第3話 ひとつの経験


「ねえねえ、ボクも混ぜてくれなーい? ボクこーいうの大好きだからさっ」 

「は? ンだテメっ──」

 尊斗たかとのパンチの軌道が逸れ、それからドスッ──……と鈍い音が聴こえた。そう認識した時には既に、尊斗はドミノ倒しの一ピースのように後ろ向きに倒れていた。おおよそさっきの音は尊斗が尻餅をついた音だったんだろう。

 丁度尊斗が倒れたことで、奴の後ろに立っている男の姿があらわになった。ほとんど陽が落ちて、辺りは街灯に照らされているから、はっきりと視認できた。

 見た感じ、尊斗よりも長身で、しかも細身だ。夜のように真っ黒なシャツ、それとズボンで身を包んでいる。

 何より奇怪なのは、その男が付けていた面だ。牙を剥き出した黒いいぬを模しているようで、天狗の羽根のように黒く禍々しい。

 未知との遭遇──。

 何が起こったのか全く分からないけれど──男の爪先には何故か、倒れた尊斗の頭があった。寝そべる尊斗の枕のような形になっている。

「ぐッ──!? 痛ってェ……」

 背中を思い切り打ったせいか、尊斗は苦しそうに呻いている。その様子を見た黒スーツの男は、クスクスと小馬鹿にするように嘲笑した。

 それから足元の尊斗の顔を覗き込んで、

「ちょーっと足払っただけで倒れちゃうとか、キミ弱すぎじゃない? そんなに弱くて今までよく生きてこられたねー」

 だなんて言って、尊斗を煽りに煽った。

「あ゙ぁ!? そりゃどーいうつもりだ……!?」

「言ったまんまの意味だけど? 喧嘩上等、逆らった奴はぶちのめす! ……みたいな見てくれなのに、心も身体も弱いんだなぁって思っただけだよ」

「テメェ……言わせておけばゴチャゴチャ喚きやがってッ──」

 ダンンッッッッ──……!!

「お前いい加減黙れよ」

「ッひ──……!?」

 何かが凄まじい勢いで叩きつけられた、鋭い音が鼓膜を突き刺す。黒い男以外の三人はその暴力的な音に、意図せず息を飲み込んだ。

「ボク全部見てたよ。お前がそこの二人に何してたかとかさ」

 震える視界の中、ようやく目の前の事態を理解できた。

 ────黒い男が、尊斗の耳元目がけて踵落としをしたんだ。男は如何にも固そうな革靴を履いているけど、それでもこんな音は出ないはずだ。ありえない。あるはずが……ない。

 並々ならぬ恐怖で視界が震える。息すらままならなくなってきた。今すぐにでもここから逃げたい。立ち去りたい。

 けど彼女を置いては行けない。例え計らいだったとしても、オレを逃がしてくれた人だから。だけどやっぱり逃げたい。けど、けどッ──……!

「やっぱりボクが目を付けただけあるよ、キミ。ボク好みの、美味そうなごみだね」

「っ──……まッ、待て……!」

 恐怖に痺れる脳と喉で、やっとのことで絞り出した。オレの存在を確認した男は、突き刺すような視線でオレを捉えた。

 仔兎を掴む鷹のようなその眼差しに、オレは瞬時に背筋が粟立ったのを痛い程感じる。

「……んー? なーに?」

 尊斗に向けていた重苦しい雰囲気から一変、甘く蕩けたような声がオレに向けられた。

「お……お前の目的は、何なんだ? その男を、殺すのかっ──……?」

「ボクはねー、コイツを食べにきたんだよ」

 はっきりとした狂気。それは、言葉として具現化されることで、より場の空気を歪ませる。

 そして男は場の静まりを楽しむかのように口をつぐんだ。それから満を持して「殺しはしないよ」とだけ付け足した。

「あっ……ア゙アアアアッッッッッ! 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だいやだいやだ──ッッ!!」

 自身の置かれた立場をようやく飲み込めた尊斗は、駄々をこねる幼子おさなごのように、声の限り──命の限り叫ぶ。両足をジタバタと動かし、汚い爪で顔を掻きむしった。しかしそんな尊斗には目もくれず、男は話を続けた。

