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「痛みを感じる心は、同じだから」
手をかざす。先程治療しきれなかった人の傷に光を向ける。
「身体でも心でも、傷を負えば痛い。そこにグローリーシティもデグローニも、モエギも、関係ない。だから私はこの人たちも治したいんです」
自分の力を過信してはならない。考えることを放棄して、言われるがまま治療をしてもいけない。そこを間違ったからこそ、エリーは酷い目に遭った。でもそこからくる絶望が、恐怖が、諦観が、目の前の人を救わない理由にはならない。誰かを救いたいという気持ちを止めることもできない。
一人の男性の額がぱっくり割れている。その傷が徐々に塞がっていく。大きな溝が消えていく。誰も止めなかった。
「エリーの気持ちはわかった。でもおれらは止まれない。だからついてきてほしい」
ジャギーの声が言い放つ。そこから苦しみや怒りがにじんでいる。だが迷いだけは感じられなかった。デグローニは今日このときのために生きてきたのだ。
「……わかりました」
デグローニの傷も、グローリーシティ側の傷も治していいということだろう。これで少しでも痛みが減らせる。死んでいく人も減らせる。
ジャギーのあとについて次の爆破地点に向かう。他の三人も何も言わずにエリーを囲んで走り出す。
街の中はどこも変わらない様子だった。建物が崩れ、被害が大きいところでは街を囲う壁が崩壊している。がれきの隙間から、時折人の足や腕が覗いている。体の一部分だけ落ちていることもあった。いやでも前に攫われたときのことが頭に浮かぶ。切り落とされたばかりの腕を治療した。市長の、そしてマホメガの命に従って。
――仲間を、少しでいい。救ってやってくれ。
ガルの言葉を思い出す。今回のエリーはガルの言葉に従って行動している。デグローニ以外も治しているとはいえ、逆らっているわけではない。こうして言われるがまま行動するのは、とても楽だ。相手の望む通り動けば怖くもない。それに誰かが痛みに呻くのを止めたい気持ちもある。だからこの行動は、正しくないわけではない。
腹の中心あたりが蠢いている。嫌な感じだ。気持ち悪くて、胃の中身を吐き出したくなる。この原因はきっと、無惨な傷を見たからではない。
ジャギーの背を見つめる。たくさんの決意を背負ったまま、しゃんと伸ばされている。
このままジャギーについていけば、死人は減らせる。痛みに呻く人も減らせる。でも傷つく人は減らせない。エリーは傷を負った人にしか、癒しを与えられない。
それでは根本的な解決にはならない。ただ従うだけでは何も変わらないのだ。
中央広場の方を見る。エリーたちはグローリーシティの壁に沿って移動しているため、距離は広がらない。次にエリーの周りを見る。四方がっちりと守られている。エリーと違って幼い頃から鍛えられてきた人たちだから勝ち目はない。かといって説得していては時間もなくなってしまう。そもそもデグローニの人々が、簡単に考えを変えてくれるとも思えない。人々を治しながら、好機を願うしかない。
煙が少し薄くなったと思えば、また濃くなってくる。どうやらグローリーシティを囲む壁に沿って爆弾を使用したようだ。突然ジャギーが手を横に出す。その場で全員が止まる。そしてジャギーだけ先に行ってしまった。
「偵察。近くで戦闘の音がする」
背後のコウコが小声で言った。耳を澄ませてみると、確かにがれきが崩れる音に交じっているのが、戦闘の音のようだ。言われなければわからない程度のものだ。
程なくしてジャギーが戻ってくる。真剣な表情でデグローニの面々と見つめ合った後、エリーを見た。
「スラグとコウコが残る。一緒に待っていて」
真面目な表情にそれ以上突っ込む気にもなれず、大人しく頷く。ジャギーとデリカが走り去っていった。
おそらく口で喋るのは最小限にしているのだろう。それなら誰かに聞かれる心配もない。だがそうなるとエリーに伝えられる情報が本当に少なくなる。訓練も受けていないから、どのような策を取ろうとしているのか想像もつかない。心臓が耳元にあるかのようだ。速い鼓動が耳を突き刺す。
指を組み、祈るように目を閉じた。そのすぐあとに肩に手が置かれる。
