第1-2

『ピンポーン』

 

 高い音が扉の裏側にある空間に響いて、どこからともなくその反響音が洩れて聞こえてくる。インターホンでの反応はないが、中で何かの催しが開かれたのか急にバタバタとする音が聞こえ始めた。

 いつものことなので気にも留めず、僕はマンションの通路から外に目をやった。彼女の家はマンション6階にある。そのため遮られることもない太陽の光は縦横無尽に進んで僕の目に飛び込んでくる。5月といえども、光は夏本番を感じさせるほど強いものだった。今週雨続きだったので晴れることを待ち望んでいたが、晴れたら晴れたで今度は日差しが痛い。人が快適に生活できる環境というのは『本当に狭い範囲なんだなぁ』とつくづく僕は思いながら、眩しさのあまり手でひさしを作って遠くを眺めた。

 知れた高さなのでそれほど絶景ではないが、空いた時間を埋めるには充分だ。犬を連れた人たちが街の一角に集まって、何やら話をしているのが見える。何が楽しくて朝9時から集まって話をしているのだろうか。他人との会話に興味がない僕にとって、理解できない集まりだ。

 閑静な立地にあるこのマンションから見えるのは、さしずめ遊具のない小さな公園と戸建ての住宅だけだ。実歩が初めこのマンションに引っ越してきたとき、何と味気のない場所だろうと思ったが、今思えば彼女にとっては一番良い場所に住めたのかもしれない。この環境が彼女の心をいくらか癒してくれただろう。

 しばらく待っていると、後ろからカチッと扉の鍵が開く音が聞こえた。扉のほうを見るとゆっくりと扉が開き、その隙間からひょんと実歩が顔を出した。僕の背中から溢れた日差しが、彼女の顔を明るく照らす。


「眩しい……」


 僕はすかさず体を移動させ、実歩の顔を自身の影で覆う。


「ごめん、待った?」


 実歩はまだ少し眩しそうにしながら、目を細めて言った。


「ううん」


 毎度のことで本当に気にもしていない僕は、顔を横に軽く振って彼女に微笑んだ。


「どうぞ、入って」


 実歩も応えるように微笑むと、扉を背中で押して大きく開けてくれた。

 彼女の表情から判断すると、今日はいつもより体の調子が良いのかもしれない。普段より表情が柔らかいように感じる。

 玄関へ入ると、中は強く甘い香りが漂っていた。香りが強くなる方へ鼻で辿って行くと、靴箱の上に包装紙で包まれた薄い紫色のラベンダーが置かれていた。


「どうしたの、これ。珍しいね」


 僕が指をさして言うと、


「そう? 前からお花は好きだけど」


 咄嗟に言葉が出てしまったが、確かに彼女の言うとおりだ。彼女が花を買うことは何も特別なことではない。だが何だろう、どこかいつもと違う。


「いや花ではなくて……周りの包装紙がいつもと違うから、違うお店?」

「あ、うん」


 素っ気なく返事をすると実歩は鍵を掛け、狭い玄関を占有している僕を押しのけて中へ上がった。


「狭いんだから早く上がってよ。はい、これ」


 そう言うと実歩は、玄関のすぐ横にある部屋の中から花柄のスリッパを取り出して床に置いた。


「昨日、お花と一緒に買ってきたの。もう5月で時期がかなり遅くなったけど。ほら、この家の廊下って足が冷えるでしょ?」

「実歩は履かないの?」

「私はいいの。分厚い靴下を何枚も重ねているから、かかとが開いているスリッパよりずっと暖かいわ。それに……」


 そう言いかけると、実歩は靴下で大きくなった片足をスリッパの中に突っ込んで見せてくれた。つま先だけが少し入って、他の部分はスリッパから大きくはみ出している。『これ以上入らない』と言いたいのだろう。


「なるほど、じゃあ遠慮なく」


 僕はそう言って靴を脱ぐと、廊下に足を落とさずにそのままスリッパを履いた。


「どう?」

「どうと言われても……。まぁ、いつもより足が冷えないかな」

「そうじゃなくって、スリッパのサイズは小さくない? あなたのために買ったんだから」

「僕のため? えっと……」


 廊下を少し歩いて履き心地を試すと、振り返ってサイズに問題ないことを彼女に伝えた。


「良かった。じゃあ、リビングに行きましょ。ここは少し冷えるわ」


 玄関から真っ直ぐ廊下を歩いた先にリビングがある。中に入ると1つの長く白いソファが右の壁際に配置され、その前には透明のガラス製テーブルが置かれている。そのテーブルの反対側にはテレビが置かれ、白いソファから座って見えるようにしてあるのだが、なぜかテレビには明るくデザインされた不透明なシートが掛けられていてそれを取らないと見ることはできない。その理由を以前実歩に聞くと、テレビを見ることはないからだそうだ。ただ理由はそれだけではなく、部屋の中央にドカッと陣取ったテレビボード上のテレビは、彼女曰く無粋だそうだ。テレビを境に反対側は食卓となっていて、食事中にテレビ裏の配線が見えるとげんなりするらしい。僕が手伝うことを前提にレイアウト変更を提案してはみたものの、他にテレビを置く場所がないという理由から引っ越してきた当初のままとなっている。


「上着、もらうわ」


 実歩は僕から上着を受け取るとハンガーに服を通し、隣接する部屋にあるハンガーラックに服を掛けた。


「ごめん、さっき起きたところなの。少し座って待っててくれる?」


 これもよくあることだ。僕はソファに腰を掛けると、何んとなしに部屋全体を見渡した。前回ここに来たのは一週間ほど前だ。そのときと何ら様子は変わっていない。ガラス製テーブルに置かれたリモコンの位置、テレビに掛かったシートの垂れ具合、食卓の横にある棚の中の本の並び、まるで時が止まったかのようにすべての物がその時のままであった。ただ一点だけを除いては。

 いつもと変わらない絵の中で、1つだけ浮き出た存在を僕は見逃さなかった。


「あれは……」


 食卓に置かれた白い小さな紙袋。サイズ感から中に何が入っているのか僕はすぐにピンッときた。しばらく待っていると、実歩は先ほどと何も変わらない様子で戻ってきて僕の横に座った。


「今日は天気が良いからよく乾きそう。溜まってたから助かるわ」


 洗面所がある方に耳を澄ませると、洗濯機の『ゴトッ、ゴトッ』という動く音が聞こえる。彼女の身体が調子良いときであれば、ちょうどこの時間に洗濯機が終わって止まる頃だ。それがこんな朝9時を回ってから洗濯機を動かしてるとなると、その理由は決まって……。

 僕は彼女の顔をじっと見た。玄関で話した時は気づかなかったが良く見ると、目の下に薄っすらと隈が出来ている。


「また……寝れていないの?」


 僕がそう言うと、実歩は少し俯いた。


「うん……でも昨日はまだ寝られたほうかな。運動不足かと思って昨日、少し遠出してみたの。それが良かったのかもしれない」


 なるほど。だから見たことがない花の包装紙だったのか。それにしても口ではそう言っていても、声にはいつもの程の元気がなかった。


「薬は、飲んでるんだよね?」


 僕の言葉に彼女は軽く首を横に振った。


「え、どうして?」

「前に……薬を飲んで悪夢を見たから。怖くって」

「でもそれじゃあ、いつまでも眠れないんじゃ……」

「わかってる!」


 実歩の口調が急に強くなった。


「わかってるの……でもお母さんが夢に出てきて、私に嫌なことばかり言うの。お母さんがそんなことを言うわけがないのに、でも……それが辛くって」


 ソファの上に両足を上げると、そのまま彼女はうずくまってしまった。彼女の顔は見えないが、微かに泣き声が漏れて聞こえる。

 これまで不眠になると病院から処方された睡眠薬を使って凌いでいた。しかしちょっと前に薬を飲んだとき悪夢に相当うなされたようで、それから彼女は薬に不信感を持つようになった。

 食卓に薬が入った紙袋が置いてあるということは、おそらく相当我慢できず薬箱から取り出してきたのだろう。ただいざ飲もうとすると、抵抗感があって飲むことができなかったというところだろうか。もしかすると今週はずっと寝られていないのかもしれない。

 不憫に思った僕はソファの上を滑るようにして彼女に近寄ると、肩を引き寄せ、ぎゅっと抱きしめた。僕の鼻先に彼女の髪が当たり、少し冷たい甘い香りがする。部屋が少し冷えているせいか、彼女を包んだ両腕から彼女の体温がはっきりと伝わってくる。彼女がこんな状態であるにもかかわらず、心安らぐ思いをしている僕は、人でなしなのかもしれない。しかし遅れて不安も襲ってきた。こうやって抱いてみると彼女の身体が如何に細いかが分かる。少し力を入れただけでポキッと折れそうなその身体は、おそらく睡眠のみならず食事もままならないのだろう。これまで以上に痩せたその身体を抱きしめながら、彼女は今後どうやってこれを乗り越えていくのかと考えると、漠然と大きな不安の波が押し寄せてきた。

