第2-1
「んん、久しぶりね。ここも」
実歩は駅の改札口を出ると、大きく深呼吸をして背伸びをした。
「うーん、懐かしい匂い。ね、謙輔」
電車から屋根のないホームに降りると、すぐ近くに駅舎とその前には改札口が1つだけ設置されていた。改札口を通って駅舎の中に足を踏み入れると、そこすべてが待合室になっており長椅子が壁に沿って並んでいる。人の出入りがほとんどないためか、空気が淀み木の古めかしい匂いが充満していた。都会の駅と違って小さく作られたその駅は、改札口からたった数歩で駅の外に出ることができる。
玄関口から駅舎の外に出た僕は、振り返って駅正面を見た。木造で建てられた駅舎の柱には、錆びた駅名板が打ち付けられていた。
『月元駅』
小高い山の麓に位置しているこの駅の周辺は、全くと言っていいほど整備がされておらず、鬱蒼とする木々とともに背の高い雑草が茂っている。駅前には小さなロータリーとそれに接して軽自動車二台が通れる道が一本通っている。
僕たちがいた頃は、月元駅は小さな駅ではあったが人が集まると自然と会話が生まれる暖かい空間であった。しかし今では随分と寂れてしまった。利用者の減少により列車本数が減便され、今では一日数本しか停まらない。昔いた働いているのか働いていないのかよくわからないお地蔵さんのような駅員も、今では切符の回収ボックスに取って代わってしまいただの無人駅となっている。
「あれからもう9年か」
「そうね」
僕の呟いた言葉に、実歩は優しく応える。
故郷の村周辺には何も無いので、高校生ぐらいの村の若者たちは自転車でここまで移動し、ここから電車に乗っては隣街までよく遠征していたものだ。その頃、小学生だった僕たちが今では彼らと同じ歳になったと思うと、時間の流れがいかに早いか感慨深いものがある。
「えっと、バス停は確か前の道を右に曲がったところだったかな?」
僕は小さい頃の記憶を頼りに、木々で囲まれたロータリーから外に出ると言った先を見た。
10mほど先に棒状のものが自由奔放に伸びた木々に背中を押され、傾きながら立っているのが見える。近づくと白い塗装が剝がれ落ち、所々錆びてボロボロになってはいたが、時刻表が貼り付けてあったのでそれがバス停であることはすぐに分かった。
「正解」
後ろから付いて来ていたことに気付いていなかった僕は、突然の実歩の声にびくっとなった。思いもしなかった僕の反応を見れたためか、実歩は軽く笑う。
僕はぶかぶかの腕時計で時間を確認した後、バス停に貼ってある時刻表を見た。
「時間は……40分後か。まだあるけど、どうする?」
僕は少し汗ばんだシャツの襟を掴んで、パタパタしながら実歩に聞いた。
「うーん、そうね……」
実歩は少し考える素振りを見せると、何かに気が付いてバス停の時刻表の下を指さした。
「こんなのもあるみたいね」
見ると『タクシーをご利用の方は、こちらまで090……』と電話番号が書かれている。
「でもお金がもったいないか」
自分で言っておきながらすぐ却下すると、この後実歩は僕が思いもよらない提案をしてきた。
「久しぶりに来たんだし、道中を懐かしみながら歩くってのはどう?」
「ふえっ!?」
驚きのあまり僕はまるでカエルを押しつぶしたような変な声を出してしまった。ここから故郷の村までの距離は3kmほどで、今より若かった頃は徒歩で移動することもあったので現実的に無理な話ではない。しかし田舎から離れ、都会の十分すぎる利便性を謳歌していた僕は、思わず拒否反応が出てしまった。
「たまには体を動かしなさいよ、この軟弱者」
そんな僕の反応を見た実歩は呆れながら言った。普段は引き籠りがちで家の外に出たがらない実歩だが、どうやらここでは立場は逆のようだ。嫌な記憶を掘り起こしてしまうかもしれないと憂慮し月引村に来たことを不安に思っていたが、憑き物が取れたような明るい表情を見ると来て良かったのかもしれない。
「さぁ、行くよ」
実歩の元気な号令とともに、僕は重い足を村に向かわせた。
「ねぇ、最近その時計してるよね。どうして?」
くねくねとした道なりに沿って歩きながら、実歩は言った。
「どうしてって……家にあったから、僕が付けてるだけだよ」
「へぇ、お父さんが買ってきたの?」
「多分ね、僕は買ってないし。一応、父さんに聞くと使っていいって言うから」
「ふーん」
横で歩く僕の位置からだと、彼女の横顔だけが見える。人の表情に出る気持ちなんてものは、顔全体を見れてこそようやく読み取れるものだ。僕のほうに向くこともなく、前を真っすぐ見据えた彼女の気の抜けた返事は、少量の不安を搔き立てた。
声から判断すると彼女はもうすでに疲労を感じているのではないかと僕は疑った。まだ1kmほどしか進んでいないが、普段あまり出歩かない彼女にとってはジムでトレーニングをしているようなものだろう。
