第8話 ひとりぼっち?
俺はまず、幸のいる寝室のドアを閉めた。
「ゔっ……──」
そのまま歩こうとしたけど──力が抜けて、情けなく倒れそうになった。
マズいな……。
腹が減りすぎて、普通に歩けない。
「(クラクラする……早く、肉を食わなきゃ──)」
俺は壁を伝い、よろけながら足を動かす。
玄関にかけたポーチの中に、肉は入ってる。そこまで辿り着けばもう平気だ。
「(おかしい──……普段はこんなにならねえのに)」
そういえば俺、今夜は味見しかしてない。一齧りしただけだった。
それからあちこち動いたもんだから、すぐに消化されたんだろ。
「よし……ノクス、飯」
ようやっと玄関先に辿り着いた。何とかポーチも取れて、壁に背を向けてその場で座り込む。
──ゴールを目の前にして、少し気持ちが和らいだ。
真っ先に肉に食らいつきたかった──けど、まずはノクスにご褒美をやらなきゃな。ノクスだって、俺と同じくらい腹空かしてるだろうし。
俺はドアの犬用の出入口を、小さな音でノックした。
「(ノクスが来るまで──色々出すか)」
俺は肩を上下させながら、ポーチ内を探る。ノクスは食い意地張ってるからすぐ来るだろうけど、ある程度必要な物だけでも出そう。
肉の入った黒いビニール袋、使ったナイフとタオル、様々なデザインが施された小袋。
──程なくして、ノクスが草を踏み分ける音が近付いてきた。
そしてノクスは、出入口の軋む音がなるべく出ないようにそろりと入る。
「今日もありがと。ちゃんとあの人を届けられたみたいだね。偉い偉い」
ノクスの自信満々の様子を見れば、一目で分かる。俺は頭をワシワシと撫でて、血みどろの指を幾つか放ってやった。
ノクスは周囲を
それからノクスは──文字通り指を咥えて、外に出ていった。家の中で食べたら、あちこち血が飛び散って汚れちゃうからね。ノクスは賢いから、そういうのもちゃんと分かってくれてる。
「ふ──……俺も食おう」
もう我慢の限界だ。
今日取ってきた肉だけじゃ足りない気がしてきたな。冷蔵庫に残ってるやつも、一気に食っちゃおう。
俺は口の端に溜まった唾を拭って、暗闇の中で一人ほくそ笑んだ。
「ご馳走さまでした」
最後までしっかり堪能して、ボクは食事を終えた。
久し振りに、こんなにたらふく食べたかもしれないな。
「えっと、後は……」
ボクは色とりどりの小袋を探す。とんでもなく不味いけど、あれが無いと元気出ないから。
──ボクにとって欠かせないあれの正体とは、ずばり栄養剤なんだ。ミネラルとかビタミンとか、複合型のとか……まあ、とにかく色んなのがある。
あんな錠剤なんかに頼っている理由は、たった一つ。
「(普通の食事がホントに嫌なんだよね──)」
味を感じないボクは、何を食べても砂の味しかしない。どんなに美味しくても、どんなに高級な物でも、全て等しく味がしない。食感と香りばかりが激しく主張してくるものだから、どうしても気分が悪くなっちゃう。
──ぶっちゃけると、お肉もそう。
ボクは悪人を好んで食べているけど……美味しいか美味しくないかの基準は、その悪人の悪事だけなんだ。強盗とか、傷害とか──ああ、殺人犯も何度か食べたっけ。悪事がどす黒い程、ボクにとって比喩的に美味しいお肉になる。
要は、お肉を心の底から美味しいと思えたことは一度もないってこと。
それにお肉を食べること自体には、快楽とかのプラスの感情を一切抱いていない。
だって──……。
「それが、ボクがこの世に存在する意味だから」
さっき幸に言えなかった、理由。
ボクはこうでもしないと、あの人に認めてもらえないんだよ。悪は何をしても消えない、っていうことを証明しなくちゃ。
ボク自身が。ボクの手で。ボクのやり方で。
「(──そういえば)」
ボクの目的を改めて明確にして──ひとつ、気がかりがあることに気付いた。
「(何であの時──幸のこと、美味しそうって思ったんだろう)」
お腹が空いて気が短くなった所までは覚えてる。けど、ああなった理由は朧ろげだ。
うーん……いつもみたいに、悪人の悪い気配を嗅ぎ取ったのかな?