「ちょっと前にコイツとすれ違った時、すっごくいい匂いがしてね、気になって追いかけてきちゃったんだ。ボクねー、人一倍鼻が利くんだよ」

 男は戌面の鼻にあたる箇所を指差して、自慢げに笑った。

「こういう奴をぱくっ──って食べちゃうのがボクの役目だから。だからキミはそこのお姉さん連れて二人で逃げて良いんだよ? キミ達はボクの好みじゃないからね」

「──あの、待ってください……!」

「(蒼良さんっ──……!?)」

 戌面の男が姿を現してからずっとだんまりだった彼女が、不意に口を挟んだ。

 オレは男から目を離さず、耳だけを彼女に向けた。

「その男を、本当に食べてくれるの……?」

「勿論だよ。そのためにここまで来たんだもん」

「もう、私に危害を加えられないような体に、してもらえるんですか?」

 蒼良さんの話し声は、徐々に上擦るような声色になっていった。それに僅かな変化を感じたのか、戌面の男は何故か急に落ち着いた様子になって、

「そうだよ」

 と答えた。

 ──オレには、蒼良さんがただの質問をしたとばかり思っていたけれど、目前の男にとってはそうではないものだったらしい。

 根拠は、彼女のだった。

「……アハハハハハハァッッッ────!! やっと解放される、自由になれるっ!」

「あなたが誰か知らないけど、その倒れてる男連れて早くどっか行ってくれなぁい!? 何ならっ、っちゃってもいいからさぁ!」

 語尾の伸びる、彼女の口調くせ。懐かしかったそれは狂気に染まり、聞くに堪えないザマになってしまった。余りの豹変ぶりに思わず、彼女を一目見ようと振り向く──。

「蒼良、さん──……っ!?」

 蒼良さんは夜空を仰ぎながら、泣きさけんでいた。じゆう、じゆう、と零しながら、透き通った涙を流していた。

 ──女神と見間違える程、ただただ美しい姿だった。

 思わず見蕩れて──……。

「──茶髪のキミ」

「ッ!? 何だっ──」

 背後にまだ脅威が潜んでいることを忘れていた。

 オレは再び緊張を纏い、男と向き合った。

「彼女、キミの知り合いなんでしょ?」

「──……ああ。オレの……っ、恩人だ」

「そうなんだ。じゃあ早く心の手当て、してあげなよ」

 そのお姉さん、今にも心のが消えそうだよ──。感情の起伏のない無機質な声で、男はそう言った。

 男に告げられて、オレはようやっと気付く。

 蒼良さんの気持ちがどれだけ引き裂かれていたのか──。

「……蒼良さんっ」

 そして振り向く。

 オレは蒼良さんの傷だらけの手を取った。

「今まで辛かったですよね……怖かったですよね」

「アハァ、アハハハッ──!」

「相談所に行きたくても行けなかったんですよね、オレ、他の看護婦が話してるの聞いたことあるんです」

 蒼良さんの主人マスターさん、無理やり蒼良さんとペアの契約結んだらしいよ──。

 蒼良さん、見る度青痣あざが増えてるし、絶対おかしいわ。しかも行動まで制限されてるって──。

 数えきれない程、蒼良さんに関係する黒い噂は耳にしてきた。オレの義兄と余りにも似ていたから……主人の怖さを知っていたから、何もしてあげられなかった。

「アハハハハぁっ……!」

「やっと逃げ出せたのに主人に見つかって、動揺したんですよねっ……それでオレが出てきて更に心を掻き乱されてっ──」

 蒼良さんの両手を繋ぎめる。どこか遠くに行ってしまいそうな気がしたから。強く、強く握りしめる。袖口から、グジュグジュに腐敗しかけた傷が見えても。け反った首の痣が目に映っても。

 この心の灯を絶対に消させない。

「それで変なお面の奴が出てきて、主人がじ伏せられてさ。蒼良さん、器用じゃないから気持ちを整理出来なかったんじゃないですか?」

「はは、はぁっ……ゔうぅ……」

 息継ぎもせずに笑い続けた蒼良さんがようやく、喉に溜まった涙を飲み込んだようだ。

「もう我慢しなくていいんですよ、笑っちゃうぐらい泣いていいんですよ」

 ──あなたは自由ですからね。

「っ……うん゙っ……うんっ……ごめっ、ごめんなさいっ……!」

 その一言の謝罪を皮切りに、蒼良さんはオレの肩に顔を埋めて声を振り絞って泣いた。

 戌面の男がどんな顔をしてオレ達を見ているかなんて微塵も気にせず、蒼良さんは泣いた。

 