「目を開けて。見ることをやめたら逃げることも難しくなる」
コウコの声だ。簡潔な言葉はいっそ冷たく聞こえる。だが柔らかな動作で触れた手と、目を開けた先のコウコの目元を見れば、そうではないとわかる。
デグローニの人は冷たい。でもきっと心からのものではない。こうしてエリーを思いやってくれる。同じようにグローリーシティの人だって、真に冷たい人はきっといない。だから双方に生まれる傷を止めたい。
ジャギーとデリカが戻ってきた。小さく頷くのを見て、二人の後につく。路地から通りに出る。そこも先程と同じような場所だった。崩れた街の中に傷ついた人たちがいる。先程と異なるのは敵が既に全員縛られていることだ。
エリーはまずデグローニの集まる場所に行く。バルコニーの下の陰になっている場所に皆はいた。動ける人の数は先程より多いようだ。ジャギーたちが周りを見張る中、重体の人から治す。
「まだの方、一か所に集まってくださいますか」
軽症者が集まる。先程のように全員を包み、治療を試みる。
その瞬間、目の前を何かがかすめた。髪の毛と口布が大きく揺れる。それが何かを判断する前に、誰かに腕を強く引かれた。ジャギーがエリーを柱の陰まで引っ張っていく。その腕からは血が溢れていた。先程の何かはきっと銃弾だったのだ。さっと血の気が引いていく。考える間もなく手をかざした。
「治すな!」
ジャギーの一喝が耳を貫く。思わず手を引く。ジャギーはついてきたデリカと頷き合うと、エリーを守りながら、逆方向へ向かっていく。緊迫した空気で口が開けない。背後の喧騒が遠のいていく。
しばらく逃げたところで、ようやく二人は足を止めた。
「さっきは怒鳴ってごめん。逃げる方が先だったから」
ジャギーはそう言って軽く頭を下げた。そして周囲に警戒の視線を走らせる。
「どうして……」
エリーの声は震えていた。言葉が続かない。それでも勝手に手は動き、ジャギーの傷口に水色の光が灯る。
「待ち伏せ。だから逃げたんだ。おれらはあくまで支援部隊で、戦闘部隊とは別に動かなきゃいけない。エリーの身の安全が第一」
ジャギーの傷はあっという間に完治した。ジャギーが礼を言うように目を細める。
あたりは静かな空気に包まれている。未だ焦げ臭くはあるものの、目立った音は聞こえない。警備隊は先程の場所で食い止めているのだろう。
「コウコさんとスラグさんは先程の場所に?」
「そうだ」
ジャギーがあたりを見張りながら言う。その表情に明らかな感情は浮かんでいない。それでも若干陰ったように見えるのは、気のせいではないはずだ。
今、エリーを守るための人員は二人。ここから逃げ、ガルのところまで行くには絶好のチャンスと言える。だがここで逃げだせば、この戦闘区域の怪我人は治せない。コウコとスラグが残ったということは、きっと相手の方が優勢なのだ。だから必ず、怪我人は出る。
迷いで体が震える。救いたい。全員、救いたい。でも、切り捨てなければ、救えない。
「市長は死んだ!」
その時、グローリーシティ中に響き渡る、大音声が耳を刺した。ガルの声だった。
「我々を駒として扱い、我々を支配していた市長は、死んだんだ!」
ガルの演説。きっと全員が聞いている。
エリーの脳内に恐ろしいイメージが駆け巡る。ガルの演説で抑圧されていた市民に火が付く。グローリーシティ側につく人間は全員殺される。人々の叫び、憎しみ、涙、怒り。そこに跋扈する感情は、嬉しいものではない。
止めたい。
強く思った。ずっと胸に浮かんでいた感情が、熱を帯び、膨らんでいく。エリーの決意は、ここで完全に固まった。
エリーは脱兎のごとく駆けだした。ガルの演説に気を取られていたジャギーとデリカの反応が遅れる。二人がついてきているのはわかったが、少なくともエリーは先手を取れた。グローリーシティの人のように訓練を受けているわけではない。だがモエギ族の森は、グローリーシティのように整備されていない。美しく均整の取れた街を駆け抜けるのは造作もなかった。
グローリーシティの中心に向かって、ひたすら脚を動かす。エリーの向かう方はデグローニの手が回っていないらしく、壊れたところはなかった。似たような高い建物が立ち並び、どの通りも垂直、平行に描かれている。