──っていうことは、幸は悪い人なの?
「(いやいや……そんなわけないよね)」
ボクは心にサッと広がった闇を、すぐに振り払う。
それに何か──いつもと違った感情に突き動かされていた気がするんだ。幸はボクが食べる対象じゃないって、はっきり言える。
じゃあ何で?
「(あー……頭ん中、グルグルしてきた)」
寝不足で疲れ果てた脳味噌が、いよいよバグってきた。
頭をスッキリさせる為にも、ボクは栄養剤を食べることにした。
──ザラザラと適当に取り出して、そのまま口に放り込む。そしたら噛み砕いて、喉に引っかかるのを感じながら飲み込む。それの繰り返し。水を持ってくるのも面倒臭いから、薬の残った喉の不快感は無視するんだ。
錠剤をボリボリ砕いているうちに、何となく脳が復活してきた。
気を取り直して。もうちょっとだけ、分析をしてみよう。
「(きっと、幸を食べたいって思った理由があるはずだよね……)」
目で見えた物が関係しているかもしれないと思って、特に印象深かった光景を思い返してみる。なるべく最近の、まだ記憶が新しい所から探してみよう。
えっと、まずは──……。
オムライス。それを頬張る幸。
ボクのぶかぶかの部屋着を着た幸。
ボクの正体を知っても、恐怖に呑まれなかった幸の瞳。
押し倒されて、切なそうな表情をした幸。それから──ボクの唾液を飲み込んで、大きく動いた幸の細い喉。
「(あれ……幸のことばっかりだ)」
指の味見で、気休め程度に腹が満たされていた時間は除くとして──ボク、そんなに幸のことを目で追いかけてたのかな。
そうぼんやりと理解した、刹那──。
「あっ……まただ」
思わず声が漏れた。
また──胸の奥底が切なくなって、血が甘く滾たぎるような、あの感じ。
鼓動が大きすぎて、心臓が痛いくらいだ。
「(もしかして……幸に食らいつきたくなったのは──これが関係してるのかな?)」
美味しそう、とは違う。ボクの手で、幸を滅茶苦茶にしてやりたい、みたいな──。
「──ッ、ボクの馬鹿……友達に何てこと思ってるんだよ」
あーもう、ボクって本当に最低。幸がもしこんなの聞いたら……お前は友達なんかじゃない、って間違いなく言われちゃうよ。
そんなの絶対駄目。戒めなきゃ。
ボクは自分のほっぺを、両手で思いっきり引っ叩いた。可哀想に、ほっぺはじんわりと、熱に蝕まれるように熱くなってきた。そして、ピリピリとした嫌な痛みに支配される。
ははっ、ちょっと力入れすぎちゃったかな。ボクはほっぺをさすって慰めてあげることにする。
────叩くより前、幸を想い始めた辺りで既に頬が赤く染まっていたのを、ボクはこの時まだ知らなかった。
「もう十一時過ぎか」
ボクがあれこれしている間に、夜は深まっていたみたいだ。シンプルな壁掛け時計の針が、そう知らせてくれた。
今日はいつもの倍動いたし、流石に眠たくなってきたな。
「(ベッド──は幸が使ってるから……リビングのソファかな)」
物音を立てないよう、
──ドアをそっと開けて、ボクは部屋に入った。閉める時まで気を抜かないようにね。
「はぁ……疲れちゃった」
肌触りの良い感触のソファに寝そべる。疲弊した身体がソファに吸い込まれていくみたいで、気持ちが良い。
夢の世界に飛び立つ前に電気を消さなきゃと思い、ローテーブルに置いてあるリモコンに手を伸ばす。
