第2-2

「いやー悪い悪い、またなんだよ。気づいたらさぁ、目の前に月引村があんだよ。こりゃぁ、びっくりだよ。わはっはっは」


 山の道路脇に申し訳ない程度に設置された小さな休憩場所がある。車2台がやっと駐車できるスペースと自販機1台が設置されていて、それ以外に周囲には何もなく、そこに一台の車とスーツ姿の1人の男が立っていた。


「いやぁ、そんなに多くないよ。まだ3回目ぐらいだろぉ? あぁ、うん」


『月下ホテル』


 車体に大きくそう印された黒い軽自動車の横で、熊のような身体をした男が大きな声で携帯電話を持って話をしている。その声は山の斜面に反射し、隣の山まで届くほどだ。


「あー、うんうん。あぁ、またかよっ! 何なんだろうなぁ本当に」


 男は一瞬驚き、声を張り上げる。その拍子に湧き出た変な汗が、男を不快にさせた。アスファルトから発せられる熱気も相まって、額から大量の汗が滲み出る。

 男は器用に頬と肩に携帯電話を挟むと、お尻のポケットから財布を取り出し、自販機からコーヒーを買った。


「熱っ! うぁっ!」


 コーヒーを手に取った瞬間、驚いた男の肩から携帯電話がするっと抜け落ちる。しかし大きな身体に似つかわない機敏な動きで掴み取ると、再び携帯電話を耳にあてた。相手の女性の様子が怒り口調に変わっていたが、男は気にも留めず今起こった事をおどけて言ってみせた。


「はっはっはっ、いやぁ聞いてよ。今さ、コーヒー買ったら『ホット』なんだよ。こんな暑い日にだよ。思わずびっくりしてさ、携帯を落っことしてしまいそうだったよ。それでさ……」

 

 陽気な男とは反対に、電話相手の女性は酷く怒っている。携帯電話から数メートル離れた先までその声が届くが、幸いなことに周囲には誰もおらず会話を聞く者はいない。自分の話をして満足すると、ようやく男は電話相手が怒っていることに気づく。


「んぁ? 悪い。ちょっとなぁ……話し過ぎた」


 延々と聞こえてくる小言から気を紛らわすために、男は通話のまま携帯電話を上着のポケットに入れると、缶コーヒーを開け一口飲んだ。乾いた口の中に後から甘い味が広がる。

 身体が求めていたのだろうか? いつもより体全体に甘さが染み渡るのを男は感じた。『そういえば朝から何も食べていないな』と男はふと気づく。


「なぁ由良さん、昨晩余った料理はまだあったかい?」


 男はポケットから再び携帯電話を取り出すと、まだ怒っている由良と呼ばれる女性に聞いた。由良は突拍子もない男の質問にさらなる怒りを覚えたが、今日日の暑さと男の相変わらずな態度で相手するのも面倒くさくなり、昨夜残った料理を適当に答えた。


「おぉ、ラッキーだな」


 男は由良の返事を聞くやいなや電話を切ると、急いで車に乗り込んだ。するとミラー越しに若い男女がこちらに歩いて来ることに気付く。


「あっらー、珍しいな。若いもんがこんなところで」


 男は車の窓から顔を出すと、物珍しい目つきで2人に話しかけた。






 男の身体が大きいためか車窓の枠が酷く小さく見え、その姿はまるで檻に捕らわれた熊のようだ。微かに窓枠から見えるスーツの胸ポケットの名札には『佐山 幸月』と書かれている。実歩は僕を横目で見ながら、袖を軽くクイクイと引っ張った。


「あの、すみません」


 極度の人見知りの僕だが、時折こうやって実歩からの無言の圧力に屈して誰かに話しかける。実歩曰く、『あなたのため』らしい。実歩とのデート(彼女はそう思っていないかもしれないが)は手放しで喜ぶが、こういう試練がたまに喫茶店などであるので、どこかのお店に入るときは緊張する。


「あの……タクシーに乗ることは出来ますか? 月引村までお願いしたいんですが……あ、じゃなくてホテルで……」


 佐山の威圧感ある体躯を見たため、その緊張からいつにも増して自分の胸の鼓動を感じる。


「月引村……あぁそうか。あんたらも元住民かぁ。いいよ乗ってきな」


 そう言うと佐山はニヤッと笑って、後部座席を親指で差し、僕たちに乗るよう促した。


「背中の荷物が重いなら、車の後ろに積むけどどうする?」

「あ、いいです。自分たちで持ちます」

「あぁそうか、わかった。悪いけど自分でドア開けて乗ってくれるかい? 見ての通りこの図体だからさ、乗るのも降りるのも一苦労だ。この間なんか、車に弁当を持ち込んで食べたら、今度は車から出るに出られなくなってよ。丁度、俺と車の開口部のサイズが弁当一個分ってことなんだろうけどなぁ」


