頼んだ。
「はい」
しばらくしてマスターが熱々のコーヒーを持ってきて、テーブルの上に置いた。
「ありがとうございます」
僕はマスターの顔を見ることもなく、軽く頭を下げた。
「すごい雨ですね」
退屈な雰囲気を醸し出していたのか、マスターが僕に声を掛けてきた。
「そうですね」
急に話しかけられたので、僕は条件反射的に賛同する。
「土砂で電車が止まっているみたいですよ。あの方は運よく最後の電車でここまで」
カウンターに座っている若い男性に、マスターはちらっと目をやって言った。いつの間にか客が増えている。さっき外を見ながら睡魔と戦っているとき、入って来たのだろうか。その若い男性の2つ隣の席で、先ほど入ってきた高齢の男性が新聞を広げて見ていた。
しかしどおりで彩香が遅いわけだ。不安のあまり僕はもう一度、店内の時計を見た。
『10時20分』
あとどれくらいで彩香は着くのだろうか。いつ電車は復旧するのだろうか。僕が不安そうにしていると、マスターは『大丈夫ですよ』と言ってきた。
「お相手の方、もう直ぐ来られると思いますよ」
マスターが優しい口調で言う。年長者として若い僕を気遣ってくれた言葉だと思うが、流石にその状況では彩香も簡単にここに辿り着けないことは明白であった。相変わらず僕が不安そうにしていると、マスターが店内をぐるっと見渡す素振りをみせて、対面の席に『よっこらしょ』と言って、足を通路に放り出した体勢で長椅子に腰を掛けた。
「少し休憩しようかしら。ずっと立ち仕事だと、こうしてたまに休憩しないと足腰が痛くなっちゃって」
そう言うとマスターは肘を両側に張って、背筋や腰を伸ばすストレッチを目の前でやりだした。首の後ろで括られたポニーテールの髪が、マスターの運動につられ左右に揺れ動く。
「あの、お店大丈夫なんですか?」
あまりにも店内を気にする様子もなく自然にストレッチをやっていたので、却って僕が店内のことを心配してしまう。
「大丈夫よ。他のお客さんはもうラストオーダー済ませちゃってるから」
「そんなこと分かるんですね」
「ふふっ、今いるのはみんな常連さんよ。だから何がラストか分かるわ」
ストレッチが終わり、マスターは顔だけ僕の方に向けて話かけてきた。
「お互い時間を持て余してそうだから、少しお話ししない? ね?」
店に入ってきてからずっとまともに顔を見ずに注文をしていたので、ようやくそこで40歳代ぐらいの女性であることを僕は認識した。
『井口ゆかり』。彼女の左胸のあたりに付けられた名札にそう書かれている。
「えぇ、まぁ」
1人で喫茶店に入ったのは初めてなので、『どのお店のマスターも客が退屈にしていると、話し相手になってくれるのだろうか?』なんてことを思いながら僕は承諾した。
「そんな構えなくていいわ。何も怪しい勧誘をしようとしてるわけじゃないんだから。私にもあなたぐらいの子がいてね、可愛く見えちゃってお話したいなと思ったのよ」
「はぁ」
「この辺は初めて?」
「はい」
「不便なところよね、周りには何もないし。前後5駅分ぐらいで店やってるのって、ここだけなんだから」
自負があるのか、自慢げな様子でゆかりは僕に言った。
「だから待ち合わせで使用するお客様が多いの。でもね、1つだけ難点があって……」
ゆかりは、僕の背後にある窓から外を見やった。
「山間部だからか天候が不安定になりやすくてね、度々こうして強い雨が降るの。そのたびに近くの山で土砂崩れなんかがあったりして、電車が止まちゃったりするの。今みたいにね」
「どれくらいでいつも復旧するんですか?」
「さてねぇ、1、2時間ってところかしら。被害状況によるとは思うけど」
すでに1時間近くここにいるというのに、さらに待たないといけないのか。その言葉を聞いて、僕は愕然とした。