 一頻しきり蒼良さんが泣いて気が済んだ様子になったのを見計らったのか、戌面の男は、

「──ソラさん? ボク、キミがこれから笑顔で生きていける場所、知ってるよ」

 と今までにない無垢な声で言った。その声が純粋すぎて、一瞬彼のものではないと耳を疑った程だ。

 無論、蒼良さんが飛び付かないはずもなく──。

「それって、どこなんですかぁ……?」

 彼女が今、藁にも縋るような思いだということは言うまでもない。察しのいい戌面はおもむろに歩み寄って、蒼良さんに小さな紙切れを渡した。

 そして蒼良さんの目線までしゃがみこんで、話をしだした。

「キミみたいな境遇の飼犬が、ここには沢山いるよ。きっと上手くやっていけるから」

 本当なら、こんな怪しい男の言うことなんて聞くモンじゃないけど──状況が状況だからなあ。

 最初に感じていた狂気が嘘みたいに消えてるんだ、何だか信じても良いような気がしてきたよ。今はやっぱり、この男を信じる他ない。

 ────が。安堵は絶望に無情にも引き裂かれる。

「ッ、は……テメェら、ナメた真似しやがって──ッ……!!」

 っ、まずい──尊斗の存在を忘れていた……っ! 今まで静かだったのは、恐怖で気を失っていたからなのか──……? 口の端の泡の跡がそれを物語っている。

 尊斗は丸腰とはいえ筋骨隆々の大の男だ、殴られでもしたらかなりまずい──……!

 尊斗が、奴の一番近くにいた戌面の男目がけて突っ込んできた……っ──!

「お前、危なっ──」

「下がってて」

 そう言ったが早いか、戌面は踵を返して尊斗に挑んだ。

 尊斗の、馬鹿力に任せた単純な攻撃はいとも容易く流され──反対に拳を突き出した腕を戌面の男に掴まえれて、そのまま前へ引っ張り倒された。

 一番最初に尊斗が倒された時もそうだったけど、丁度身体が倒れてくるタイミングで後ろに退いているから戌面はあの位置に立てたんだと理解した。

 いや、それにしても──何ともあっけなく、情けない敗北だった。

 戌面の男は、尊斗を今度はうつ伏せにしたまま、頭を足で押さえつけた。もう動くなと言う代わりに、ギリギリと足に力を加えているようだ。

「そこの二人ー。怪我はないー?」

 少し遠くから戌面の声が飛んできた。

 目の前で起こったことが稲妻のように速かったから、まだ頭で理解しきれていない。頭がボーっとして……。

「ゆ、幸さん! 返事聞かれてますよぉ……」

「──えっ!? あ、はいッ」

 蒼良さんに声をかけられて、やっと返答をした。

 何か、柄にもなくボケーっとしてたみたいだ。もう興奮することなんてないハズなのに、心臓がバクバクして……。変な感じだ。

「そっか、良かったー。じゃあボク、コイツの処理しなきゃいけないから──ノクスー、おいで」

 そう言うと戌面の男は、何故かその場で手を叩きだした。

「ん? ノクスって……」

 まさかこの男の仲間か!? ……と身構えたが、やって来たのは──……。

「は!? 狼ッ!?」

 闇夜に身を溶け込ませながら颯爽と現れたのは、艶やかな漆黒の狼? だった。

 真っ直ぐに戌面の男に駆け寄り、真っ赤な舌を出して喜びの感情を示している。

「ううん、ノクスはシェパードの男の子だよー。ボクの相棒パートナーなんだ」

 豊かな毛並みの尾を忙しなく振りながら、ノクスは彼の飼い主の手をペロペロと舐めた。

「茶髪のキミも──ソラさんと同じような感じなんでしょ? だから二人ともノクスに施設まで送ってもらうよ」

「──え!? ノクスは道が分かるのかっ……!?」

「当たり前じゃん。ノクスは護衛だって出来る、唯一無二の相棒なんだよ? 安心して」

 戌面の男が、ノクスに何か指示を出すような素振りをした。一通り指示を把握したのか、ノクスはGoのサインが出ると同時に、オレ達の元へ走って来た。

「わふっ! ワンっ、ワンワン!」

 興奮状態のノクスは、オレに飛び付くなり顔を舐め回してきた。顔が擽ったくて、思わず笑みが溢れる。

「わはっ──! よしよし、分かった分かった」

 生まれて初めて本物の犬に触れて、オレもノクス並みに気持ちが昂ってきた。それに顔がペショペショして、ひんやりする。

「えぇ、かわいいっ……!」

 一泣きして落ち着きを取り戻した蒼良さんも、思わずそう言ってしまったみたいだ。ホント、オレも同感ですよ!