 佐山の話の切りが良いところで僕は後部扉を開けると、車内を確認せずに実歩を先に乗せた。するとなぜか直ぐに実歩は四つん這いとなって、無言で車から出てこようとしてきた。

 不思議に思った僕は彼女が座ろうとする後部座席を確認する。どうやら佐山の運転座席が後ろのほうまでスライドしているため、後部座席が窮屈な状態のようだ。

 前の助手席に座れたらと思い覗いてはみたものの、多くの物が散乱しておりとても人が乗れる状態ではない。僕は仕方がないと思い、後退する実歩を自分の体を使って遮ると、そのまま実歩を車内の奥へと押し込んだ。


「ちょっとぉ!」


 実歩が変わった声質で返答する。不思議に思った僕は、実歩の顔を見るとなぜか片手で自分の鼻を摘まんでいた。


「どうしたの? 早く座りなよ。助手席も空いてないみたいだから我慢するしかないよ」

「違ふの! ここ、くはい(臭い)の!」


 車内に顔を入れて嗅ぐと、実歩が言うように確かに臭い。


「仕方ないよ。それで我慢して?」


 僕は抵抗する実歩を、強引に車の奥まで押し込んで座わると扉を閉めた。一気に空気が籠もり、臭いがさらに濃くなって鼻の奥を刺激する。僕も思わず鼻を摘んだ。その横で鼻を摘んだ実歩が不貞腐れ、僕の顔をじっと睨んでいる。すると、実歩がそっと僕の鼻を摘んだ手首を掴んだかと思うと、力強く下に引っ張った。摘まんだ指が鼻から外れ、僕の鼻にきつい臭いが流れ込んでくる。


「うっ!」


 手を戻そうとすると、実歩が僕の手の行く先を拒む。


「バツよ」


 実歩はまだじっと僕の顔を睨んでいる。埒が明かないと思い、前座席との間で窮屈そうにしている実歩からリュックサックを引き取ると、自分の膝の上にある荷物に重ねた。これで窮屈な後部座席も多少マシになったことだろう。この人質交換に満足したのか、『ふん!』と実歩は鼻を鳴らすと鋭い視線を僕に向けることはなくなった。


「準備はOKかい?」


 佐山は後部座席で行われていた小さな闘争のことなど知る由もなく、僕たちに発車の確認をする。


「はい、お願いします」

「すまんね、こんな暑い車で。エアコンが壊れているから、窓全開で我慢してくれ」


 佐山はエンジンをかけ、遠隔で後部座席の窓を開けると車が動き出した。淀んだ空気に流れが生まれ、臭いが少しマシになったような気がする。そのことを実歩に小さな声で伝えたが断固として鼻から指を離すことはなく、運転席の背面を睨むように座っている。


「今日は朝から月引村のお客さんばかりだ。明日はみんなでダムになった村に行くんだってな」

「はい」

「参加するのは年配ばかりって話を聞いてっから、あんたら若いもんにあんな所で出会えたのには驚いたぜ。ホテルまで歩こうとしてたのか?」

「えぇ、まぁ」

「元気だねぇ。まぁ歩けない距離でもないが、坂道が多いから普段歩き慣れてねぇと辛いかもな。ここに戻って来たのは久しぶりかい?」

「はい。9年ぶりになります」

「そうかい。それじゃあラッキーだったなぁ、この車を見つけて」

「え、どういうことですか?」

「前は歩ける距離だったかもしれないが、この辺りは開発が進んでっから、大分その頃と道が所々変わっていてねぇ。歩いたことはないが月引村までは当時からプラス30分ってところだろ。ましてやホテルはそこから更に距離があるから、今の時間だと着く頃には辺りはもう真っ暗だっただろうな」


 何て運が良かったのだろう。あのまま歩き続けていたらホテルに着く前に、疲労から二人で大喧嘩をしてきっと現地解散していたに違いない。この『徒歩案』の言い出しっぺである実歩の方をちらっと見ると、いつの間にか鼻から手を離し、窓から外を眺めては『わー、涼しい』と白々しく言ってみせ、車内の会話などお構いなしだ。そんな態度に少しカチンときた僕は普段やられる側だったので、ここぞとばかりに彼女を追及することにした。


