第2-4

『ポコン、ポコン……』


 実歩が入れてくれたお茶を半分ぐらい飲んだ頃、部屋の入口の方向から木魚のような乾いた音が鳴った。


「はい、どうぞ」


 実歩が返事をすると、2つある襖の奥からガラガラと戸を引く音が聞こえた。また同じ音が聞こえたかと思うと、今度は襖を引く音が聞こえた。

 確実に迫ってくる音に、僕はちょっとした緊張を覚えた。ホテルに泊まる経験などこれまで生きてきて一度もなかったので、何がここに入ってくるのかと身構えていると目の前にある襖が動いた。

 襖が開くにつれ、次第に奥の様子が分かる。開ききったところで、ようやく入ってきていたのが2人の仲居さんだということが分かった。

 顔を見る限り、一人は50歳代の女性、もう一人は実歩と同じぐらいの年齢の女性で、2人とも正座をして姿を現した。


「この度は当店、月島ホテルをご利用して頂きありがとうございます。お客様の身の回りにつきましては、私 『由良 初(ゆら はじめ)』と、見習いではありますが『由良 瞳』が承ります。どうぞ宜しくお願い致します」


 初と名乗った女性は両手の指先を軽く床に付け、深く座礼をした。下げた頭の後ろから綺麗に結われた髪が現れ、淡い青い花の装飾品が見える。つられるように瞳と紹介された若い仲居も頭を下げる。初がゆっくりと顔を上げると、瞳も少し遅れて顔を上げた。2人は立ち上がって部屋の中に入ると再び正座をし、そっと襖を閉めた。


「本日は当店のご利用、誠にありがとうございます」


 初は僕たちに向かって会釈すると、にこやかに話を続けた。その横で瞳は、無表情でこちらを見ている。


「今日は暑いですね。ここまで遠かったでしょう」


 初の優しい口調と笑顔は僕に安心感を与え、それまで緊張していた心が一気にほぐれた。


「えぇ、本当に疲れました」


 実歩が答える。


「最寄りの月元駅から5つ隣の駅まで自然が続いていますからね。しかも駅からここまでの道のりも長いですから、ここに泊まられるお客様はみなさん、ホテルに着いた開口一番は『疲れた』の一言ですよ」


 おそらくどのお客にも話している常套句なのだろう。噛むことなくスラスラと言うと、初は話を続けた。


「5階には大浴場や露店風呂もありますので、是非、夜の宴会までにご利用して疲れを取ってください」

「宴会ですか?」


 実歩が少し驚いたように聞き返す。


「あら、フロントでお聞きになっていませんか? お客様はこのお部屋での食事ではなく、月引村元住民のみなさんが大広間に集まっての宴会となります。もし別々がよろしいのでしたら、そのようにも変更できますが」

「どうする? 顔見知りばかりだから僕は平気だけど」

「彩香が去り際に言っていた『今夜』ってこのことだったのね。いいんじゃない?」

「では、大広間の宴会でのお食事ということですね、かしこまりました」


 初は僕たちの横にある机のほうにちらっと目をやると、今度は瞳の方に顔を半分向け何やら小さな声で囁いた。しかし瞳は初の声に気付く様子もなく、まだこちらをじっと見ている。いや、僕たちというより目線の先は、常に実歩にあるようだ。まるで品定めでもするかのように、実歩の顔をくまなく見ている。


「瞳?」


 初は真横で正座している瞳の太ももにそっと手を置くと、そのままトントンと軽く叩いた。しかし依然、初に気付くこともなく、瞳は実歩をじろじろ見ることを止めない。


「部屋に入って来てから、ずっと私の顔を見てらっしゃるけど……何か私の顔に付いているのかしら?」

「え? ずっとですか?」


 初は驚きのあまり勢いよく振り向き、実歩を見た。その顔は信じられないといった表情だ。

 『すみません、ちょっと失礼します』と初が言うと、両手を畳に付け正座をしながら瞳の方に身体を向けた。


「瞳、ジロジロお客様を見るなんて失礼でしょ? 今すぐやめなさい」


 初は叱るような口調で、瞳に向かって言った。すると糸でも切れたかのように実歩に向けられていた目が宙を泳ぐと、しばらくして初に留まった。その様子を見た初は、深く息を吐いた。


「すみません。この子、私の娘なんですが今日から現場研修なんです。ついさっきまでは大丈夫だったんですけど」


 初が苦笑を浮かべながら話す。その表情はショックのためか少し元気がないように見える。


「初日だから少し疲れたんじゃないですか? 私も疲れるとよく頭がぼーっとします」


 彼女にそれほどの非はない、というように実歩は笑顔で言ってみせた。


「ふふっ、そうかもしれませんね」


 実歩の言葉に安心したのか、初の表情に和らぎが戻る。


「では仕切り直しということで。瞳、和菓子のことお聞きしてくれる?」

「ワガシ?」


 この部屋に入ってきて初めて瞳が発した言葉は、まるで小さな子が母親の言葉を真似するかのような辿々しいものであった。


「午前中までやってたでしょ? ほら、机の上のお菓子の確認」


 呆れたように初は、顔をしかめて言った。それを聞いてもなお、瞳は机の上をじろじろ見て『うーん』と唸るだけだ。


「机のお菓子がどうかしたんですか?」


 瞳の反応の悪さに痺れを切らした僕は初に聞いた。


「えぇ、机の上の和菓子がもう切らしているようなので、ご所望あれば補充できますがいかがしましょうか?」

 机のお菓子……あぁ、部屋に入るや否や実歩が怒りに任せてバクバク食べていたお菓子のことか。言われてみれば、僕は一切食べていない。


「じゃあお願いします。実はまだ一口も食べていなくて。実歩が、彼女が一人で全部食べてしまって」

「まぁ」


 初は僕たちに見えないように手で口元を隠すと、慎ましく笑った。

 初の表情が元に戻ったことで『場が和んで良かった』と思ったが、すぐに正直に言ってしまったことを後悔した。怒りの導火線に火を付けてしまったようで、僕の背後から恐ろしいほど強い殺気を感じた。


「ちょっと! 人をカバみたいに言わないでくれるかしら。私は疲れていたの。あんな狭いタクシーの後ろで、しかもあの臭い中。あなたは広かったから平気だったかもしれないけど、私はストレスで気が狂いそうだったわ。だから多少多めにお菓子で気分転換してもいいじゃない。少しはこっちの立場も理解して頂けるかしら?」


 やや喧嘩口調で矢継ぎ早に言われ、部屋の中の雰囲気が一気に凍り付いた。すると突然、


「みほ……あなた実歩って言う名前?」


 場の雰囲気などどこ吹く風で瞳が言った。


「瞳、さっき伝えたでしょ? ここのお客様のこと」


 初は困惑した様子で、すぐに瞳の話を遮った。しかし初の言葉など無視するかのように瞳は実歩に質問を続ける。


「実歩ちゃんの苗字はなに?」

「『ながと』よ。長門実歩」

「ながと、みほ」


 名前を一文字一文字確認するように辿々しく言うと、瞳はニィと口角を上げてそれまで無表情だった顔が笑顔になった。


「あぁ、長門実歩ちゃん! 良かった、会えて。明日、月引村に行くでしょ? 鉱山に行って。お願い」

「ちょっと瞳っ! お客様になんてことを言ってるの!」


 客への態度に初は焦ったのか、怒って強い口調で瞳を注意した。その迫力に押され、部屋は静まり返り、僕のみならず先ほどまで怒っていた実歩も意気消沈だ。初はキッとした鋭い睨みを利かすが、当の本人は一切気にしていない様子だ。


「えっと……鉱山? 何があるの?」


 重い空気の中、『瞳の言葉なんか気にしていないよ』といった態度で初に気兼ねしながら、実歩は瞳に聞いた。


「最高なものよ。じゃ、お願いね」


『え?』


 おそらくその場にいた3人とも口には出さずとも、心の内でそんな声が出たであろう。自分の話したいことをすべて伝え終えたのか、瞳は立ち上がって帰ろうとしたのだ。仲居ともあろう者が接客など二の次だ。あまりにも度が過ぎた態度に、みな言葉を失った。

 しかし好き勝手に話してたそんな彼女だが、最後はすんなりと終えることはできなかった。瞳が立ち上がろうとした瞬間、バランスを崩して僕に向かって倒れてきたのだ。彼女を注意深く見ていた僕は、咄嗟に倒れてきた身体を受け止めた。


「大丈夫?」


 僕は懐に顔をうずめた瞳に声をかけた。しかし瞳はぴくりとも反応しない。彼女の表情を確認するため両肩を掴んでゆっくり押して引き離そうとしたとき、僕は彼女の異変に気が付いた。彼女の体が尋常じゃないほど柔らかく、そして一瞬触れた肌は鳥もちのように粘着力があったのだ。


『人間……だよな』


 僕は思わず彼女の全身を、首を伸ばして隅々まで見た。


「どうしたの?」

「え? あぁ……うん」


 そんな行動を不思議に思ったのか、実歩が僕に聞いてきた。


『人間の体の柔らかさじゃない』


 例え正直にそう答えたとしても、実歩は僕が言っていることを正確には理解できないだろう。僕はしっかりとは答えず、言葉を濁らせた。そうして僕と実歩がやり取りしている間に、瞳は意識を取り戻した。


「う……だいじょうぶ……」


 と、片言のように答えると、瞳はゆっくり目を見開いた。僕の両肩に掴まって立ち上がると、今にもまた倒れてしまうのではないかと不安になるぐらいフラフラしていて、どこかぼーっとしている。


「ちょっと瞳、大丈夫?」


 母親の初は立ち上がると、瞳に寄り添い心配そうに声をかけた。


「頭は強く打っていないと思うん……」

「ちゃんと教えたじゃない。立ち上がる時は注意してって」


 僕の言葉を遮り、初は瞳を叱った。


「お怪我はありませんか?」

「えぇ、まぁ大丈夫だと思います」


 初は瞳の顔を覗き込んだ後、心配してくれた実歩にそう答えた。とは言ってもこの状態の彼女をこのままにしておくのも危ないので、初は『瞳を休ませてくる』と言うと、ゆっくりとした足取りで部屋を出ていった。