「ははっ、ノクスも懐いたみたいだねー。──それじゃノクス、頼んだよ?」

「わうんッ!」

 自信満々に返事をするノクス。その姿に心が和らぐと同時に──……。

「(あのお面の男に助けてもらった時の、あの変な気持ち──何なのか知りたいな)」

 もう別れる寸前、という所でオレは思い留まった。

 感謝とも尊敬とも違う……。心の奥がキュッと甘酸っぱくなったみたいで、頭の中がモヤモヤするあの感じ──。

 この男と一緒にいれば、いつかこの気持ちの正体が分かるのか……? それからこの男の正体も──。

「……なあ、一つ頼みがあるんだけど」

「んー? どーしたの?」

 ドキドキして、胸が詰まるようだ。心臓がやけに早鐘を打つ。

「オレも、連れていってくれないか」

「……」

 連れていってくれ、なんて自分でもよく分からない質問をしてしまった。けれど今のオレにはそれくらいしか言葉が思い浮かばなくて。

 断られるかもしれない。機嫌を損ねさせるかもしれない。そんな不安が邪魔したせいで声が少し震えたけど、精一杯の思いは伝えられた。

 面の下の表情が読めないのが何とももどかしい。けどしっかり面と面を向かい合わせて、彼を見つめる。

 さあ……どう返すか?

「──いいよ」

「えっ──ホントか!?」

「だって、断る理由もないしさ……ボクもお兄さんに興味あるし」

 えぇ──何か、拍子抜けしちゃったな……。けどその二倍──いや三倍……いやいや、どーんと百倍ッ──! 嬉しくて仕方がない。

「お姉さんはまだケアが必要そうだから、施設に直行するのをオススメするよ。茶髪のお兄さんもそう思うでしょ?」

「ああ、勿論だよ」

 オレと違って追われる必要もないんだし──……という言葉は飲み込むことにした。今は一時的に義兄の目を眩ませられているだけで、いつ義兄が暴走し出すかは見当がつかない。

 この面の男についていけば、ある程度の時間稼ぎにはなるだろう。そう思ったのも、この決意の理由の一つだ。

「じゃあ──ノクス。 そのお姉さんだけ送ってもらえる?」

 ノクスはコクリと頷くような素振りをすると、そのまま闇夜に消えていく。そして、ついてきて、と言うように振り返るノクスに、蒼良さんは躊躇うことなく後に続いて行った。

「幸さん……」

 が、最後に一歩、蒼良さんは踏み留まった。

「──オレにはあなたのことを責める権利はないですから。それにきっと、楽しいことがたっくさんが待ってますよ! オレ、こういうの当たるんです」

 蒼良さんの小さな肩がビクリと大きく跳ねた。それでも気にせずオレは言葉を続ける。

「最後に──……オレを救ってくれて、ありがとうございました」

 最大限の感謝を今、彼女に伝える。

 オレは真っ直ぐに彼女を見つめた後、深くお辞儀をした。するとそれに呼応して蒼良さんも、深々と頭を下げてくれた。

 オレと蒼良さんの別れの挨拶は、それで十分だった。


「見送りは済んだ? お兄さん」

「ああ……もう心置きなく前へ進めるよ」

 宵闇の中を突き進んでいった蒼良さんを見て、オレも前進するエネルギーを得たからなっ! もう──いや、今のところか。心に曇りは無くなった。

「お兄さんが明るい気持ちになれたようで良かったなー。……じゃ、早速なんだけど」


 ボクの食事を見てもらおっか。


 無機質な声が、無人の路地裏に響く。

「ああ! よろしく頼むなっ!」

 ──だなんて、おかしなテンションで返事をしてしまったことを、オレは後々後悔しなければならない。

 そんなことを知る由もなく、オレは戌面の男に晴れやかな笑顔を向けた。

 蛍光灯が揺れてさざめく雑音が耳に残った。

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