誰だってそうだと思うが、疲れてくると人の怒りの臨界点は下がる。普段は優しく、今の今まで楽しく話していたのに、普段なら何でもない言葉やしぐさであってもこのときは簡単に火が付く。それどころか油をまいたように、過剰なまでに反応を示す。これは実歩で覚えた経験則だ。元気がなかったり、体がだるそうにしていたのなら要注意だ。それが今なのかと僕は注意を張った。
「休憩する? 疲れてない?」
僕は実歩の反応を見るため、当たり障りのない言葉で聞いた。
「ううん、大丈夫よ。疲れて見える?」
「さっき、上の空のような気がしたから」
『あぁ』と実歩は吹き出して笑って言うと、
「この道と勝負してたの。さっきから上ったと思うと今度は下がったりして意地悪するもんだから、絶対に負けるかーってね」
いつの間にか僕の横で、道路と実歩の試合が始まっていたようだ。僕との口論では負け知らずの彼女だが、果たしてこの癖のあるアスファルトの道路に対してはどうだろうか。勝負に負けて地べたに這いつくばって弱音を吐く、そんな彼女の姿を見てみたいような気もした。
道路を密かに応援しながら先に目をやると大きなカーブがあり、突き出た山の斜面がその先の光景を塞いでいる。時計を見ると出発してから15分が経っている。この調子だとあと30分程かかるだろう。先の見えない光景と費やす時間が、僕の不安を煽る。何より自分自身の体力に自信がなかった。
実歩は元々活発で運動神経は良く、体力面においては申し分のない女の子だ。今は引き籠ってばかりいるから、多少、筋力や体力も落ちているかもしれない。だから始めに実歩が『歩く』と言ったときは何の冗談かと心配したが、この調子の彼女なら体が多少疲れても気合で何とか歩くことができるだろう。
却って僕だ。日常生活では僕のほうが歩いているというのに、情けないことにもう息が上がっている。都市の道と違って、山道には慣れない急な坂があって、ふくらはぎに重く負荷がかかる。
休憩の文字が脳裏を過ったとき、
「きゃっ!」
と、何もないアスファルトの上で実歩はつまずいた。前のめりになった彼女の腕を咄嗟に掴んで、彼女の前に割り込もうとした瞬間……自分の足がもつれ、実歩を引っ張り、道連れとなって道路に倒れこんだ。
『どさっ!』
「痛っ……」
思わず閉じた目を開けると、天地がひっくり返った光景が目に飛び込んできた。あり得ない光景に頭は混乱したが、現状を理解するのにそう時間はかからなかった。リュックサックを背中に担いだまま仰向けになって倒れ、それを支点にのけ反るような態勢になっていたのだ。
僕のお腹の上に何やらずっしりと重いものがあったので、顔だけを起こして自分の腹の辺りを見下ろすと、実歩が上に乗っていた。
「実歩、大丈夫?」
僕は実歩の両肩を軽く揺さぶった。
「う……ん」
実歩がゆっくりと目を開ける。
「怪我ない?」
実歩に聞くと、ゆっくりと僕の体の上から降りて地べたに座った。
「多分。謙輔は?」
重力に逆らって起こしていた首が疲れたので、僕はまた倒れたときと同じ態勢に戻った。裏返しになったカメのように、ひっくり返った世界を眺めながら怪我はないかと全身の感覚を研ぎ澄ます。
「うん……怪我は、あっ!」
「え? どうしたの、怪我?」
実歩は驚くと、手を地面について僕の顔を覗き込んだ。
「あ、いや……怪我はないと思う。背中のリュックがクッションになってくれたみたいだから」
「そう……良かった」
僕は横に転がって体を起こして立ち上がると、実歩の前に手を出した。
「どうぞ、手を貸すよ」
『ありがとう』と実歩は言って僕の手を掴み、立ち上がった。体に着いたアスファルトの埃をパンパンと払いながら全身をチェックしたが、お互いどこも何もなかったようだ。
「良かった。こんなところで怪我なんかしたら、この先ずっと気分が落ち込んだままだったわ」
「ごめん、僕が慣れないことを咄嗟にしようとしたもんだから」
「いいのよ、二人とも怪我がなかったんだから。それに元を言えば私が転びそうだったのを助けてくれたんだし。ありがとう」
実歩は優しく微笑んだ。
「さてと、そろそろ行ける?」
「うん。あと歩きながら、発見した良い情報を教えてあげるよ」
「あら、何かしら? 嬉しい情報なら良いけど」
僕は数歩歩くと、さっきの衝撃ですっぽ抜けて落ちたブカブカの腕時計を拾った。
「それのこと?」
実歩が怪訝な顔をして僕に言う。
「違うよ、あそこ見て。この道の先」
実歩が僕が言った道の先を見やる。大きなカーブの先からほんの僅かに見える自動販売機。そしてその前には黒い車が停まっており、車体にはタクシーという文字が遠目でも薄っすらと見えた。
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