そこをがむしゃらにまっすぐ駆け抜けていくエリー。地の利は当然だが、デグローニにあった。
突然目の前にジャギーが現れた。どうやら路地を使って来たようだ。
「エリー、どこへ行く」
手首を掴まれ、きつい表情で睨まれる。目元しか見えないが、ジャギーが怒っていることはわかる。身がすくむ。
「私はこの争いを、止めたいです」
ここで恐怖に負け、動くことをやめれば何も変わらない。
誰かにとっての正しいではなく、自分にとっての正しいを探さねばならない。
「おれらの悲願を止めるってこと?」
「このままじゃ、たくさんの人が死にます。私は……そんな悲劇を見たくない」
ジャギーの厳しい口調に言葉を返す。エリーの声は澄んでいて、穏やかだった。デリカが追い付いて、エリーの背後を取った。
「そんなの本当の辛さを知らない人の詭弁だよ」
手首を掴む力が強まる。エリーは表情を動かさなかった。草原で風を受ける花のような瞳で、ジャギーを見つめる。
「そうかもしれません。私はデグローニの皆さんの過去を見ていない。コウコさんの悲しみも、デリカさんの辛さも、何も知らない。ジャギーさんの過去だって知らない。でもこのままでは血が流れ続けることはわかります。誰かを殺し、憎しみが生まれる。また殺して、憎しみも。それではきっとどこにも進めない」
「誰もがエリーみたいに赦せるわけじゃない。だからみんなデグローニに」
ジャギーが突然エリーの体に覆いかぶさる。地面に叩きつけられ、一瞬目の前が白む。デリカがその場を離れる。すぐあとに発砲音が聞こえた。ジャギーはその間、ずっとエリーに覆いかぶさっていた。
しばし戦闘の音が聞こえ、やがて静かになった。ジャギーが体を起こし、エリーもやっと動けるようになる。辺りを見る。デリカが一人の警備兵を縛っているところだった。どうやら死んではいないらしい。警備兵は腹のあたりから血を流している。デリカは頬が切れ、太ももの部分の服が裂けていた。エリーは二人に近寄っていく。
デリカの頬に手をかざす。
「そのまま」
身構えたデリカに言うと、大人しく縛る作業を再開した。頬の傷は一瞬で治る。脚の傷は深い。傷の深いところに神経を集中する。汗が首筋を伝う。抉れた肉がくっついていき、切れた神経もつながる。皮膚が閉じられ、血は止まり、残ったのは破れた服と血の跡だけだ。
「動かせますか?」
「……ああ。動かせる」
デリカは迷ったようだが、小さな声で言った。高く柔らかな声だった。エリーはその返答に安心して笑顔を浮かべると、警備兵の傷の手当てをする。
ジャギーが辺りを調べ終え、戻ってきた頃には治療は完了していた。
「……デリカを放っていけばよかったのに」
ジャギーは何とも言えない表情をしていた。
「そうですよね。でも、目の前にいたから」
怪我人が視界に入るか否か。それだけで区別している今の状態の狡さには気づいている。本当は胸のあたりが押しつぶされたように痛んでいる。でも止まらない。もう進むべき道は決めた。
「……エリーは優しいね。でもおれは仲間を裏切れない」
続いて放たれた言葉は至極当然のものだ。エリーが凄惨な争いを止めたいように、デグローニは仲間のためにグローリーシティを変えたい。説得を諦めてはならないと顔を上げ、視界に映った光景に口をポカンと開けてしまう。口布があってよかった。そう思うほどまぬけな表情だったろう。
ジャギーはなぜかエリーに背を向けている。デリカはその場に座り、包帯を取り出した。ジャギーがそれを受け取り、先程デリカが傷を負った太ももに巻き始める。
「ただこんな格好じゃデリカが危ない。傷はないけど念のためね」
これはまるで逃げろと言っているかのようだ。でもジャギーは仲間を裏切れないと言った。
その場に立ち尽くすエリーを見て、デリカがため息を吐いた。口布が小さく揺れる。
「これが終わったら追うぞ」
綺麗な声をした女性は、ぶっきらぼうに言った。照れ隠しなのかエリーを鋭く睨んでくる。恐怖は感じなかった。今度こそエリーは駆けだした。
二人の優しさをまとい、ただただ走った。
〇 ● 〇
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