第1-1

 車窓に掛かった淡い黄色カーテンの隙間から、ちらちらと白く黄色い光が実歩の前髪に差す。リズムよく刻まれるその光は、対面の席で見ている僕を心地良い眠りの世界へと誘おうとする。何度もその誘惑が瞼に重くのしかかり、その度に僕は目をギュッと強く閉じて眠気を追っ払った。


「遠いね」


 寝ていたはずの実歩が、いつの間にか起きてこちらを見て言った。


「おはよう、よく寝てたね」

「少しだけよ。それよりも面白そうなことがあったから、薄目を開けてずっと観戦していたの」

「面白そうなこと?」

「謙輔がいつ睡魔に負けるのか」


 実歩はニッと口角を上げ微笑んだ。


「え、起きてたの?」

「言ったじゃない、寝てたのは少しだけって。だって、つまんないじゃない。ずっと座って、変わらない森の景色ばっかり。まだ謙輔のころころ変わる表情を見ている方がマシよ」


 はじめは久しぶりに特急電車に乗ったこともあって、遠足前夜のような高揚した気持ちは窓の外に映るすべての景色を楽しませてくれた。しかしそれも電車に乗って、かれこれ2時間も経つとさすがに退屈だ。


「でもそれも飽きちゃった。なかなか勝負がつかないんだもの。謙輔って本当、我慢強いわね」


 けなされているのか、褒められているのか、よく分からなかった僕は『まぁね』と言ってとりあえず軽く流した。

 普段より饒舌になった実歩を見ると、来て良かったのかもしれない。彼女の母親が病気で亡くなって13年が経つ。それを境に心を閉ざしてしまった彼女は、今も『無気力』という形で尾を引いていた。彼女が学生であった頃は、無気力であっても学校に行くことで一定の時間のリズムが生まれ、曲がりなりにも人間らしい生活を送っていた。しかし高校卒業後、進学や就職することもなかった彼女はずっと家に引きこもるようになった。そんな生活が彼女にとって当然良いものではなく、高校生で小遣いは僅かであったが幼馴染のよしみでショッピングや食事に何度か誘ってはみたものの、『受験勉強はどうしたの?』の一言ですべて断られていた。そんな行き詰っている中、ある一通のハガキが僕に届いた。




月引村の元居住者のみなさまへ


拝啓

 時下ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。

 この度、ダムの試用期間1年が経過したため、国土交通省との契約によりダム全体の不具合および劣化の検証・診断を行います。このときダム貯水池の水はすべて排水されている状態になり、貯水池の底に立ち入ることが可能です。つきましては元居住者の皆様とはダム建設時に、本期間における内覧の実施が取り決めとなっていますので本書面をもってご招待致します。返送期限は本書のとおりですので、余裕をもって御返送ください。なお御返送がなかった方々に関しては、御欠席の判断と致します。また当日は元居住者のみの内覧となっておりますので、関係者以外の御同行は認可できませんので御了承ください。

 御出席・御欠席のどちらかに〇を付け、参加人数をご記入の上、御返送してください。なお御出席を選択された方々には、出席にあたって準備や注意すべき点を記載した資料を後日郵送しますので、ご一読の程よろしくお願いします。

敬具 


返送期限:△月末

内覧日程:〇月×日 (天候により変更の可能性あり)

時間:9:30~12:00(予定)

集合場所:資料に記載(後日郵送)

お問い合わせ電話番号:〇×ー××△▢ー△×〇▢




「あれ、それどうしたの?」


 リュックサックの中から招待ハガキを取り出して見ている僕に気が付いて、実歩が対面の席から言った。


「ちょうど会う機会があって彩香から貰ったんだ。人数分以上に作ったから、未使用のハガキが残ってたみたい」

「彩香と? ふーん、未使用ねぇ。本当にそれだけかしら」


 人を疑うような目で見ると、実歩は僕の手からハガキをスッと抜き取った。


「あなた、ずっと私を騙していたのね」


 真顔になって実歩が僕に言う。実歩の手に渡ったハガキが、彼女の胸元にトントンと当って一定のリズムで刻む。


「このハガキ、あなたのものだよね?」

「そう……だけど。どういうこと?」


 何を言われているのか全く分からなかった僕は、その堂々たる実歩の態度にたじろぐ。


「あなた『山井謙輔』さんだよね? それなのに、ここにほら」


 実歩はハガキをくるりと回して、僕に表面を見せた。そこには『熊田 熊男』という名前が、ハガキの中央の宛名に書かれていた。


「ふふっ、あははっ」


 それまでぎゅっと縛られていた紐が一気に解けたかのように、実歩は吹き出して笑った。ネタをばらしても未だ困惑する僕の表情が、実歩を一層の笑いに誘う。彼女の中で1つのコントが今、客を置き去りしたまま終演したのであろう。


「あははっ、全然こういうところ変わっていないよね、彩香は」


 ひとしきり笑うと実歩は自分のリュックサックからボールペンを取り出し、電車の窓枠の平らになった部分でハガキに何かを書き始めた。


「こんな感じかな」


 実歩は意気揚々と『どう?』と言って、ハガキを吊るすように持って僕に見せた。『熊田 熊男』の宛名の横には可愛らしいクマの絵が追加され、なぜかそのクマには髭がもしゃもしゃと描かれていた。

 『どう?』と言われてもこの絵を見て、どんな感想を言えばいいのだろうか。ハガキ越しに実歩の顔をちらりと見ると、何かに勝ち誇ったようにこちらを見ている。その表情がより一層、僕を窮地に立たせる。