「(ボクがこんなに疲れるなんて、珍しいな……)」
ピッと鳴って消灯した後、ボクは薄れる意識の中でふとそう思った。
幸が家にいるからかな。いつもと違って、一人じゃないからかな。
──そんなことを考えていたら、気持ちが少し穏やかになってきて、唐突に眠たくなってきた。
もう刃物の手入れは明日に回そう。幸の目につかないような場所に置いたし、大丈夫だろう。眠くて眠くて、敵わない。着替えも、後で目が覚めた時にでも着替えればいっか。
そうしてボクはようやく、石のように重い目蓋を閉じた。
鳥の囀ずる声、朝日の心地良い暖かさ、パンの焼ける香ばしい匂い──。
それらが、オレを眠りの世界から引き上げた。
「ん……ふわぁ、あ──」
オレは身を起こし、思いっきり伸びをする。
それから──だんだん醒めていく視界の中、朝の美しさに仰天した。窓から見えたのは澄みきった青空で、太陽が眩しく微笑んでくれているみたいだ。
病室の朝は、それはそれはつまらなくて──青空を拝むことさえ叶わなかったからなあ。たった二十四時間前まで、そんな環境にいたんだと思って、なおさら驚愕する。
寝ぼけ眼を擦りながら、朝食の匂いに釣られるようにリビングへ向かう。
──今気付いたけど、ここはダイニングキッチンになっているみたいだ。名前は知ってたけど、実物は初めて見た。
キッチンにはラフな格好をした乱が立っていた。ニコニコ──とまではいかないけど、楽しそうに料理をしている。
オレがいることに気付くと──目を真ん丸にして、こっちまで駆け足でやって来た。
乱に言ったら気の毒だけど──あたふたしながら走る乱が、ちょっと面白い。
──不意に肩を乱の大きな手で掴まれて、ドキンと心臓が跳ね上がった。
「幸、おはよう……えっと──昨日、どこも怪我しなかった? 噛まれたりとか、何かされてない……?」
「──えっ? 誰に?」
素っ頓狂な様子のオレを見て、乱はますます慌てふためいて──魚みたいに口をはくはくさせながら説明を続けた。
「誰にって……ボクしかいないよ、ほら──幸と話してる途中にお腹空いちゃって、幸に飛びついちゃって」
「……あーっ! あれか! 別にオレ、何ともないぞ?」
「ホントに? 嘘ついてない?」
眉を下げて心配に心配を重ねる乱を見上げながら、オレは笑って、
「ホントだって! 友達に嘘つくような奴じゃないよ、オレ」
と言って宥める。
昨晩の乱は狼みたいだったけど──今はまるで仔犬だ。
あんまりにも変わりっぷりが凄まじいから、乱はホントに面白い奴だなって改めて感じる。
「そう……? でも、えっと──ごめんなさい」
乱の謝罪の声は、とても幼かった。そして細々としていた。
ばつが悪そうに目を伏せる乱が、悪いことをした仔犬のように見えて……可愛い、だなんて思ってしまう。
「──そんな謝るようなことじゃないよ、乱。オレの方こそ、乱を引き止めちゃってごめんな」
「え、そんなっ、幸まで謝らなくても──」
「……ホント、乱は優しいんだなあ。けどこれで、どっちも貸し借り? はゼロになっただろ? だから大丈夫だよ」
「──うん、幸がそう言うなら良いけど……もしまたあんなことがあったら、ボクのこと蹴っ飛ばしてでも逃げてね」
蹴っ飛ばすって……!
