第2-3
佐山に礼を言うと、僕は実歩を追いかけホテルの中へ入った。
玄関のすぐ右手側に2つの四角いガラス製テーブルが置かれ、それを挟むように洋風で花柄の椅子が8つ並べられている。ホテルの玄関口に一番近い椅子に、実歩は座っていた。僕を見つけると開口一番に、
「遅い! 何してたのよ」
と、威圧的に食ってかかってきた。僕はお嬢様の怒りを沈めるべく、先ほど佐山から聞いた話を実歩に伝え、彼女の誤解を解いてやった。それでもなおご機嫌斜めが治らない彼女に別の話題を振って気を紛らわせようとしていると突然、ロビーの奥から聞き慣れた声が僕たちに向かって飛んできた。
「やっほー、元気かい? 彩香だよ」
声がした方向を見ると、淡い青色のスーツ姿で身を包んだ彩香がこちらに向かって歩いてきた。
「え? 彩香なの?」
「変わってないねー、実歩。遠くからでもあんたの声は分ったよ」
「見違えたわね。あの小柄だった子が」
彩香の頭から足のつま先まで、実歩はじろりと見た。
「小学生だったんだから、当たり前じゃない」
「ううん、あなたはさらに周りの子たちよりもちんちくりんだったわ。奇麗に正装しているけど、まさかお手伝い?」
「うん、うちの事務所のバイト。さらにこれを手伝ったらこれまでのバイト代もはずむっておとんが言うからさ」
まるでスーパーで配られる割引券のようだ。初回は値段の良さに飛びつき、2回目以降はさらに割引券で安くなる。一度、はまると抜けられない無限ループだ。おそらくこの次に控えているバイトもあるのだろう、おとん恐るべしだ。
「案内係も楽じゃないよ。外見だけで参加者かどうか判断しないといけないんだから。まぁ、何となく分かるようになってきたけど。あ、それじゃあホテルの受付とは別で、あそこに今回のイベント用の受付やってるから忘れずにね。じゃあまた今夜」
そう言って、彩香は玄関口から新たに入ってきた老夫婦のお客さんに話しかけに行った。
突然、実歩が僕の背負っているリュックサックに平手を力強く叩きつける。
「男って嫌ね、色気のある女がいるとそっちばかり見て。いつまで見てるんですか?」
実歩に言われてはじめて、自分が彩香を目で追っていたことに気付く。
「謙輔はまだ若いから、あぁいう色気ムンムン女には耐性ないもんね」
若いとは言うが『実歩とは1歳しか違わないだろ』と内心思った。そう言う実歩も僕と同じで、きっと大人の男には耐性がないはずだ。ということは、実歩も僕と同じように色気のある男に出会うと、こんなにも心がドキドキするものなんだろうか?
そんな実歩を想像するだけで胸が張り裂けそうな想いになり、思わずこのホテルから飛び出して叫びたくなった。さらに先日、彩香と電話した時のことが、追い打ちをかけるかのようにふと頭をよぎる。
『来年、実歩は二十歳になるのよ? 立派な成人、いつ結婚してもおかしくないの』
大きな不安と混乱に見舞われた僕は正常に立つことすら苦しく、思わず横にあった待合席の椅子の背もたれを掴んだ。
「どうしたの? 少し顔色が悪い。早く受付を済ませて、部屋で休憩したほうがいいわ」
実歩は僕の額に軽く手をあて熱がないことを確認すると、寄り添って僕が歩くのを支えた。普段は実歩の方から僕に対して積極的に何かをしてくれることはないのだが、僕の体調が優れないときはこうして優しく気遣ってくれる。そんな彼女の優しい態度に、僕は感無量となって思わず泣き出しそうになった。ただ彼女の前でそんな姿を晒すのは、僕の男としてのプライドが許さなかったので、彼女から顔を背けながらゆっくりとした足取りでホテルの受付に向かった。
「どういうことよ、これは」
部屋に置いてあるサービスの和菓子を食べながら実歩は怒っていた。これは僕と実歩の宿泊する部屋が別々でないことに、だ。来年、二十歳となる娘が馴染みの相手とは言え、一歳違いの男と一晩同じ部屋で過ごすというのは、彼女の倫理に反することなのだろう。受付時からずっと不満たらたらの実歩は、収まらない怒りを和菓子に対してぶつけていた。力強くちぎられた最中は、その際に細かく皮が剥がれテーブルの上に頼りなく飛び落ちた。
「いくら広いからってね、許されないわ。こういうところよね、あの人を好かない理由は」
実歩と一緒に参加することを裕二さんからお願いされたあの晩、帰る間際に言い残していった言葉を思い出した。
『今回の件は私がお願いしたことだから、宿泊費は私が出すよ。お父さんには私の方から伝えておく。部屋は喧嘩しないよう適度なものを予約しておくから。急に予定を変更した私のせめてもの罪滅ぼしだ』
『喧嘩にならないようお互いの部屋の豪華さは同じにする』とあの時、そう解釈していたのだがまさかこういう事だったとは。
「そんなに嫌なら受付の人が言った提案を受けたらよかったのに」
「嫌。こんなに広い部屋に一人だなんて、もっと嫌」
出口のない怒りの迷路にハマっているようなもので、おそらくどんな提案も今の彼女なら却下するに違いない。同室に驚いた実歩に受付の人が気を利かせ、少額の追加料金だけでワンランク上の別の空き部屋に変更できることを提示してきたのだが、実歩はお金がかかるという理由で断った。しかしたった今の話だと部屋に1人でいるのが嫌だと言うのだから、きっと無料でも同じなのだろう。
