ソウはエリーの言葉を陰からじっと聞いていた。中央広場は見えるが、デグローニの監視には見つからない位置に陣取っている。

 リンヤの説得に成功したあと、少し頭を冷やしたいと言ったリンヤを置いて、ここまでやってきた。そこでガルの演説も全て聞いた。エリーの言葉も全て聞いた。最もいいタイミングで出ていくために、ソウはただ待っていた。

 ガルはエリーの必死の説得も無視し、集まった人々の方を見る。

「なら俺たちの憎悪はどこへ持っていく!」

 拡声器を使わずともグローリーシティ中に響きそうな声だった。エリーの言葉も利用したガルの声に、すぐに一人の男性が賛同した。先程証拠を求めた男性だ。一人動き出せば、民衆はそちらに乗る。そういう人間の集まりだ。そして一度暴徒と化した人間たちは、止まらなくなる。

 ソウは腹の中を探った。へその内側、そのさらに奥、深いところに小さな熱がある。その先を無理やり捕らえると、一気にその熱量が膨らんだ。全て吐き出したい衝動に駆られる。その気持ちを抑え、その一部を引き出した。すると、思った通り時が止まる。

 一瞬にして音が消える。僅かに感じていた空気の流れも、風も、全てなくなる。恐怖にひきつった表情のエリー。闘志を瞳に抱くガル。戸惑う人々。全てが止まっている。ソウは建物の陰から出ると中央広場の真ん中へ向かう。ひしめき合う人々の体も少し押せば動いた。そして叫びを上げた男性に隣に立つ。

 引き出した分の力は、ちりちりと減っていっているのがわかる。それを自ら潰し、弾けさせる。

 ふわりと空気が動く。

「その憎悪は、俺の元へ」

(その憎悪は、俺の元へ)

 突如聞こえた声に、その場の者全員が震撼した。次々視線が向けられる中、ソウは男性の腕を取り、そっと下ろした。近くの者にはソウが最初はここにいなかったことがわかっているが、遠い者にはそうは見えないだろう。せいぜい口と脳、両方で喋ることに驚いたくらいだ。

 また先程と同じ要領で時を止める。今度は人の間を縫って壇上へ向かう。エリーをすぐ守れるような位置に立ち、また力を発散させる。

「ソウ……!」

 エリーが心底驚いた声音で言った。その声で人々が今度は壇上を見る。またも突然現れた人間を見て、広場に動揺が広がっていく。さすがに範囲指定は誤っていないが、それでも明らかに会話しているとわかるグループもいる。

「俺の名はソウ。九代のソウと言った方がわかりやすいだろうか」

(俺の名はソウ。九代のソウと言った方がわかりやすいだろうか)

 口と脳、同時に言葉を紡ぐ。この場のエリー以外の人間には、ソウの言葉が二重に聞こえているだろう。言葉を聞いて、羨望や驚きの色を見せた人間がちらほらいる。

「俺はシティの現体制に、疑問を抱いていた。完璧な都市だと謳うなら、辛く思う人間も、悲しむ人間も出ないはずだ。その疑念からデグローニに参加したこともある。そして市長の死にも立ち会った」

(俺はシティの現体制に、疑問を抱いていた。完璧な都市だと謳うなら、辛く思う人間も、悲しむ人間も出ないはずだ。その疑念からデグローニに参加したこともある。そして市長の死にも立ち会った)

 異様な力を操る少年。長年首席を譲らない少年。エリートコースが確約されている少年。それだけで人々の耳を全てこちらに向けるのは容易だった。話していたと思われる人々も、今はソウの方を見ている。

「最終的に俺は、復讐ではなく変革を望んだ。シティ側の人間を殺し、たくさんの血を流す道ではない。血を流さず、皆で変わっていく道だ」

(最終的に俺は、復讐ではなく変革を望んだ。シティ側の人間を殺し、たくさんの血を流す道ではない。血を流さず、皆で変わっていく道だ)

 エリーの息遣いを間近に感じる。それが少し揺れているように思えるから、泣いているのかもしれない。グローリーシティに関係のない人に、ここまでやらせてしまった。今度は内側の人間の番だ。

 ソウはゆっくりと中央広場全体に視線を走らせる。

「ガルの言葉でシティへの憎しみが生まれた者もいるだろう。だがここはどうか、俺にその憎しみを預けてはくれないだろうか。俺がここを変える。それまで血を流すのを待ってはくれないか」

(ガルの言葉でシティへの憎しみが生まれた者もいるだろう。だがここはどうか、俺にその憎しみを預けてはくれないだろうか。俺がここを変える。それまで血を流すのを待ってはくれないか)

 ソウの言葉を聞いて、人々の大部分は表情を和らげた。元々焚きつけられる寸前だったから、手遅れにならなかったのだろう。そもそも今まで逆らうことなく、粛々と命令に従うことの方が多かった。危険のない命令に従う方が慣れている人たちだ。

 あとは……。

「変えるって、どうするんだ。何年かかる? いや、何十年かかる? 本当にできるかもわからないことのために、おれらに待てと言うのか? ソウ」

 ガルが怒りに満ちた表情をソウに隠さずぶつけてくる。ガルのこの言葉は全てのデグローニを代弁している。もう流れを変えられないにしても、ガルはここで引くわけにはいかない。引けるはずもない。