乱が不自然なくらい真剣な目をして言うものだから、何だか笑いが込み上げて──。
「ん゙っ、ふふっ……あはははっ──!」
「……? 幸、いきなり笑ってどうしたの?」
「だってさ、乱が面白くってっ──! ふっ、ふふ……」
ダメだ。オレの笑いの坪、相当イカれてるかもしれない。
いや、かもじゃない。確定だな。
乱が色んな表情をコロコロ見せてくれるから、嬉しいような可笑しいような──変な感じがしてきたんだ。
「もう、幸ってば……」
乱は大笑いこそしてないけど、いつもより少し明るい笑みを浮かべている。
それから──困ったように眉を下げる乱は、食卓に着くように催促した。
「ごちそうさまっ! 昨日もだけど、めっちゃ美味かった!」
食器洗いをしている乱の所まで、皿を下げに行く。
「ふふっ、お粗末様でした。そんなに喜んでもらうと、作り甲斐があるよ」
乱が用意してくれたのは──バターを塗った食パンに、ハムエッグとサラダ。そして程よい酸味のヨーグルトが並んだ、憧れの朝食だった。病院食の不味さと比べたら失礼なくらい、ほっぺが落っこちる美味さだ。
けどやっぱり乱は一口も食べていないみたいで、オレが食べるのを終始眺めているだけだった。
さっき食器を下げた時にも、使われた様子の皿は見当たらなかった。
ご飯、食べたくないのかな──。
「幸? 聞いてる?」
「──あー、ごめん! 考えごとしてた……もう一回言ってくれるか?」
「えっとね、幸に来てほしい所があるんだけど、一緒に行きたいなって」
「来てほしい所──……?」
「そう。怖い場所じゃないから、安心して」
──乱は、今までにない程柔らかい
乱が心安らげる所なのかな。そう思わずにはいられない顔つきをしている。
「乱がそう言うなら喜んで行くよ。それって、どんな所なんだ?」
「んーと……ボクが育った、大事な大事な所だよ」
「へえ、乱が育った──実家ってことか」
「実家、とはちょっと違うけど、似たような感じかな。良い人が沢山いるから、きっと幸も打ち解けられると思うよ」
もっと詳しく訊きたかったけど──手早い乱は皿洗いを終えて、行く支度を始めようとしていたから、オレは質問をやめた。
「幸は、またボクの服貸すから。ちょっと待っててね──」
そう言うなり、乱は階段を駆け上がって二階へ行ってしまった。
──少し経って、二階から乱の声が降ってきた。
「あー……後、歯も磨いちゃってていいよ。洗面台の場所、分かる?」
「うーん──まー何となく分かる! 歯ブラシはどれ使えばいい?」
「えーっと、袋に入ってるのが一本あるから──あ、棚の上にあるヤツだよ」
棚の上、棚の上──。
オレは直感で洗面台を探しだして、案外早く辿り着く。それから綺麗な洗面台の隣にある棚の上に、お目当ての歯ブラシを見つける。
「乱ー、あったー!」
「じゃあ、それ使っててねー」
乱に報告して、オレは歯を磨き始めた。
────それからしばらくして。
「よし、準備万端だ!」
乱の白いTシャツを着たオレは、興奮を胸にしながら靴を履いた。
後は乱を待つだけっ──!
