第7話 ひととして


「ボクは狂犬マッドなんだ」

 乱の家の、大きなベッドの上にて。

 乱はたったそれだけを告げた。オレのことを只管ひたすらに見つめながら。

 狂犬? 乱が──……?

 様々なことが頭の中を駆け巡って──そして全てが結び付いた。

「テレビでよく聞くでしょ? 異常傷害事件ってやつ。ボク、それの犯人なんだよ」

「……そっ、か──」

 ──怯むな。オレ。乱が傷付くだろ。察しはついていたんだから、今さら驚くな。

 オレは乱から少し目を逸らした。そして傷一つないフローリングに視線を向ける。驚きで脳が混乱して、言葉が上手く出てこない。

「(狂犬─……)」

 狂犬のことは、義兄あのひとから散々聞いていた。だからそれなりの知識はある。それを使って、狂犬の特徴と乱を照らし合わせてみることにした。

 まず第一に、狂犬は常人の範疇から逸脱した点が二つある。

 一つは頭の中。つまり思考力だ。彼らは、良くも悪くも非常識的で、一般人には到底理解できない考えを持っている。ということは──乱が人を食べたりするのも、乱の考えが元になっているのか。

 そしてもう一つは、彼らが持つ並外れた能力だ。狂犬の人々は何か一つのものを失っている代わりに、人智を超越した能力を授かっているらしい。

 そのは人によって異なっていて──例えば五感だったり、身体の部位だったり……日常生活でなくてはならないものなんだそうだ。失ったものが生活していくのが困難である程、授かる能力はより優秀なものになるとも聞いたことがある。

 乱は確か──いかにも重そうでデカブツの尊斗たかとを、軽々と引きっていた記憶がある。

 ──ここでオレはハッと気付く。

 あれだけのパワーを引き出せる乱に無いものは何なんだ──……?

「(全く、ホントに──オレは命知らずな奴だな)」

 義兄の「狂犬と関わってはいけない」、という声が何度頭をよぎろうと。

 尽きることのない好奇心だけが先走るものだから。今までに何百何千回と痛い目に遭ってきたけれど、どうしてもこれだけは抑えられないんだ。この馬鹿みたいな好奇心は、オレの数少ない長所であり、多すぎる短所の一つでもある。

 オレはすぐ隣に座る狂犬に──乱に視線を戻す。

「乱。詳しく聞かせてほしい──……乱が良ければの話だけどな」

「……ふふっ、いいよ」

 世間を恐怖に陥れている食人鬼と、真っ向から話したくなってしまったんだ。





「幸はもう気付いてたの?」

「薄々気付いてはいた。けど今、確信したよ」

 狂犬、異常傷害事件、食人、乱。あちこちに散らばった点と点は、たった一本の線になった。やっぱり乱は食人鬼だった、という事実だけが残っただけで。

 だけど、不思議と怖くなかった。

「そう──じゃあ狂犬のことは知ってる?」

「ああ。義兄あのひとに、耳にタコが出来るくらい叩き込まれたから」

「──そっか。それじゃあ話が早いね。ボクはね、他人よりも身体能力が高いんだ」

 高く跳ねたり、獣のように素早く走ったり、筋力が高かったり──。プロのアスリートでさえ辿り着けないような領域だと思うよ、と乱は言った。

「それと顎も強いかな。けどこれは狂犬の性質じゃなくて、ホントに生まれつきみたい」

「確かに──二つも与えられてたら、計算が合わないもんな」

「そういうこと。ここら辺までは幸も想像ついてたと思うけど──幸が知りたいのは、この先でしょ?」

 ボクに無いもの、とかさ。

 乱は妖しげに目を細めてそう言った。

「乱には敵わないなあ……図星だよ」

「やっぱり? じゃあ包み隠さず言うね──」


「ボク、味覚が死んでるの」


 間髪入れず、何の感情も感じられない声が部屋に木霊する。

「普通のご飯もオムライスも、それに人の肉も。味が分かんないんだ」

 乱は無機的な口調で説明をする。それから舌をおもむろに出して、

「このベロも、形だけのただのお飾りだしね」

 と加えた。

「その分他の五感は鋭くなったけど──味の良し悪しどころか、何にも分からないっていうのは結構クるよ」

「味覚が無い、か」

 あれ──……? ここで一つ、疑問が残った。

 で乱のあの身体能力と釣り合うのか? それとも味覚の有無にはもっと何か別のデメリットが──……?