「実歩」


 僕の呼びかけに反応せず、外を眺め続けている。実歩とは長年の付き合いだ。これは気付いていないのではなく、気付かないふりをしていることは明白であった。


「実歩、無視しないでこっち見て」


 観念し実歩は、渋々こちらに向いた。


「もうなによ、人が楽しんでるときに」

「聞いていたでしょ? ホテルまで歩いたら物凄く時間がかかったんだって」

「そうみたいね。タクシーが運良くあって本当に良かったわ」

「この『徒歩で行く』と言ったのは誰だった?」

「何よ? 私が悪いと言いたいわけ? 普段、運動不足な謙輔を思って……まぁ私もだけど、歩いたほうが健康的で良いかと思っただけよ。そんな気遣う想いを踏みにじるわけ?」


 駄目だ……やはり口では到底かなう相手ではない。人の善意を前面に出す実歩を論破する力は僕にはなかった。


「いや……ごめん、そうだね。うん……」


 早々に僕が謝って幕引きを図ったが後味の悪い結果となり、その後僕たちの間に沈黙が続いた。


「ほい、着いたよ」


 数分後、タクシーはホテルに到着した。同時に佐山が重苦しい雰囲気の中にいる僕たちに到着を知らせた。


「お代は?」

「あぁ、いらないよ。うちのホテル宿泊者は無料だ」

「ホテルの方だったんですか? でも車にタクシーって」

「この車は俺個人でやってる兼業のタクシーだ。まぁ小遣い稼ぎだな。本業はここのホテルの仕事だ」

「そうでしたか。ありがとうございます」

「あぁ」


 僕は後部座席の扉を開け、車の外に出た。車はホテルのすぐ目の前に着けられていて、一歩敷地内に踏み入ると、そこには和風の世界が広がっていた。地面には白く綺麗な砂利が広く敷き詰められ、その左右の脇には庭園に負けず劣らず和風を醸し出す立派な木々が並び立っている。正面には大きな軒付きの玄関が構え、軒を支える柱の前に『月下ホテル』と書かれた看板が置かれているのが見える。木造3階建てのその外観は、白色を基調とした壁と屋根には黒い瓦が使用され、ホテルというより如何にも僕の中にある『昔ながらの旅館』のイメージそのものであった。

 厳かな構えの雰囲気に、僕は自分の身の丈に合っていないような気がして、本当にここに泊まっていいのかと戸惑った。

 僕は振り返り、実歩に向かって手を差し出した。しかし実歩はこちらに見向きもせずに動こうとしない。彼女の顔を見るとムスッとした表情で、まだ先ほどの出来事をまだ怒っている様子だ。


「実歩……さん?」


 僕の声に微動だにしない。だんまりを決め込んだ彼女を動かすのは、経験上骨が折れる。長丁場を覚悟し『さてどうしたものか』と考えを巡らせようとしたとき、僕たちのやり取りを見ていた佐山が実歩に話しかけた。


「車に乗るときに話したこと覚えているかい? 弁当食べたら車から出られなくなった話。どうやって出たのかまだ話してなかったな。弁当食べた後、実は無性に腹が痛くなってな。しかしトイレに行こうにも車から出られない。腹が痛いし、車内は暑いわで頭が朦朧としてきてね。その時丁度、車内にあったコンビニの袋と使い捨てお手拭きが目に入ったわけよ。どうしたと思う?」


 実歩の顔を見ると何かを察したのか、みるみるうちに青白くなっていくのが分かった。


「出したのさ、ぱぁぁっとね。するとほら不思議、先ほどまでつっかえていた腹が簡単にスルッと通れて一件落着」

「におい……」


 実歩は震える声で小さく言った。


「臭い? あぁこの臭いか。すまんね、少し臭かったか。まだそのときの『物』を片づけてなかったかもな」


 佐山がそう言った瞬間、悲鳴を挙げながら実歩は車外へ飛び出し、そのまま振り返ることもなくホテルの中へと走っていった。


「あははっ、元気がいいねぇ」


 実歩の姿を見て佐山は大笑いした。


「それ本当ですか?」


 確かに車内には酷い臭いが充満していたが、人の『それ』ではないことを僕は分かっていた。


「冗談さ、さすがの俺も車内で出来るほど身軽ではないさ」

「どうやって車から出たんですか?」

「出したのは糞ではなく汗だ。30分ほど車内で唸っていたら、大量の汗をかいてね。そのためか車から出れるようになったんだ。急いでトイレに駆け込んださ。これを機に食生活を見直すことを考えたよ。しばらくは車内で弁当を食べるのは止めようってな」


 そんなんじゃなく、食べる量をもっと減らすべきだろう。どうしたらここまで太れるのか。きっと弁当は2、3つ食べているに違いない。


「それじゃあ、この臭いは?」

「あぁ、この臭いね。昨晩のことは俺もよく覚えていないが、おそらく酔っぱらてドブにでも落ちたんだろう。早く着替えて、風呂でも入りたいよ」


 言われてみればドブの臭いだ。しかしこの臭いに混じって花のような香りもする。この香り……僕もどこかでーー。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る