「幸。半袖で寒くないか、一回外出てみてね」
「分かったー!」
リビングで準備をしている乱の声に返事をして、ドアノブに手をかける。
こんなに良い天気なんだ、最高に気持ち良くて暖かいに違いない! と、オレは意気揚々に外へ飛び出す。
「んーっ……! あったかいなあ──」
呑気に伸びをした──次の瞬間。
────気味が悪くなる程、全身が痒くなってきた。
「え……はっ? かゆ、何か痛いし」
半袖のシャツとズボンからはみ出た腕と足を、虫が這うような痒みが襲う。
首も、顔もだ。
最初はただの痒みだけだったのが、徐々に痛みを伴ってきて、掻こうにも痛くて掻けないレベルにまで達した。
「っ、やば──」
さっきまでの威勢は何処に行ったのやら──オレは謎の痒みに恐れをなして、屋内へ駆け戻った。
「乱、助けて、ッ──……」
オレはドアも閉めずに、玄関先の床に身を投げる。
フローリングがひんやりしてて、気持ちいい──熱を持った肌がたちまち冷えていく。それに比例して、痒みも治まってきた。
もう大丈夫だ──ゆっくりと深呼吸をする。
「っ──!? どうしたの……って幸──!?」
オレが倒れ込む音を聴いた乱は、鬼のような形相をして駆けつけてきてくれた。
「……誰にやられた」
乱はオレを抱き起こして──低く呟いた。その一言は、乱の底知れない怒気を孕んでいる。憎悪が渦巻き、そして静かな怒りが込められていた。
オレはその迫力に背筋が凍るのと同時に、真実を伝えようと口を動かす。
「違う、乱……! 外に出たら、全身が突然痒くなって──」
「……えっ?」
乱がいつもの調子に戻った。纏っていた雰囲気も次第に和んできた。
今だ、と一気に説明を続ける。
「外には誰もいなかったし、誰かに何かされたわせじゃないんだ。ただ猛烈に痛痒かっただけで」
「──うーん。外に出たら痒くなる、か……それ、もしかしてだけど」
太陽が原因なんじゃない? と乱は言った。
「太陽──……?」
オレは謎の痒みの正体に、何だか拍子抜けした。
「うん、太陽っていうより“日光”かもしれないけどね──幸、病院ではどんな服を着てたの?」
「えーっと……年中長袖を着てたなあ。それに、こういう天気の良い日は外出させてもらえなかったよ」
「やっぱり──話を聞く限り、幸の肌はとってもデリケートみたいだね。だから突然の直射日光に反応して、痒みが出たんじゃないかな」
……お、おおっ──! 乱、すごいぞ!!
確かにそれだったら理屈が通ってる。オレはきっと乱の言う通り、日光が苦手なんだろうなあ。
──ん? 待てよ、日光がダメってことはつまり──……!?
「オレ、外に出られないってことなのか……」
うわあ──……折角、晴れて自由の身になったっていうのに、また部屋籠りの生活なのか……。
色々な所に行けると思って、心の底から楽しみにしてたのに。
途端にしょげたオレを見かねた乱は、慌ててこう付け加えた。
「あ、でも──長袖を着たりして、紫外線から肌を守れば大丈夫なんじゃないかな? ボク、薄手のパーカーとかも持ってるし」
「──えっ!? じゃあオレ、普通に外を歩けるのか!?」
「うん。工夫さえすれば、きっと症状は出ないと思うよ」
それを聞いて、ホッとしたのと嬉しかったのと、ワクワクが戻ってきたのと──。
感情がごちゃ混ぜになって堪らず、目の前の乱に抱き付いた。
「幸──ごめんね、気付かなくって。ボク、長袖の洋服持ってくるから、また少し待っててくれる?」
「うん……ありがとう。迷惑かけちゃって、ごめん」
乱と出会ってから、ずっと乱の世話になりっぱなしだ。本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
けど乱は、気にしないで、と笑ってオレを優しく撫でてくれた。乱はその後すぐに二階に行ったから、どんな表情をしているかは見えなかった。
乱の手のひらの感触に、再び心臓が跳ねる。
──さっきの痒みとはまた違う火照りが、全身に感じられた。
「……ら、乱が戻る前に、服脱いどこ」
しばらくぽやーっとしてたけど、唐突に我に返った。
そうだよ、これ以上乱の手を煩わせないようにしなくちゃ。
オレは早まる鼓動に知らんぷりをして、脱衣を始める。
「お待たせ、これで大丈夫かな──……っ、え」