「頭が痛いと言うので、休憩室で横にさせています」


 30分後、少し疲れた表情で戻ってきた初は僕たちに話した。


「普段はあんなぶっきらぼうに話すような子ではないんですよ。私に似て少しおっとりした性格というか……勤務初日に色々仕事を詰め込み過ぎたのかもしれません」


 そう言うと初は酷く疲れた様子で大きく溜息をついた。


「僕たちは気にしませんよ。だから仲居さんもお気になさらず」

「はい。ありがとうございます」


 初は正座をしながら、頭が畳に付くのかと思うぐらい両手三角で深々と頭を下げた。


「鉱山に行け……ってどういうことですかね」


 実歩がポツリと言った。


「さてねぇ、ちょっと分かりません。月引村の人間ではない瞳が鉱山の存在を知っていることに驚きました。あれも閉山して大分経ちますよね。私は、まぁそこそこの年齢にいっているので名前ぐらいは知ってはいましたが」


 初はそう答えると一呼吸置いて『遅くなりましたが』と前置きし、ホテル館内や食事の時間の説明に入った。


「それとお布団はいかがしましょうか? すぐ隣に敷いて良いですか?」


 『そうか、今夜は同じ部屋で寝るのか』と、急に降って湧いてきた事実に僕の心臓が大きく脈を打つ。


「はい。お願いします。後で適当に離しますから」

「承知しました。それではお客様の宴会中に部屋に入らせて頂き、ご準備しますのでご了承ください」


 一瞬、僕の顔を見てから答えた実歩に、僕は妙な苛立ちを覚えた。自分でもよく分からないが淡い期待を即座に挫かれてしまったのが内心、不満だったのかもしれない。

 説明を一通り終えると『では宴会までごゆっくり』と言って、初は部屋を出ていこうとした。部屋の外で正座をして襖を閉める最中に初は思い出したように言った。


「あぁ、そうそう忘れていました。佐山のことなんですけどね……あ、ここまでお客様をお連れした車の運転手のことなんですけど。お客様は以前、佐山にどこかでお会いしたことありますか? 先ほど瞳を休憩室で介抱しているときに佐山にも手を貸してもらっていたんですけど、その際、お客様の『長門様』の名前を言うと、どこかで聞いたことがあるなって」

「え、私ですか? うーん、ないと思います。記憶力は良い方なんで間違いないと思います」

「あぁ、そうですか。なら良かったです」

「良かった?」


 僕たち2人は、ほぼ同時に声を合わせて言った。


「ふふっ、いえ。本人はね、『確か大事なことだった』なんて大層なことを言うもんですから、念の為確認しようと思いましてね。ここ数年、佐山は酷く物忘れが増えまして、もしかすると認知症じゃないかって自分で言うんですよ。この間もお客様がお泊りになる和室にどこから拾ってきたのか、バックやら服なんかを持ち運んできたんですよ。片付けたり警察に連絡したりともう大変でした。本人に至っては何も覚えていないんですけどね」

「はぁ」


 炭酸飲料のペットボトルの蓋を開けた時の音のような、気の抜けた相づちを僕は打った。


「お互い知らないなら本人の思い過ごしでしょう。すみません、どうでもいい話で」

「いえ」


 実歩は軽く顔を横に振って、笑顔で答えた。


「では失礼致します」


 来た時と同じように目の前にある襖がゆっくりと閉まった。ごそごそと聞こえていたすぐ近くの物音はしばらくして、玄関の格子状の引き戸が開いて閉まる音と同時に消えた。再び部屋に2人だけになると一気に静寂が押し寄せる。同時に僕の溜息の音だけが、静かな部屋の中で響いた。


「何よ、それ」


 これしきの事で緊張していた僕を実歩は嘲笑った。初さんの人柄が良いので緊張はなくなったと思っていたが、やはりどこか張り詰めたものがあったようだ。今はだいぶ心が楽だ。


「宴会だって。ちょっとワクワクするわね」


 実歩はそう言いながら、机の上に置いてあったホテル館内の案内パンフレットを適当にぺらぺらと見た。『あら』と言って実歩は、パンフレットの始めの方のページでめくるのを止めた。横から覗き込むと、そこにはタクシー運転していた佐山という男の写真が載っていた。大分前に撮った写真なのだろう。今より大分若く、痩せている。『佐山幸月』という名前の下に支配人の肩書が記されている。


「へぇ、あの人ここの支配人だって、驚きだわ。あの日焼け具合なら、どちらかと言えばキコリさんだけどね」


 確かに支配人といえば、ホテルで仕事を仕切っているイメージだ。外に出るなんてことはあまりないだろうから、あの日焼けはタクシーの仕事によるものだろうか。それにしてもこの男……以前どこかで会ったような気がーー。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る