 僕までも彼女につられて不安になっていては情けない。彼女を元気にさせる方法はないかと頭を巡らせたとき、ある物を買ってきたことを思い出した。


「そうだ。お土産があるんだった。お腹、空いてる?」


 僕は抱きしめたまま優しく実歩に聞いた。僕の言葉に反応してか、彼女の泣き声と身体の小刻みな震えは、次第に収まっていった。


「ごめん……顔を上げられないからティッシュ取って」


 僕は名残惜しくも彼女からそっと腕を離すと、立って食卓にあるティッシュ箱を持ってきて彼女の横に置いた。僕に見えないように、彼女はそっぽを向きながらティッシュを何枚か片手で取ると、自分の顔を拭いた。僕の方に振り向き、ソファから見上げた彼女の目は赤く充血していた。


「ありがとう」


 実歩は健気に微笑んで見せた。


「お土産ってなに?」


 吹っ切れたように実歩は明るく言った。すると、


「あれ? なんだか謙輔からおいしいそうな匂いがするわ」


 と、すぐに彼女が匂いを察知したので、僕は横に置いていたリュックサックを開け、中から買ってきたパンを取り出して、ガラステーブルの上に並べた。


「これ買ってきたんだ。朝まだでしょ?」


 実歩は『そのパン』を見るや否や、まるで先ほどの事が何でもなかったかのように喜んだ。


「わぁ、うれしい。ありがとう」


 実歩はこのパン屋がお気に入りで、週3回ほど買いに行くほどだ。パン屋の店の規模はそれほど大きくはないが種類は豊富で、客は店内だけに収まらずいつも店の外まで行列が続いている。実歩はこのパン屋の『いちじくのパン』の大ファンで、旬の6月頃になるといつも買っては食べていた。そんな彼女の好物をまだ5月中旬だというのに、しかもこんな彼女が辛い状況で買えたのはラッキーだったのかもしれない。


「店に行ったらさ、実歩の好きなパンを見つけてね」

「ふふっ、よくご存じで。でも、あれ? 少し潰れているわ」


 実歩は透明容器に入ったいちじくのパンを手に持って、僕に見せてくれた。確かに店に置いてあったときと比べると、容器自体も少し形が歪になっている。それを見ると実歩は、


「もう、リュックなんかに入れてくるから」


 と文句を言うので、僕はすぐさま平謝りした。


「まぁいいわ、食べたら一緒だし。それに私のために買ってきてくれたんだから、その気持ちがうれしいわ。飲み物はハーブティでいい?」

「うん」


 実歩はそう言うとソファから元気に立ち上がり、買ってきたパンを持って台所へ行った。

 間取り3LDKのこの家は、ソファの位置から台所の様子を十分伺い知ることができる。台所の戸棚を開け、ゴソゴソと彼女がハーブティーのパックを物色する音が聞こえる。何度もこの家に来て台所も使ったことがある僕にとっては、彼女がどこで何を探しているのか、音だけ何となく推測できた。


「本当はベランダで育てているハーブのほうが、私は好きなんだけどちょっと今切らしてて。ティーバッグで良いよね?」

「うん」


 しばらくするとお盆にティーセットをのせて、実歩は食卓に置いた。


「そこは狭いからこっちでお願い。それに……」

「それに?」

「そこにいるとまた誰かさんに抱きつかれちゃうから」


 自分があんな状態であっても、しっかりと僕の不埒な思いを見透かしているあたりが実歩らしい。恥ずかしくなった僕は、思わず必死になって言い繕った。


「ち、違うよ。あれは実歩のことが心配で」

「いいのよ。私は気にしないわ。あなたの下心にまでとやかく言うつもりはないわ」


 一瞬と言えど、嬉しい気持ちがよぎったのは事実だ。反論できずに困っていると、僕の様子を見て実歩はほくそ笑んだ。


「ほら早く来て。一緒に食べましょ」


 僕は腑に落ちなかったが、美味しそうなパンと暖かい良い香りのするハーブティーに誘われ、渋々食卓に着いた。

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