「(あ──もしかして)」

 味覚を失っている、っていうのは案外軽いものだと思ったけど──違う、そうじゃないんだ。やっと気付いた。

 乱の言うように、五味を感じられない苦痛も勿論あると思う。ただそれ以上に、味覚は命に関わる大事な感覚なんだ。

 どんなに新鮮な食材でも、いずれ腐り、食材としての役割を果たせなくなる日が来る。臭気を放つことで腐敗したことを主張出来る食材もあるけど、そうでない食材だってある。そんな時は──というより腐る前に味を確認して、食中毒の危機から脱却する必要があるんだ。

 食中毒そのもので死亡する確率は高くはないけど、その後の脱水症状はかなり危険だと聞いたことがある。

 ──ちゃんと納得出来る理由があるんだな。

「……じゃあ、何で人を食べるんだ?」

 ただ、こっちの理由は未だ分からずじまいだ。

「幸、痛いとこ突くね。んーと、それは」


 ────キュルッ、クルルル……。


 いっちばん訊きたかった所を切り裂いたのは、聞き覚えのある音だった。

「(腹の音……乱か? ──待てよ、だとしたらまた乱がっ……!?)」

 デジャヴだ。

 この前も丁度こんな具合に、腹の鳴る音がきっかけで乱は豹変したんだ。きっとオレが気を失っている間、満足の行くまで食事が出来なかったんだろう。

 乱がオレにどの程度心を許しているかは分からないけど、もし乱がオレを食べようとしたら、オレは──。


 乱の眉間がピクリと動いて、間もなく──視界が大きくぶれた。


「らん、ッ──……?」

 視界が定まった時には既に──乱に押し倒されていた。

 骨張っていて大きな片手で、乱はオレの両手首を無造作に束ねた。

 今のオレは、真上にある乱の顔を見ることしか許されていないんだ。

 爛々と昂った満月のような瞳には、身動き一つ出来ない惨めなオレが映っていた。乱は餓えた狼のようなまなこを欲望に燻らせながら、ギリギリと歯を食い縛っている。その口から漏れた荒い息が、火照りが直に感じられる。

 それがくすぐったいような、変な感じがして反射で動こうとしてしまう。

 しかし──オレが逃げようとするのとほぼ同時に、乱は手の力を更に強めた。

 それから乱は用の無かったもう片方の手で、オレの顎に荒々しく指を添えた。

 たらり────……。

 乱の口の端から、銀色の糸を引いて唾液が垂れる。それは、オレと乱の僅かな隙間を伝って、口内に容易く入っていった。

「幸」

「っ──……!?」

 初めてだ。腹を空かせた乱に、自分の名を呼ばれた。

 低くて艶のある声が、腹の奥にズンと響く。

「幸──俺についてくって、言ってたよね」

「──んっ、言った……」

「幸は……これでも、そう言ってくれるの?」

「これっ……? っ、あ──」

 容赦なく闇を裂いていた月が、ほんの一瞬──蜂蜜のように蕩けて、潤んだように見えた。

 顎に添えていた指が離れ、今度は親指がオレの頬を優しく擦った。

「俺は──友達と呼んでくれた奴ですら、食おうとするひどい奴だ……己の欲に耐えられない化け物同然だよ」

 乱は嘲笑的な調子でただ淡々と続けた。

「不安定で、利己的で、暴力しか知らない狂犬マッドを──幸は、認めてくれるの?」

 オレに体重をかけないように浮かせていた乱の腰が、突然ガクンと沈んだ。オレの身体にそのまま重なるようにして、乱は崩れ落ちた。それでも乱はオレに体重がかかりすぎないように調整してくれているみたいだ。乱くらいの背丈の男がオレに被さったら、オレは押し潰されてしまうから、気遣ってくれているんだ。

 空腹の限界をとっくに迎えているのに。オレをもてなして、疲れているのに。

 そして乱は、オレの顔の横に顔を押し当ててしまった。オレの手首を捕らえていた手もすっかり緩まっている。

 乱、顔を見せたくないのかな。

「──乱。そのままでもいいから。オレの話を聞いてほしい」

 返事はなかった。

「オレ、乱が沢山話してくれて嬉しかったよ。そりゃ驚きもしたけど──出会ったばかりのオレに話してくれて、ありがとな」

 隣に立った時はあんなに大きかった乱。けど今は幼い子供のように身を縮めている。

 そんな彼の頭に、そっと手を置いた。

「っ──……」

 乱が苦しげに息を吸う音が聴こえてきた。

 ──乱の反応が返ってきて、少し安心する。そしてオレはそのまま、乱のことをゆっくり撫でる。

 きめ細やかな漆黒の髪の毛を指に通しながら、慰めるようにただただ撫でた。

「乱が言いかけたこと、いつか伝えてほしい。勿論、落ち着いたらで良いからさ」

 けど、これだけは覚えてほしい。と、オレは語調を少し強くして言う。

「食人鬼として生きる理由──それはちゃんと、オレが納得出来るものだって信じてる。乱が教えてくれるまで、乱の友達として待ってるから。だから──……乱もオレのこと、信じてくれるかな」

「──ッ、ゆきっ……」

 やっと聞こえた乱の声は、窓から射す青白い月光のように細く、繊細だった。

 ベッドに突っ伏していた乱はほんの少し動いて──何かを決したのか、オレの方を向いた。

「俺──人を信じるのが怖いし、幸のことも数え切れない程怖い目に遭わせるかもって不安でいっぱいだよ。けど──幸にそこまで言われたら、応えないのは野暮だよね。俺も、幸のこと信じてみたいな」

 手負いの狼は、僅かに残った力を振り絞って、精一杯の笑みを浮かべたみたいだ。

 絶えず変化していた月のような瞳も、最後には三日月の形におさまったらしい。琥珀色アンバーが物憂げに揺れているのを見た限り、いつもの乱に戻れたようだ。

 ──いや、抑えつけてしまっているんだ。乱は空腹を堪えながらオレと話してくれているんだ。

 一刻も早く乱を食事に行かせなきゃだ。

「乱、腹減ってたのにごめんな。もうオレ寝るから、あんまり遠慮しないでくれよ」

「うん──ありがと。じゃ、もう行くね……おやすみ、幸」

「おやすみ、乱」

 乱は力なくベッドから身を起こすと、ふらふらとおぼつかない足取りで寝室を離れていった。電気は部屋を出る時に乱が消してくれたみたいだ。

 玄関と同じ、ぬくもりのある橙色オレンジの光が暗い部屋を灯す。

「(何か、どっと疲れてきたなあ──……)」

 乱のことを深く知れたのは、大きな一歩だったと思う。狂犬のこと、味のこと、心の奥底の脆くて弱い所──。    

 たった数時間前に会った他人だとは思えない程打ち解けることが出来たのが、不思議で仕方がない。境遇がすこーし似てるからかな……?

「(それと──乱があの食人鬼だって分かった時、何で怖くなかったんだろう)」

 オレが人一倍知りたがりで、好奇心の塊みたいな奴だから? 何となく予想がついてて、知らないうちに心の準備が出来ていたから?

 それとも──相手が大切な友達だったから?

「うぅ~……分かんないな」

 今日は頭働かせすぎた。もう眠たいし。正しい時間は分からないけど、感覚的にもう深夜な気がするし。

「(無理だ。もう寝よう。考えるのはまた今度っと)」

 数々の困難を乗り越えてきたオレだけど、睡魔には勝てなかった。

 睡魔に白旗を降りつつ、重力に従って目蓋まぶたを閉じた。


 ああ──明日も明後日も、良い一日になる気がするなあ。

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