「大丈夫よ。ここにいれば食べ物はあるから、すぐには餓死はしないわ」
「いえ、これ以上待つのにコーヒーはもう飲めないなと。お腹がもうチャプチャプで」
「あら、そう。ふふっ」
僕がお腹をさすって苦しそうな仕草をすると、それを見てゆかりは笑った。
「不便な場所に喫茶店を開いちゃって、あなたのお腹に申し訳ないわ。待ち合わせ場所として使いづらい店よね、ふふっ」
「どうしてこんなところに店を開いたんですか? 今の話からすると立地は良くないですよね。後から分かって後悔しているとか?」
僕がそう聞くと、ゆかりは『待ってました』と言わんばかりの反応をみせた。目を大きく見開き、キラキラと輝かせてゆかりが言う。
「あなたのように、退屈そうにしている人の顔を見ることが好きなの」
一瞬聞いてはならないことを、聞いてしまったような気がした。サディズムのような心理的嗜好の存在は知ってはいたが、こうして実際に聞くと脳が受け入れないためか相手が何を言っているのか分からなくなる。
「あぁ、勘違いしないで。そういうことが好きなわけじゃないから。何も人を陥れるために、ここに店を構えたわけじゃないの」
僕の表情が固まっていたのか、ゆかりはすぐさま僕の勘違いを察し、先ほどの発言に補足した。しかし、好きと言ったり好きじゃないと言ったり、僕はすでに何が何だかよく分からない状態になっていた。
「これは私がこの店をここに建てた理由でもあるんだけど、世の中の人はとにかく忙しく動いているわ。自分の身体が悲鳴を上げているにもかかわらず、耳を傾けようとせず、常にね。どうしたらこういう人たちを助けられるのか。そう考えた時、思いついたのよ。言って無理なら物理的にできないようにすればいいってね」
「そこで、ここですか?」
「そう。ここなら雨が降って土砂で電車が止まれば、周りには何もないんだから色々と諦めもつくでしょ? 復旧までは退屈かもしれないけど、その間だけでもゆっくりできるんじゃないかしら。だから相手が退屈そうな顔をしているとき、『私の願いが成就したんだ』ってなって嬉しく思うのよ」
生き生きとした表情でゆかりは僕に語った。
「だから私の目的としては最高の立地なの。あなたの表情も良かったわよ。ふふっ」
呆けていただけの自分に突然『良かったわ』と言われても、それについては何の感情も沸かなかった。他人同士が目の前で褒め合っているのを、傍から見ているかのような感覚だ。それよりも入店してからずっと僕の締まりのない顔を見られていたのかと思うと、恥ずかしくて店をすぐさまに飛び出してやりたい気持ちになった。ただ彩香との約束があるので、そんなことはできないが……。
顔から火が出てゆかりから顔を背けていると、彼女がちらっと腕時計を見る仕草が目に入る。
「そろそろ仕事に戻らないと。お話しできて楽しかったわ。ありがとう」
そう言うとゆかりは立ち上がって、カウンターに戻ろうとした。
「そうそう。喫茶店をやっておきながら言うのはおこがましいんだけど、コーヒーの注文はこれが最後のほうがいいわ。一般的に身体に良いとされているコーヒーだけど、カフェインの摂りすぎは良くないから。もし次頼むときは、そうねぇ……低糖質ケーキなんかがおすすめよ。カロリー低めだからお替りもできるわ。ちょっと割高だけどね」
ニコッとゆかりは僕に向かって微笑んだ。
「さてと、邪魔者は消えないとね。じゃあね謙輔君」
一瞬、窓のほうに目をやってそう言うと、ゆかりはカウンターの中に戻っていった。急に自分の名前を言われ状況を理解できないでいると、入口のベルが鳴り、店内に一人の女性が入ってきた。
月日が経ち、大きく雰囲気は変わってはいたが、昔の面影が残っていたのですぐに分かった。
美月 彩香だ。
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