乱が軽い足取りで降りてきた頃には、オレはもう上半身の服を脱いでいた。
Tシャツを畳み終えた辺りで、ようやく乱の存在に気付く。
「あ、乱! 服、ここに置いておくよ──って、乱?」
乱は、階段を降りる途中で硬直していた。けど、オレの呼びかけにハッとして、とんでもなく駆け足で服を持ってきてくれた。
──何故かオレから顔を背けている。
「ゆ、ゆきっ、これ着てっ──暑かったら、また言ってねっ」
乱は自分の手のひらで壁を作って、オレを見ないようにして服を手渡す。
オレにはその理由がどうにも分からなくって──それを聞こうと、逃げようとする乱の袖を引っ張る。
「どうしたんだ、乱っ──」
オレは袖を引いた次の瞬間──先程の乱と同じく、硬まってしまった。
「幸……っ」
乱は赤面し、あの夜のように月色の瞳からギラギラと光輝を放っていた。
袖を掴んだまま、オレは静止する。
そして、あの夜──つい昨晩の光景が次々と思い起こされた。
狼そっくりの、欲望に忠実な眼。
手首と額に薄うっすら浮き立った血管。
銀色に照った唾液、その味。
「──ッ……!!」
鮮やかな記憶が脳を巡ると──ブワッ……、と何か、大きな波に呑み込まれる感覚に包まれた。
お互い、息も時も忘れて、ただ見つめあった。
きっとオレも乱も、似たような顔をしているだろう。
「ん、と──幸?」
静寂を破ったのは、乱だった。
何の前触れもなく口を開いた乱にびっくりして、オレはドキドキしながら答え──ようとしたけど、上手く頭が回らなくて、どうにも叶わなかった。
「そういうの、ボク以外に見せちゃ駄目だよ……?」
「あ──……っわ、分かった」
オレは何とも腑抜けた声で返事をする。
そういうのって、半裸のことか。友達っていうのは、別に裸を見せ合っても恥ずかしくない間柄だと思ってたけど──そうじゃないみたいだ。
乱は一息つくと、すっかり元の調子に戻って、
「じゃあ新しいの、置いておくからね。追手の目を
「──ああ、全然大丈夫だよ!」
オレの返答を聞いて、乱はまた自分の支度に戻っていった。
追手……そっか、忘れてた。オレ、まだ完全に自由じゃないんだ。
あの人──結が血眼でオレを探し回っているのが、目に見える。
オレは地頭が良くないから、知恵じゃあの人には勝ち目がない。その分知識で補うしかないけど──見つかれば一巻の終わりだ。間違いなく、今まで以上に束縛をして、オレを手元に置くんだろう。
乱と過ごせる時間だって、いつかは終わる──。
「(いや……今は、今だけを考えよう。先のことは見ないふりして)」
絶対に逃げきれる自信はないから。
最悪の結末が待っていることを知っていても、オレはそれから目を背けて“今”を楽しむことを心に決めた。
新しい服に袖を通し、前をしっかりと見据える。
「(楽しんで、物事を沢山経験して。突然乱と別れることになっても悔いが残らないように、とにかく生きよう)」
最後には、乱と一緒に見つけるんだ。
胸がキュンと詰まって、ドキドキが止まらなくなるあの感情を。
「幸、お待たせ」
「あ……乱っ!」
ひょこっと、リビングから顔を覗かせた乱に手を振る。
乱は目を細めて手を振り返してくれた。
──さっきと雰囲気が違いすぎて、若干の違和感を持つ。オレが気を遣わないようにしてくれているんだろうから、そのことについては何も言わないでおこう。
「これ、どうかな? 変じゃない……?」
部屋から一歩踏み出し、乱がオレの視界に入る。
乱が着ていたのは、白と黒で統一されたスタイリッシュなパーカーに、暗いネイビーのジーンズだった。
オレは乱のコーデを通し見て──。
「かっこいい……」
気付いた時には、既にそう言っていた。
「ホント? ボク、久し振りにこういうの着たから不安だったんだけど──」
「いや、すごい似合ってるよ! 手足がスラッとしてるから、よく映えてるし」
おちびのオレには到底無理な話だな……けど素直に憧れる着こなしの良さだ。
「ふふっ……ありがとう。幸は準備、整った?」
「勿論! もう外に出て確かめたし、準備万端だ!」
「そっか。──じゃあ行こうか」
「
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます