さく、さく、と小さな音が森に響く。昼間だというのにやけに静かに感じられ、足音がよく響く。虫も鳥も、今日は会話をやめていた。

 ここのところ密かに一人で森に通っているが、こんなことは初めてだ。吉兆だといいのだが。

 リンヤはあたりを見回し、その姿を青磁色の瞳に焼き付ける。土臭い香り。風のささやき。木漏れ日。隙間から覗く青空。ソウやエリーと過ごした森だ。期間としては短かったが、感覚としては随分と長く思える。くだらないことで笑い合い、人類以外の英知を知り、森と時間を重ねた。そんな日々が、最近頭をよぎる。

 リンヤにとってあの時間は、もしかしたら価値のあるものだったのかもしれない。たとえそうだとしても、あの二人とリンヤは違う。

 足を止め、掌を見つめる。この手は血に濡れている。訓練ではなく、自らの意志で人を刺した。ナイフが肉塊を貫き、進んでいく。硬い部分に当たれば角度を変え、奥深くを目指す。血が噴き出してくる。顔に血しぶきがつき、思わず目を瞑る。次に目を開けるときには、市長の表情は不自然に歪んでいる。市長の体が強張る。市長は、笑った。うまく動かない筋肉を使って、笑った。やっと訪れた死に、安堵したように見えた。憎しみをぶつけた結果が、救いになってしまった。それは小さなシミのようにリンヤの心の片隅に居座っている。

 まだ何も変わっていない。

「清々しい顔……しやがって……」

 全てが終わったあとのソウの表情を思い出す。全員ぼろぼろだったが、ソウは何か決意したような、つきものが落ちた顔をしていた。リンヤと違って、作り物ではない。本心から来た表情だ。

 ソウは変わった。ソウは前に進んでいる。

 物思いにふけっていると、草を踏む音がした。瞬時に警戒心を呼び覚まし、近くの木立に音もなく隠れる。音の出所は、なんと運がいいのだろうか、エリーだった。リンヤには気づかず森の奥へ向かう。

「エリー」

 何気ない風を装って手を上げる。エリーはびくりと体を震わせ、それから振り返った。

 エリーがよく薬草を摘みに来る場所の近くだった。オババが警戒することを念頭に入れ、集落の近くの採集場所を目指していたら、案の定現れた。気配を探る。オババは近くにいない。

「今日も薬草摘み?」

 問いかけるとエリーは焦ったように視線を巡らせ、気まずそうな表情をした。きっともうソウとリンヤには会わないと約束でもしたのだろう。本当にわかりやすい。

 エリーはそっと口元に人差し指を当てた。

「あのね、オババには内緒なの」

 とりあえず一旦は会話を続けることにしたようだ。だからエリーは付け込まれる。

「どうして?」

 怪訝な表情で問い返し、さりげなく集落と反対方向へいざなう。エリーは素直に歩き出す。

「……集落の人があまり持っていない薬草が必要で、仕方なく」

「そうだったんだ」

 どうやら吉兆だったらしい。いい時にエリーに出会うことができた。

「あのさ、エリー」

 足を止め、エリーを見つめる。丸い瞳がリンヤを見つめている。純粋で穢れのない瞳だ。マホメガの真実を知ってもなお、高潔のままだ。美しく前に進んでいく力がある。

 思わず舌打ちをしたくなる。それを吐息に変え、口を開いた。

「会わせたい人がいる……って言ったら、もう一度シティに、来る?」

 神妙な声音で言うと、エリーは目を見開いた。瞳孔までよく見える。

「それは……マホ、メガ……?」

 エリーの問いにリンヤは何も返さなかった。ただエリーを見つめ、真面目な表情を崩さなかっただけだ。

「マホメガ……」

 エリーは勝手にそれを肯定と捉え、唇に手を当てる。

 そもそもエリーはマホメガに裏切られたのだ。普通なら消し去りたい記憶だろう。だがエリーの中にはマホメガが深く根付いている。そしてエリーは他人からの願いを断るのが非常に苦手な部類だ。

 忙しなく視線を移動させるエリーを見つめ続けた。表情はぴくりとも動かさない。今自分は多くのグローリーシティの人間と似たような表情なのだろうと思うと、虫唾が走った。それすらも表には出さない。結局リンヤはグローリーシティで育ってきた。それは変えられない事実だ。そしてグローリーシティに両親を殺された。それも変えられない事実だ。

「あの……」

「ん?」

 エリーがそっと声を出す。視線はまだ定まらない。すいっと集落のある方へ、目が向かう。目の動きに連動して、顔もそちらを向いた。エリーの瞳が揺れる。その唇が噛みしめられた。若紫色が濃く、強く、光る。

 エリーもソウと同じだ。

「ごめん」

 エリーがリンヤを見る。

「もうグローリーシティには、行かない」

 エリーが柔らかく微笑んだ。

「マホメガは大事な友達だった。裏切られても、どこか情を持っている自分がいるんだ。でもね、二回も、わがままな子供じゃ、だめだなって思うの」

 エリーも変わっていく。

 リンヤはその表情を静かに見つめた。そしてまぶたをおろす。口角を上げて、歯を見せる。

「そっか。なら、仕方ないな」

 エリーはリンヤの返答に安堵した顔を見せる。素早くその背後に回り、首に手刀を叩きこんだ。一瞬にしてエリーの体が頽れていく。

 どうして。

 エリーはそう思っただろう。そんなエリーの感情もリンヤには関係ない。

 エリーの体を倒れる前に受け止め、背負う。そして一人きりの道を歩き出した。


               〇 ● 〇

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