第3-2

 テレビの番組が一斉に切り替わる。好みの番組を探す謙輔の傍らで、私は彩香が部屋を訪ねてくるのを待っていた。部屋の時計の針が午後9時を指していることは分かってはいたが、私は自分の腕時計でもう一度時間を確認した。


「遅いね、彩香」


 時間が遅いことを心配して、謙輔が話しかけてくる。宴会が終わってから、1時間は経っていた。帰り際に彩香が『すぐ行くから』と言っていたのは何だったのか。翌日、起きるのが早いのと先が読めない状況に、私は不安を感じていた。


「お風呂も入らないといけないのに」


 思わずボソッと言葉が漏れる。


「うーん、疲れた。今日は早く寝ようかな」 


 謙輔はそう言うとテレビを消し、浴衣やタオルを準備しだした。


「お風呂行くの?」

「うん。僕は待ってても仕方ないし。彩香は実歩に用があるみたいだったから」


 気軽に行こうとする謙輔の無神経な言葉に、私は苛立った。


『私が今どんな気持ちでここにいるのか』


 準備万端で颯爽と横を通り過ぎようとした謙輔の腕を私は素早く掴んだ。その反動で謙輔は後ろに引っ張られ、思わず倒れそうになる。


「おっ!……と、どうしたの?」


 驚いて振り向いた謙輔に『一緒にいて』と言いたがったが、彼の普段通りの表情に一種諦めのようなものを感じ、結局『いってらっしゃい』と言って、掴んだ手を離した。


「じゃ、先に行ってくるよ」


 そう言って謙輔は部屋を出ていった。部屋の玄関の格子戸が閉まり、謙輔のペタペタというスリッパの音が意気揚々と遠ざかっていき、そのうち静けさの中に消えていった。

 1人になると、どこにいても静かで寂しいものだ。泊まる部屋がどんなに豪華でもそれは同じだ。静かさのあまりお馴染みのキーンという耳鳴りが聞こえてきた。


「一緒に行きたかったな」


 三角座りで自分の足との間に顔をうずめながら、またボソッと呟く。1人でいることは嫌いだが、それは家の普段の生活で慣れていた。高校を卒業してから毎日のようにずっと家にいるので、ベランダで植物を育てたり、本を読んだり、掃除などの家事をしたりして、その日の時間をつぶしている。週に1,2回は、受験勉強の合間を縫って謙輔が来てくれる。何度か手ぶらで来たことを冗談でからかうと、次からは必ず何か手土産を持って来てくれた。受験生相手に悪いな、と思いつつ、謙輔の好意に甘えている。本当は私が逆に差し入れをしたいぐらいなのだけれど、いつ彼が来てくれるのか分からないのでケーキのような足が早いものは買えない。謙輔の手土産を一緒に食べ、色々な話をするのが、今の私にとって唯一の楽しみであり幸せだ。なので毎日の退屈な時間は、その瞬間のための長い労働のようなものだろう。そう考えると退屈な時間も案外耐えられた。

 『無気力症』は突然襲ってくる。調子が良いと思って薬を持たずに外出した矢先に、急に症状が現れることもある。はじめてそれを経験した日は散々であった。意気揚々とショッピングに出かけた私は、突然、道端で無気力な状態に陥った。その日の目的や歩くことさえ意味を奪われてしまった私は、その場に座り込んでしまった。そこから先はあまり覚えていないが、どろどろとした霧に囲まれているような意識の中にいた。霧が晴れた小さな空間を見つけると、決まってそこには『自殺』という言葉が顔を出していた。元気なときは、そんな言葉など頭を過ることさえしないのだが、そのときは考えられないほどの無気力が私を襲い、この世からのリタイアを誘った。

 体に激しい痛みが伴う病気の場合、命を絶つ選択した者の気持ちは察するに余りあるが、少しは寄り添い理解できるかもしれない。しかし私のこの病気の症状はそのとき、どこかが辛いというわけでもなく、突然大きな無気力が襲ってきて、簡単にその結論に達してしまう。あのときなぜ最終的な行動に出なかったのか、今でもわからない。

 どれだけ霧の中を歩いたのだろうか。意識がはっきりしたとき、謙輔が泣いて私の名前を呼んでいた。どうやって彼の家の前に辿り着いたのかは全く覚えていない。ただ後から聞いた話だとインターホン越しに、彼の名前を何度も弱弱しく呼んだそうだ。どこで転んだのか、来ていた服は酷く汚れてしまっていて、それを見て哀れに思った謙輔は思わず泣いてしまったそうだ。泣きじゃくった謙輔を見ているうちに、薬を持たずに出歩いた自分の行動が如何に浅はかだったか、申し訳ない気持ちで心がいっぱいになり、『ごめんなさい』と何度も謝りながら泣いたのを覚えている。

 無意識でも彼の家に行くなんて自分でも恥ずかしいぐらい、心の底から謙輔に頼っているんだな、と思い知らされた出来事だ。小さい頃からずっと一緒に遊んでいて、楽しいときは一緒に笑って、辛いときは話を聞いてくれる。いつ何時もずっと傍にいてくれる存在だ。言ってみれば、私に無関心な父よりも謙輔のほうがよっぽど『家族』らしい。

 そんな彼と……謙輔と今後どう付き合っていくのか。そろそろ考えるときなのかもしれない。おそらく彩香はーー。


 あれこれ考えていると、部屋の入口に吊るされたノック用木魚の音が突然鳴り、私は我に返った。部屋の時計を見ると、針がおよそ9時30分を指している。立ち上がって、玄関に出ると格子戸の向こうに彩香が手を振って待っていた。


「遅れてごめん。会場の片付けや明日の仕事の話があって」


 私は無表情で彩香を部屋の中へ招き入れた。


「どうぞ」

「えっと、中に謙輔は?」

「いない」

「どこにいるの?」

「お風呂」


 それを聞いた彩香は、『へぇ』と言って不敵な笑みを浮かべる。


「お邪魔するね。おっと、意外と良い部屋じゃん。実歩にしては」


『私に喧嘩を売っているのだろうか』


「意外ってどういうこと?」


 私はなるべく表情に出さずに平常心を保ちながら、彩香に質問した。


「だって、実歩って堅実的なところあるじゃない?」


『小学生の頃に遊んで以来、今日まで顔を合わせてこなかった人間に私の何が分かるのか』、と言いたかったがそれは耐えた。


「小学生の時点で、そこまで理解してくれてたなんて嬉しいわ」

「まぁね、心は大人だったからね」


『何が大人だ。いつもめそめそ泣いていたくせに』


「というのは冗談で、謙輔に聞いたのよ。如何に実歩が愛情が無くて、貞操観念が硬いか、ってね。慰めてもらっておいて、その後近寄るなっていうのも可哀そうだと思わない?」


 なるほど……宴会場で彩香から誘いを受けたときに感じた胸騒ぎは、やはり的中していた。おそらく普段の彩香なら、ここまで人を卑しめることなんてしないはずだ。突き刺すような言葉は、ある強い目的を持ってここに来たのだ。彩香は始めから臨戦態勢で、ここに来ているのだと私は悟った。

 久しぶりに会った彩香ではあるが、この先に話す内容は私には容易に想像できた。その話であるなら、確かに謙輔がいても邪魔なだけだろう。

 それにしても2人が秘密裏に自分を話題にして、コソコソと話していたことにショックを受けた。私たち2人の中の出来事は、2人だけのものだと思っていただけに、他人に暴露した謙輔にどうしてそんなことをしたのか、と今この場にいたら激高して問い詰めていただろう。そんなにデリカシーの無い男でもないはずなのに。信じ切っていた相手に裏切られたような気がして、深い悲しみが込み上げてきた。


「時間もないから単刀直入に言うけど、謙輔のこと、どう思ってるの?」


『やっぱり謙輔のことか……』


 違う要件であることを少しだけ願っていたのだが、そうはいかなかった。話の先が読めるだけに、すぐにその場を離れたい思いだ。


「謙輔から聞いてるよ。2人は付き合っていないって。ねぇ、可哀そうだと思わない? 謙輔は実歩のこと、ずっと好きなのよ。ずっとよ? そんな気持ちを感づけない鈍感なタイプじゃないよね、実歩って。もし謙輔のこと、何にも思っていないならそろそろ解放してほしいの」


『解放って、別に束縛なんかしていない! 謙輔が勝手に……』


 そう喉元まで出かけていたものを、私は飲み込んだ。謙輔の意志で勝手に傍にいてくれていたのなら、勝手に離れていくのも自由だからだ。それを肯定したくはなかった。

 もう少し謙輔のことを考える時間が欲しい。でも彼女がそれを許さなかった。


「私は彼を幸せにできる。家の中に閉じ籠ってるんじゃなくて、今より色んな場所に一緒に行って、旅行に行ったりして思いっきり楽しめる、一緒に美味しいものもいっぱい食べられる。その方が彼も幸せだと思うんだけど? ずっと会ってなかったけど、久しぶりに会って分かったの。やっぱり彼のことが好きなんだって」


 彩香は言いたいことを一通り言えたのか、少し落ち着きを取り戻し、周囲を見渡した。部屋の2枚の襖が開いていて、ずっと筒抜けで話をしていたことに、彩香は一瞬『しまった』という顔をする。彩香は部屋から出ると、少し間を置いてから私の目の前にある部屋の内側の襖を閉めた。続けて玄関の格子戸と、間にあるもう一枚の襖を引く音が聞え、遅れて『トン』という閉まる音が奥から聞こえた。目の前の襖が開き、彩香が再び部屋に入ってくる。背を向けながら片手で襖を閉めると彩香は話を続けた。


「ねぇ、実歩は謙輔のことを異性としてどうなの?」


 謙輔が私のことを異性として、好きだというのは知っている。彼の常日頃のとても優しい態度や言動を見れば、誰だって分かるだろう。

 私はそんな彼の好意に甘え、今まで家族のような関係をずっと続けていた。その枠を決して越えたくなかった訳ではない。『その先に進むと何かが壊れるかもしれない』そんな漠然とした不安が少しはあったが、単純にその関係がとても居心地良く、甘えていた。謙輔が私のことを強く想ってくれているのなら、誰も私たちの間に踏み込んでこないだろうという過信もあった。なぜなら私への態度を見れば彼の想いは歴然で、誰でも躊躇するはずだからだ。

