第1-4

「え? 父さん、行かないの?」


 父はグラスに半分ほど残っていたビールを一気に飲み干し、ふぅと気分良さそうに息を吐いた。


「あぁ、ずっと悩んでいたが決めた」

「どうして?」

「そりゃあ興味がないからだ。行ったところで村はもう無いんだ。今さら村の跡地を見ても虚しいだけだ」


 父の生まれ故郷は月引村だ。村を出た当時は、僕以上に残念な気持ちが表に現れていて、こっちに引っ越してからはじめの1年はずっと情緒不安定であった。

 父は椅子から立ち上がると、冷蔵庫の前まで行って立ち止まり一瞬、僕の顔をちらっと見てから冷蔵庫の中から瓶ビールを一本取り出した。

 テーブルに瓶ビールを置き、立ったままの体勢で栓抜きを持って瓶の栓を開ける。宙に栓がポンと勢いよく飛ぶと、何回転かしてからテーブル上に甲高い音とともに落ちた。父は開けた瓶ビールを片手に持ち、前に座っている実歩の父親に勧めた。


「いえ、私はこれで」

「裕二さん、今日はえらい早いね?」

「えぇ、ちょっと」


 裕二さんが断ると、父は『しょうがないな』と言って自分のグラスにビールをついだ。この2人は昔から仲がよく、裕二さんが赴任先から帰ると一直線に山井家に来ては2人でこうして飲むのが定番だ。夜が更ける前に裕二さんは帰るが、実家ではなく近くのホテルに泊まる。それは娘との関係があまり良いものではなく、家にいるとお互い気まずいかららしい。ただ精神的に不安定な娘のことを一応心配しているようで、毎回、短い時間だが顔を合わせて少しは会話をしているようだ。そして翌朝、また赴任先に戻るというのがお決まりのパターンだ。


「お前は行きたいんだろ? なら行ってきたらいい。留守番はしておいてやるから安心しろ」


 今週期限なので危うく実歩の家から帰る途中、ポストに入れるところであった。念のためもう一度、父に確認してからと、ふと思ったことが幸いした。

 父の言葉をじっと聞いていた裕二さんが、ふふっと不気味に笑う。


「山井さん、そう言って昼間から酒を飲みたいだけでしょう?」

「バカ言うな。謙輔がいようがいまいが、俺はそんなこと気にしねぇ」

「そう言ってさっきもビールを取りに行ったとき、謙輔君を気にしてる様でしたけどね」


 心の内を言い当てられ恥ずかしかったのか、父はフンと鼻を鳴らした。


「謙輔君、お父さんはちゃんと医者から言われた量までアルコールを減らせているのかい?」

「一応、僕が見ている範囲では」

「そう、えらいですね」


 裕二さんはまるで小さな子供を褒めるかのように、父に向かって言った。

 半年ほど前、父は突然意識不明で倒れ、救急車で運ばれることがあった。幸い様態はすぐに回復したものの診断の結果、急性アルコール中毒ということがわかった。その日、父は昼間から夕方にかけてずっと外で飲み歩いていたらしく、道端で倒れていたところを酒飲み仲間が見つけ119番通報した。

 このまま飲酒の量が変わらなければアルコール依存症にもなると医者から言われ、それからというもの飲酒の量を制限をしている。1人では困難だからと子供みたいことを父が言うので、僕が監視役となって日々の飲酒の量を調整しているのだ。


「今日はその一杯で終わりだよ」


 そう言うと父は、


「おいおい、今開けたところだろ」


 と言って駄々をこねるので、僕は問答無用で瓶ビールを取り上げた。


「おい!」


 父の大きな声が部屋中に響く。初めこそ抵抗する父の大きな声に恐怖を感じていたが、この半年ですっかり慣れてしまった。


「裕二さん、本当に飲まないの?」

「頑張っている人を目の前にして飲めるほど、私は図太い神経を持ち合してないよ」

「分かりました」


 僕は台所に行くと、瓶の中に残っていたビールをすべて流し台に捨てた。父のほうを見ると、最後の一杯を大切にちびちびと味わっている。


「ここまで頑張っているのなら、内覧日に隠れて飲むような真似はしないか。なら、なぜ行かないんです? 本当に興味がないだけなら、今まで躊躇う理由はなかったと思いますが」


 裕二さんがそう言うと父は飲む手を止め、グラスをテーブルの上に静かに置いた。その表情はまだ何かを思い詰めているように見える。


「あの場所に対して想うことはもうない、だから行かない。これは間違えようがない俺の気持ちだ。暇だったら行こうか、ぐらいの感覚だ」

「では当日に何かやることができたと?」

「あぁ」


 少し間を置いてから父は話し出した。


「実はこの家にはずっと物置にしている部屋がある。いつからその部屋が物置になっているのか、それは覚えていないんだが……ただ妙なことに誰かがその部屋を使っていたような雰囲気があるんだよ」

「使っていたような雰囲気? どういう意味です?」

「さっき物置と言ったが、それは俺や謙輔が使っていないからおそらく物置として使っていたんだろうという消去法的な話なんだ。ただそれにしては部屋の中が整理され過ぎている」