 彼女には質問をして相手の反応を見る、という少々変わった嗜好がある。これまでを思い返すと、その問答は平均30分ほど続く。退屈なときほどその問答が開催されるので、彼女なりの時間つぶしの方法なのかもしれない。いつだったか世間では長い連休に入っているというのに、一人ずっと家の中に閉じこもっていたときがあった。そんな状況を案じて、休み最終日に朝早くに彼女の家に行き、出かけることを提案したのだが、その後なぜか返答に困る質問ばかりされて結局それで1日が終わってしまった。彼女を外に出すという計画が失敗に終わったことで、実がない一日だと僕が嘆いていると彼女は首を横に振って、


「ううん。逆に楽しかったわよ」


 と、にこやかに言った。彼女曰く、僕の答えはいつも彼女が期待する返しからずれているらしい。だがそれがどんな遊びよりも、話が広がって楽しいのだと言う。僕には分からないが、賢い彼女ならではの高尚な遊びなのだろう。そして彼女の表情から、今にもその問答が始められようとしていることを僕は感じ取った。

 確かに暇ではあるが電車の中で、今そんなことをやる気分になかった僕は彼女にとって面白くない返答、つまり真っ当な返しをしてこの開催を回避させることを思いついた。『普段の自分なら見たまんま、絵が上手いと褒めるか、可愛いクマになぜ髭があるのかとツッコミをいれるが……』

 僕は無言のまましばらく考え、そして1つの答えに辿り着く。


「その絵……熊男っぽいね」


 恐る恐る彼女の反応をハガキの影から覗く。


「ふーん、まぁ、私の絵が上手いってことかもね」


 実歩はチラッと自分の描いた熊男を一目見ると、僕にハガキを突き返した。明らかにトーンダウンした彼女を見る限り、どうやら頓珍漢な返答では無かったのだろう。つまり今回は絵としてではなく、『熊田 熊男』としてどう思うのかを述べることができた僕の勝利だ。

 僕は安堵し、受け取ったハガキを再びリュックサックの中へと戻した。


「そういえばさっき、ハガキを見て彩香らしいって言ってたけどどういうこと?」

「あぁ、あれね……」


 窓の外を眺めながら、魂が抜けたかのような生気のない声で実歩は返事をした。


「練習に『熊田 熊男』って書くあたりが全然変わってないなって。郵便番号が930ー9393だったでしょ? これって『クマオ・クマクマ』って読むんじゃないかしら。昔あの子、クマが好きだったじゃない。今でも相変わらず好きみたいね。覚えてない?」


 9年前となると流石に記憶の引き出しが錆びついて、すぐに思い出すことはできない。彩香がクマを好きだったというのは、何となく覚えているが。


「でも確か途中でクマのことが嫌いになったような……」


 僕がそう言うと、死んでいた彼女の目に生気が宿りくすくすと笑い出した


「あぁ、そんなことがあったわね。ふふっ、今思い出しても笑っちゃうわ」

「山の遠足のときだった?」

「そうそう、そのときよ。『クマ』好きの彼女が本当の『熊』を初めて見て、余りにも姿の違いにショックを受けちゃってね。自分の部屋に置いてあったぬいぐるみのクマコレクションに近寄れないって嘆いていたわ。ふふっ」


 実歩は懐かしそうな表情を浮かべながら言った。そんな彼女の表情を見て、僕の心臓は何かぎゅっと掴まれるような感じがした。


「もう9年だからね」


 僕はそう言って窓の外を眺めると、木々が流れるように次から次へと窓枠に入っては外へ消えていくのを繰り返している。その速さはまるで今日まで僕たちが過ごしてきた日々を表しているかのようだった。

 僕たちが村から移り住んで早9年。本当に月日の流れというのが早く感じる。新しい土地に移ってから、その場所での生活に慣れるのに本当に苦労した。同じ国だというのにここまで村と違うのかと思うぐらい、特に人間関係は希薄なものだ。村で近所付き合いする場合、それは家族と同様に扱うことを意味していた。悩みがあれば隔たりなく相談するし、腹が減っていれば御飯を振る舞うこともある。極端に言えば家族との違いは、同じ家に住んでいるかどうかだけだ。

 始めこそ村外での人々の距離間に違和感があったものの、それが村の外の世界では『普通』だと理解するにはそう時間はかからなかった。もともと人付き合いが苦手な方だったので、新しい土地のほうが僕にとっては過ごしやすかったが、一層孤立に拍車がかかり、今では友達と言える相手は実歩しかいない。


「9年前か……早いね。私なんてあの頃から全然変わってないわ」


 宙をぼんやりと見つめながら実歩は言った。


「このまま……行っていいんだよね?」


 目の前で思いにふける実歩を見て、漠然とした不安が込み上がったので思わず僕は聞いた。


「ふふっ、気を使わなくていいわよ。私もずっと行きたかったから。前に進まなくちゃいけない。きっとこれはチャンスなんだと思う」


 彼女の表情を見ると明るく振る舞ってはいるものの、どこか悲しみの影がちらついて見える。その悲しみがどこから来ているのか、彼女から詳しい話は聞いたことがないが長い付き合いだからこそ僕は知っている。母への後悔を断ち切るため、彼女はこの『帰郷』にそれなりの覚悟を持って臨んでいるに違いない。


「自販機置いてあるみたいだから、何か買ってくるよ。何か飲む?」

「うーん、そうね。コーヒーがいいかな、無糖でね」


 僕はリュックサックの中から財布を取り出すと、席を立ち上がって自販機へ向かった。そして電車の通路を歩きながら先日、実歩と話し合ったときのことを思い出した。

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