「折角、良いホテルなのにあの人のせいで気分が台無しだわ。あぁ、何だが少し疲れた」
実歩は木製の座椅子から滑るように横向きにバタンと倒れ、そのまま仰向けとなって深く息を吐いた。
「あぁ、疲れた。もう家に帰ろうかしら」
僕は彼女を見下ろしながら倒れた横を抜けると、部屋の奥にある障子の敷居を越え広縁の窓を開けた。窓から外を見下ろすと、丁度さっき入ってきたホテルの入口が真下に見える。目の前にある道路を横切って超えるとこのホテル専用の駐車場があり、さらに超えると月元駅周辺の森を一望することできた。断崖の上に建てられたこのホテルからの景色は、とても爽快なものだった。
広大な森に蛇のように続く緑の切れ目は、僕たちが通ってきた道なのかもしれない。そんなことを考えながら、僕は大きく深呼吸した。突然ここに現れたわけでもなく、それどころか途中まで歩いてきたのだから、よく言われる空気の美味さなんてものは微塵も分らなかった。
月引村にいたときはこれが日常であった。常にすぐ近くに広大な森が存在し、澄んだ大きな川もあった。自然のすぐ近くで生活していたので、当然のように山菜やキノコ、魚などの自然の恵みを享受していた。子供だけで山や川に入ることは禁止されていたので、その際は必ず大人が一緒になって行動していた。都会では到底経験できるものではない。目の前の壮大な風景を見ながら、自然の中で生きる厳しさのようなものを思い出していると、ようやく故郷に帰ってきたことを実感した。
「やっぱり、ここが好きなんだな」
心が緩んで思わず洩らしてしまった言葉を、実歩は聞き逃さなかった。
「だめよ、私たちの生活はここにはもうないの。都会の生活に慣れないと」
実歩は突き放すように言った。振り返って見ると、実歩はまだ仰向けになっている。
「うん……」
僕の返事は、一言のみ終わった。その返事の後に何か言葉を続けようと思ったが何も出なかった。それは彼女が僕をよく理解していて、特に言葉を付け足す必要がなかったからだ。実歩の言葉は厳しいものだが、僕は素直に受け入れた。
都会での生活に今でも慣れない僕は、時折、学校での人間関係の相談を実歩にする。人付き合いが悪い僕なので、学校のような狭いコミュニティでも友達はいない。いや、もしかすると友達と言ってくれる同級生はいるかもしれないが、実歩のような心を解放できる相手は僕にはいない、と思っている。だから人間関係を相談するといっても、関係を築いている同級生がいるわけではないので、自身に関係する話ではない。
相談の多くは、同級生が話している聞きたくもない他人の悩み事や芸能人の時事ネタだったりする。初めはそんなどうでもいいことをどうしたら聞かなくて済むのか、そんな相談だった気がする。それがいつの間にか、同級生の話を実歩に伝える伝書バトとなっていた。そのせいかクラスメートでもないのに、実歩のほうがよく人物相関図を理解していることが多かった。
『へぇ。ということは、和美は2つの三角関係を抱えているのね』
とうの昔に話し忘れてしまった本人を前に、実歩はちりちりとなった情報をパズルのピースのようにハメて、完成した相関図を僕によく披露してくれる。テレビドラマの話をするかのように、和美とこの男がくっついたらいいのに、こっちは離れるべきよ、と楽しそうに今後の展開を話す。そして時々思い出したように、どの相関図にも僕がいつも含まれていないことを嘆き、度々僕に説法する。
『あなたが都会の人間を好んでいないのは知っているわ。でもね、村にもう戻れない以上、村の外での生き方に順応しないといけないの。人付き合いが悪いって勝手に自分で型にはめて、誰とも繋がらないで一人で生きていくつもり? 村にいたとき、そんなことなかったわよね? 村と都会、人間関係の性質が異なっていて私も戸惑ったし、今でも付き合い方に悩むことがあるわ。でもね、私は、逃げたりしない。お願いだから逃げないで』
毎回似た内容だが、聞くたびに僕の心は折れた。実歩の言っていることは正しいし、十分に理解していているからだ。ただそうは言っても、全く性格を知らない、共通の話題がない同級生と何を話せばいいというのだ。
『私と話しているように話せばいいの』
実歩は簡単に言うが、それは昔からずっと一緒にいて、彼女が何が好きで、何をすると楽しんでもらえるのか、それを知っているからだ。だから僕も安心して実歩に対して会話ができる。相手を知るために会話をする。これが世の常だと思うが、それが僕にはできなかった。
彼女との会話を思い出しながらぼんやり外を眺めていると、
「ねぇ、座ったら? 部屋に入ってきてリュックを置いてから、ずっと立ったままだけど」
と、後ろから実歩が声をかけてきた。再び振り返って実歩の方を見てみると、だらけていたのが嘘かのように、きちんと座椅子に座り直してお茶を注いでいるところであった。
「どうぞ、熱いから気を付けて」
実歩は入れたお茶を机上で滑らせて、隣の座椅子の前に置いた。僕は開けた窓と障子を閉めると、言われるがまま実歩の隣に座った。
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