 ソウは朝焼けのような薄紫色の瞳を、ガルに向けた。

「そうだ」

 一言、返す。ガルの口元が震える。

「ひっ」

 エリーのひきつった声が聞こえた。ガルが急にソウの胸ぐらを掴んだからだ。大柄なガルに持ち上げられ、ソウの足は少しだけ浮く。

「それで人生をかけた行動をやめろって言うのか。お前の薄っぺらな言葉のために?」

 表情に相対して、ガルの声音は落ち着いたものだ。腹の底に響くような低く重い声だった。

「このまま争いを続けては、皆傷つく。たとえエリーが傷を癒してくれたとしても、デグローニにだって犠牲者が多く出るはずだ。俺たちに必要なのは争いではなく、歩み寄りだ」

「一方的に虐げてきた側に歩み寄れってか。そんなことするくらいならおれらは傷を選ぶ。犠牲の上に成り立つシティの崩壊を選ぶ」

 ガルの言葉は、仲間を駒として見ているような無責任なものではない。一つの思いを遂げるために、皆覚悟してデグローニに入っている。生者の思いも、死者の思いも、全て背負い、前線に立つ。それがガルなのだ。だからこそソウも憎みきれなかった。

「ではその崩壊のあとに何をする? シティ側の人間を殺しつくした先で……」

 ソウの言葉は最後まで続かなかった。二人のやり取りを不安げに眺めていたエリーも、はっと視線をそちらに向ける。

 リンヤだ。ゆらりとガルの背後に現れる。ついに駆けつけてくれたのかと安堵したのも束の間。その手の中にあるもの、鋭くとがったナイフに、視線が吸い寄せられる。

「待て!」

 ガルを殺してこの争いを終結させる気だ。

 即座に悟ったソウの口から自然と叫び声が漏れる。リンヤがガルに向かって走り出す。手では間に合わない。腹から無理やり力を引き抜き、時を止めようとする。

 パチンッと、小さな音がした。

 依然として、周りの音は聞こえている。リンヤの足音も、ガルの息遣いも、遠くから聞こえる争いの音も、全て。力を使いすぎたのだ。もう残っていない。もう。

 無意味に手を伸ばす。届くはずもない手で、リンヤを止めようとする。リンヤがナイフをまっすぐ構えたまま、ガルに向かう。その脚が、手が、ガルの背に、届く――

 時が止まった。

 違う。

 リンヤだけ、止まった。

 ナイフの切っ先がガルの服すれすれのところで止まっている。リンヤ自身が止めたのだ。

「ガルさん、俺、思ったんだ」

 リンヤがナイフを強く掴んだまま、うつむきがちに話し出す。ガルはソウの体を下ろす。視線は前に向けたままで、リンヤの方を見なかった。

「こうやって簡単に人は殺せる。その技術をここで学んだ。そして俺は殺した。ガルさんも殺して止めようとした。でもそれじゃ、きっと繰り返すだけなんだ」

 ソウもエリーもリンヤの言葉にじっと耳を傾けた。あまりに早く痛みを知ってしまった友人の言葉を。初めて聞く、彼の本音を。

 遠くの方から、争いの音がこだましてくる。耳に入ってくる。音を背景に、耳はしっかりリンヤの声を選んで拾う。

「もちろん復讐を後悔なんかしてない。俺の行動も、デグローニのやり方も、正統だって思ってる。でも……それでも、ソウなら変えられる。ソウなら信じられるって、思ったんだ。シティは憎くて憎くて仕方ない。今でもあの日を思い出す。だけど、楽しかった」

 リンヤが顔を上げる。今にも泣きだしそうなその表情は、きっと十年前と同じものだ。

「デグローニのみんなとくだらないことで笑えた時、楽しかった。憎しみで心がいっぱいでも笑えた。俺はその気持ちを忘れたくない。たぶん、ソウが選ぶ道なら、忘れずに済むんだ。ガルさん」

 青磁色の瞳が穏やかな光を湛えてガルの背に注がれる。その表情は辛そうに歪んでいるが、憑き物が落ちたようにも見える。

 ガルはそのまま動かない。リンヤの言葉が終わっても、その場でじっとしている。リンヤも口を閉じたままだ。ソウも、エリーも、黙っていた。しばらく無言の時間が流れた。やがてガルはリンヤの方を振り返る。大きな手をリンヤの頭に乗せる。ソウからはガルの背しか見えなかったが、柔らかい雰囲気なのは察することができた。

「結局は、お前を一番思うやつが、お前を変えたんだな」

 小さく呟いて、ガルは歩き出す。周りのデグローニに軽く合図し、一同揃ってその場を去っていく。リンヤの瞳から、一筋の涙がこぼれた。太陽の光を受け、まるで宝石のように輝いている。

 何か声をかけた方がいいのだろうか。こういう場合はそっとしておくべきか。

 まだまだ人の感情に疎いので、どうすればいいかわからない。迷っている最中、腹の奥底が大きく脈打つ。

「ぐっ」

「うぁっ」

 そのあまりの強さに思わず腹を押さえる。隣から似たような呻きが聞こえた。エリーだ。エリーも同じ状態なのか、確かめようとした。

 ――イカナケレバナラナイ

 しかしそれをかき消すほどの意志が脳を支配する。腹が速く強く脈打つ。その揺れで体を持っていかれそうだ。そこから全ての器官が浸食されていく。周りの情景が見えない。何も考えられない。ただ一つ確かなことは、行かなければならない。それだけだ。

 ソウの淀んだ瞳が、隣に立つ少女を捕らえる。ソウと同じ薄紫色の瞳は、やはり淀んでいる。小さく頷き合った二人は走り出した。

「行くな! ソウ! エリー!」

 すぐにその腕を誰かに捕まれる。誰だかわからない。邪魔をする悪い人間がいる。

「あいつのところに行ったらだめだ!」

 その人間の声が、耳を貫く。うるさい。行かなければならない。腕が動かない。行かなければならない。邪魔をするな。行かなければならない。

「行ったら……行ったら、二人は死ぬ!」

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