 小学生の頃、彩香が謙輔に好意を寄せていたのは何となく気付いていた。あれから大分時間も経っているというのに、まさかまだ謙輔のことが好きだとは驚きだ。しかもまさかこの機会に彩香が踏み込んでくるなんてーー。

 心の準備ができていなかった私は、彩香の質問に息が詰まった。


 『何をどう答えればいいのか……』


 彩香を見ると、今か今かと私が答えるのを待っている。


 『謙輔のことは好き』


 ただそれが異性としての『好き』なのか、今の私にはすぐに答えを出せない。もしかすると家族に向ける『好き』と同じなのかもしれない。こんな状況にもかかわらず、謙輔への想いをはっきりできない自分が本当に情けなかった。これは謙輔の想いに対して真剣に向き合ってこなかった私の罪だろう。


「謙輔……のことは好き。でもそれは……家族……のような感じ」


 私は喉に籠った言葉を搾りだすように言った。今、はっきりしている気持ちだけを。


「そう。それは異性として見ていないって解釈でいいよね? あぁ良かった、ありがとう」


 彩香は大きく息を吐き出すと、晴れ晴れとした表情で私に言った。それは先ほどまでと違って敵意に満ちた顔ではない。


 『ーー言ってしまった』


 私は寄せては返す後悔の波の中にいた。答えずにこの場を乗り切ることができたのではないか、今となって思い始めた。


「実はね、私、おとんから高校卒業したら結婚させるって言われてるんだ。まだ高校生なのによ? でも別に結婚するのは嫌じゃない。私が気になるのは、結婚が早過ぎるってのと相手が誰かってこと。まだ色んなことをしたいのにさ、18歳で結婚はちょっと早いかなって。あとは相手よ。ずっと女子校だったしさ、出会いがないわけよ。学校の外に出れば、そりゃあいっぱいいるけどさ、いい寄ってくる男はみんなチャラいのばかり。まぁ、私も似たような服装でいるから、そんな男ばかりが寄ってくるのもわかるんだけど。でも私がそういう服を着たいだけであって、付き合う男にはそんな服着てほしくないわけ」


 彩香は立って壁に寄りかかると、宙を見つめながら話しを続ける。


「だらしない男はもってのほかだし、お見合いも、出来れば自由恋愛の末の結婚がいいかなって。そんなとき謙輔から電話がかかってきたんだ。実歩の今回の招待状の件でね。本当にいいタイミングだった。謙輔がどんな男になっているのか見たかったから、電話ですぐに会う日を約束したよ。そうしたらカッコ良くなっててさ。初恋の相手にしかもこのタイミングで出会えるなんて、神様からのお告げかと思ったよ」


 『私のせいだ……私が自分で対応しなかったばかりに、謙輔と彩香が出会ってしまった』


 招待状の対応のみならず、謙輔への想いを整理せずに後回ししてきた自分を悔いた。謙輔に任せっきりにしていたツケが回ってきたのだ。


「私ね、実はもう謙輔に告白したの。彼なんて答えたと思う?」


 彼女の話を聞くのが嫌で、顔すらまともに見ることができない。早く終わってと願いながら、私は彩香の足元あたりを見つめる。


「実歩のことが好きだから今は無理だって。一途だよね、謙輔って。でもそういうところが、私の母性本能をくすぐるんだよね。昔から謙輔はあなたばかりを追いかけてきた。私も実歩を追いかけていた。地味な私から見たら実歩は何でも持っていたからね、本当に羨ましかった。一緒にいると、何だか自分にそのおこぼれを分けてもらっているような気がした。でも謙輔だけはそんなことは出来ない。半分こにできたらどれだけ良いか。私が出来るのはせめて、実歩と一緒にいることで謙輔とも一緒にいれる権利。知らないと思うけど、私、謙輔と2人だけで遊んだことなかったのよ? 本当に嫌だった。実歩に頼らないと何もない、謙輔とも一緒に遊ぶこともできない自分の不甲斐なさに……。でもまぁ、いいわ。結果的に謙輔とこんな形で出会うことができたんだから。本当にありがとう、感謝するよ」


 彩香は寄りかかっていた壁から離れると、襖に手を掛けた。


「あぁ、そうそう。だから私も高校卒業したら、2人の近くに引っ越そうと思ってるの。謙輔は近場の大学に行くっていうし、私も彼に会いたいしね。おとんも謙輔のことを話したら、卒業してからすぐの結婚は考え直してくれると言うから願ったり叶ったりね。これからも仲良くしましょ?」


 そう言い終わり、襖を開けて出ていった彩香が奥で誰かに声を掛けるのが聞こえた。その言葉に私は直感し、身体がびくっと震える。恐る恐る開いた襖から部屋の外を覗くと、そこに暗い表情した謙輔が立っていた。


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