 机や椅子、ベットがきちんと置かれていること。積み上げられた家具や段ボールなどは一切ないこと。まるで昨日まで誰かが使っていたかのような、そんな印象を受ける部屋だということ。父は自身が感じた違和感を裕二さんに話した。


「そんな部屋が家の中にあるということが気味が悪くてな、だから謙輔が出かけてる間に整理をしたいと思ってよ」

「部屋の片付けですか。別にいいんじゃないですか? アルコール摂取がなく健康的で」

「おいおい、俺は真面目に話してんだ。茶化さんでくれ」

「すみません」

「ただな、あの部屋を見ると何かこう、心が揺さぶられる気持ちになるんだ。表現しづらいが後悔というか懐かしいというか……。実はアルコールの量が増えたのは、半年ほど前にその部屋を覗いてからなんだ。部屋を見てたら何かこう、無性に飲まずにはいられなくってよ。今でも偶に部屋に入るとそんな気持ちになる」


 父のアルコールの量が増えたことにそんな理由があったとは、僕は初めて聞いた。


「なぜそんな部屋を片付けようと? 良いじゃないですか、ノスタルジックに浸れるってことでしょ? 私は好きですけどね、そんな部屋」

「医者に酒を止められている俺の身になってみろ。酒ばっかり飲んで、今死ぬわけにゃあいかん。来年には大金がいるだろうしな」

「大金? 家でもリフォームするんですか?」

「謙輔の進学用だよ」

「あぁ、謙輔君の。大学はもう決まっているんですか?」

「さぁね。まだゆっくりと話したことはないが、勉強は頑張っているようだしどこかには行きたいんだろ」


 僕に気を遣ってか、途中から2人が小声で話す。台所で空になったビール瓶をゆすいでいたが、しっかりとその内容は僕の耳まで届いた。

 まだ何も相談したことがないのに、父がそんなことを考えていたことに僕は驚いた。普段、家に帰ればソファでごろ寝か、食卓で酒。もちろん仕事疲れもあるだろうが僕のことなど眼中になかったと思っていたので、素直に感動したとともに親らしい一面を見たような気がした。


「だからさ。あの部屋が残っているとまた飲んでしまうから、さっさと物置は物置らしくしようと思ってな」

「それは残念ですね。私が感傷的に浸りたいとき、そこで山井さんと一緒にお酒を飲もうと思ったんですが」

「よしてくれ。俺の肝臓が持たん」

 父はグラスに入ったビールを一気に飲み干すと、その後すぐにソファに移動していつものように寝てしまった。




「まさか父が僕の大学のことを考えていたなんてびっくりしました」

「親が子の未来を心配することは、何も不思議なことではないよ」


 裕二さんに台所から持ってきた冷えたお茶を差し出すと、対面側の食卓の椅子に僕も座った。


「えぇ、それはそうですけど。でも去年まで父は毎日のように飲んだくれていたので、そんな話をしたこともなくて」

「私が言うことでもないかもしれないが、山井さんにとって自分を見つめる良いきっかけだったのかもしれない。半年前に倒れてから何度かお邪魔して、一緒に飲ませて頂いているけど随分変わったよ。前はアルコールが入ると決まって管をまいていたのが、今はとても健全な会話になっている」

「父がご迷惑掛けていたようですみません」

「いやいや」


 手で否定する素振りをしながら、裕二さんは笑った。


「ところで最近の実歩の様子はどうだい?」

「ちょうど今日、ご自宅に伺ったところです。3日前に内覧の問い合わせ先に電話をして、彼女の参加希望の旨を連絡したので、それを伝えに行きました。今週は調子が少し悪いようですけど、今日彼女に話すとどこか嬉しそうで気合いが入ってました」

「そうか……謙輔君にそこまでさせてしまって。経緯はよく知らないがこちらも色々と、ご迷惑を掛けているようだね。申し訳ない」

「いえ」


 僕が実歩にお節介を焼く理由は、単に彼女に対し好意を持っているから、という話だけではない。今は秘密にしているが、いずれ実歩に話さなければならない。


「ところでその件で、私は君に謝らないといけないことがある。そのこともあって今日はアルコールを控えた。酔っぱらった状態で謝っても失礼に当たるからね」

「謝るって、何をですか?」

「内覧日のことだが、運悪く急な仕事が入ったんだ。すまない」


 裕二さんは両手を自分の膝に置くと、椅子に座ったままの姿勢で頭を下げ、僕に謝った。


「え?」


 思わず大きな声が出てしまう。


「滅多に、というかこんなこと普通あり得ないんだが、あるクラスの担任が今になって配属されていないということが分かったんだ。今そのせいで学校がバタバタでね。この先しばらくは休日出勤もやむを得ないといったところだ。内覧には参加の意思表示をしていたが、近いうちに欠席の電話を入れるつもりだ。すまない、まさか山井さんまで欠席すると思わなかったから、私一人欠席しても問題ないと高をくくっていた」

「それじゃ……僕たちも行くことができないってことですか?」


 僕は不安な気持ちになりながら裕二さんに聞いた。


「いや。実歩が折角、前向きな気持ちになっているんだ。親としてそれを挫くようなことはしたくない」


 父との酒の席の中で裕二さんは、すでに腹を括っていたのだろう。迷う表情をすることもなく、真顔になって僕に答えた。


「謙輔君、実歩と2人で行ってくれないか?」



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