月の島のアン

難治タチバナ

第0

「いやぁ、あんたら本当にラッキーだな」


 大きな木の後ろでしゃがんで息をひそめる若い男女2人に向かって、タクシーの運転手が小声で言った。

 男女2人は声がした方向に目を向けたものの、日が落ちて真っ暗となった森の中では、運転手の姿を捉えることができなかった。


「ちょっと暗いな」


 そう言うと、運転手は立って周囲を見渡し、月明かりが入る場所を探した。すぐに良好な場所が見つかり『こっちだ』と言って2人を誘う。

 落ちた枝などを踏む運転手の音の気配を頼りに、男女2人はかがみながら暗闇の中を恐る恐る後を追った。

 上空から降り注ぐ明かりにより、少し明るくなった茂みに辿り着くと、ようやくお互いの表情が確認できるようになった。


「俺は目が良くてよ、夜でも目が利くんだ。他の奴らにぁ、ちと暗すぎるわな。それより、ほれ、さっさと身を隠せ」


 運転手はしゃがみながら小声で2人に指示した。しゃがむと男女2人はすっぽり茂みの中に収まったが、運転手は体が大きいあまり隠しきれず肩から上が外から丸見えだ。その様子を見て2人が戸惑っていると、


「俺はいいんだ、山の中にいるイノシシとそう体形は変わらん。向こうさんも気付かんさ。ただあんたらは……」


 話の途中で何かに気が付いた運転手は急に静かになった。運転手は人差し指を口の前に立て2人に静かにするよう伝えると、さらに人差し指をそのままスッと森の奥のほうに向け指差した。男女2人は潜んでいる茂みから少し顔を出し、運転手が指した方向に目を向けた。その先には黄色く、ぼんやりと輝くものが立っていた。手や足、頭があり一見すると人の形をしているが目や口などは無く、全体がのっぺりとしている。

 その姿を目視した途端、2人はまるでゲームの『もぐらたたき』のもぐらのように、茂みの中へと頭をすぐに引っ込めた。


「あれは……何ですか?」


 興奮が簡単に見て取れるほど、若い男の声は震えていた。女のほうも男の背中に隠れながら、体を小刻みに震わし静かに怯えている。


「大丈夫だ、安心しろ。あれは何も危害を加えたりしない」


 運転手は優しい口調で話し、2人をなだめた。


「ただあれが何なのか、俺にもわからん。夜になるとたまに現れて、ああやって外を徘徊してるんだ。あんたらもあれを見に来たんだろ?」


 運転手が尋ねると、急に男はまごまごとした様子を見せた。

 女の存在を思い出した男は振り返り、彼女の目をじっと見つめる。女も少し震えながら男の目を見る。互いの意思を確認するため、しばらく沈黙が続いた。

 男は一瞬悲しげな表情をすると、女の目線を振りちぎるように顔を下に向け、重く口を開いた。


「実は……先月私たちの母が病気で亡くなったんです。本当に急で。私も妹も母の死に目に立ち会うことができませんでした。母はずっと一人で私たち2人を育ててくれ、本当に苦労をかけたと思います。大好きだった母にせめて……せめて最後に『ありがとう』と言葉を伝えたかった。だからここなら母に会えるかも、って思って来てみたんです。ここから『天国のような場所に行ける』って、ネットに書いてあったんで」


 男は話し終わった後も辛い表情で、地面をじっと睨んでいる。その後ろにいる女も沈痛な面持ちだ。


「ふーん」


 運転手は素っ気ない返事をした。しかしその目はしっかり二人を捉えている。まるで容疑者を事情聴取している警察官のごとく鋭く、疑心に満ちた目だ。2人をジロジロと一通り見た後、モヤモヤした気持ちに踏ん切りをつけるため運転手は自分の頭を強くかいた。


「いや……悪かった。辛い話をさせしまった。最近は何でもインターネットに載っているんだな」


 運転手の言葉に2人の反応はない。その場の空気を悪くしてしまったことに気が付いた運転手は、2人の気持ちを切り替えるため何か話題を探す。


「えっと……あぁそうだ。ついこの間もここに案内してほしいという奴らがいたよ。肝試しとか言っていたな。俺はネットの情報なんか知らねぇから、初めて聞いたときは馬鹿な話だって笑ったさ。だがいざ来てみるとあいつがいた。不思議な物体だよ、いや、生き物か。だが、残念なことにここには天国なんてものはねぇし、それに近いものもねぇ。あるのは、あの黄色いやつと……死神だ」


「死神?」


 不吉な言葉に、それまでうつむいていた若い女が反応する。魚が食いついたことで好機と見た運転手は、さらに畳み掛けて説明を続けた。


「あぁ、死神だ。黒くて、大きくて……あそこにいる黄色いやつを捕まえにくるんだ。見てな、もう少しで来るはずだ」


 茂みの隙間からしばらく黄色い物体を見ていると、いつの間にかその足元に黒い糸のようなものが散らばっていることに女は気付いた。まるでシャクトリムシのように体の端を地面をつけ、もう一端が空に向かって何かを求めるかのようにうねうねと動いている。

 女は思わず、前にいる男の腕を後ろからそっと掴んだ。それまでずっと地面と睨めっこをしていた男は何か異常を感じ、ようやく顔を上げ女のほうに向いた。


「どうした?」


 女が『あれ』と小声で言って指を差したので、男も一緒になってその方向を見た。

 たくさんの黒い糸が意思を持っているかのようにうごめき、次々と地面の下から湧いて出てくる。黄色い物体の足元がそれで一面埋め尽くされると、それまでゆっくりと歩いていた黄色い物体の動きが止まった。すると地面に溜まった黒い糸は、黄色い物体の足をつたって体の上に次々と這い上がりだした。

 全身が黒い糸で覆われるほどになったとき、地面から黒い糸で構成された鎖のようなものが1本伸びてきて、黄色い物体の腰に纏わりつくとそのまま後ろに引っ張った。

 黄色い物体は暴れて抵抗する様子もなく、ズズズッと後退する。一瞬、引っ張られるのが止まるとその後、勢いよく地面の下に吸い込まれていった。同時に地面に散らばっていた黒い糸も、地面の中へと消えていった。

 一連の出来事に呆気に取られている2人を見て、男は笑った。


「ははっ、驚いただろ。さすがに今のことはネットには書いてなかったろ?」

「あれは……どこに行ったんですか?」


 男は表情を強張らせながら聞いた。


「さぁな、それこそお前が言う天国に行ったのかもしんねぇな。さてと、そろそろ戻ろうか? 腹が減っちまった」


 運転手がその場を離れようとしたとき、男は先ほど黄色い物体がいた場所の奥に何かを見つけて立ち止まった。


「どうした?」

「あれは……あの奥にあるのは何ですか?」


 男が指さした先には、石を積み重ね円柱の形に造られた高さ1mほどの建造物がある。


「あぁ、あれは井戸のようにも見えるが坑道に降りる入口だ。この下は昔、鉱山として使わていたんだ」


 その言葉を聞くと男は驚きの表情を見せ、少し黙って考えたあと、ゆっくりと口を開いた。


「実はネットに書いてあったんです。天国のような場所に行くには、井戸ようなところが入口だと」


 冷静さを取り戻していたはずの男の声は、微かに震え、再び緊張を帯びていたーー。

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