「……リンヤが、存在を消された。だからここに来た」



 オババと視線が合わなかった。膝の上に置かれた手に欠陥が浮いている。風が吹き、葉が一枚落ちてくる。オババはそれを簡単に掴み取り、まるで煙管の煙を吐き出すかのように息を吹いた。一枚の葉は頼りなく宙を舞う。

「今のお前は、グローリーシティに作られる数々の人間よりましだ。だがのう、仲間に対する情というものは、見てみぬふりのためにあるのではない」

 しばらくの沈黙の後、オババが言った。その言葉が形を持って、体中を走り抜けていく。感情が大きくなるたびに、誰かへの想いを抱けるようになるたびに、脚が止まりかけることを知った。初めての感情はソウに強く訴えかける。そこから逃げようとしていたと、オババの言葉で気づく。否、きっとオババにその現実を突きつけてほしかったのだ。

 だから向き合わねばならない。リンヤは裏切っているという予測に。

 息を吐きだし、気を引き締める。

「リンヤが消され、俺は消されないという状況は、明らかにおかしい。僅かでも反抗の意志を持っているなら、能力があっても消すのがシティだ。だから何らかの利用価値のために、俺も、リンヤも生かされている。そして……エリーも」

 オババはソウの話にじっと耳を傾けていた。その視線を真っ向から受け止める。

「俺は時の力、エリーは癒しの力。残るリンヤはそもそもマホメガの仲間。そう考えれば、色々とつじつまが合う。何かとスムーズに事が運んでいたことも説明がつく。そしてあの場で俺の力を目覚めさせた。それが何を意味するのかまではわからないが」

「ソウとエリーがこの場に今、戻ってこれたことは何を意味する?」

 オババの洞察力に舌を巻く。普段モエギ族の集落から出ることなく、今回の騒動もそれぞれの人間から断片しか聞いていないだろうに、オババはまるで全て見聞きしたかのようだ。かつての威光が透けて見える。

「エリーはおそらく、反シティ組織に与えられるためだ。帰ってきたときエリーがそばにいなければ俺が怪しむため、一旦戻した。そして俺は……正直、わからない。ただ全てマホメガの思惑通りに進んでいる気がしている」

 マホメガの空色の瞳が、常にこちらを見ている。小さな人間が必死に考え、駆けまわり、あがく様を、遥か高みから見下ろしている。そんな気がしてならない。リンヤもマホメガの隣に立っているわけではなく、あくまであのユニコーンの駒の一つ。思えばマホメガと出会ったときからずっと、嫌な感情が胸の内にくすぶっていた。それが今やはっきり形がわかるまでになっている。

 ソウとリンヤとエリー。全員が危険な状況にあることは変わらない。ソウにとっては二人とも大切な存在だ。いつの間にかそうなっていた。

 地面にまばらに草が生えている。一か所にかたまって生えてはいない。唇を噛みしめ、俯いていた顔を上げる。オババの瞳には諦観の色が微かに見えた。

「エリーがさらわれると、なぜ思う?」

 その声は落ち着いている。この老婆には、どれだけ先が見えているのだろう。

「俺たちは反シティ組織から武器を借りた。その時、あっさり承諾された」

 オババが頷く。それは今の言葉への返事として、些かそぐわないものだ。馬鹿ではないと自覚はあるが、この人の前では自分自身が随分と矮小な人間に感じる。

「オババ、エリーを頼む。俺はリンヤを助けに……いいや、リンヤに会いに行く」

 二人の内、より危険なのは誰か。二人の能力を総合的に見て、どちらの方がより使えるか。そういった視点を失ったわけではない。しかし今は、冷静な判断ではなく、感情に従っている。本当にリンヤが裏切っていたなら、その真意が知りたい。共に過ごした時間は全て嘘だったのか。あの笑顔と同じように、作り物だったのか。リンヤの抱える闇や憎しみは、どれほどなのか。ソウは何も知らない。だからもう一度会いに行く。

 そしてこの選択はひとえに、エリーを見捨てるということでもある。

「あいわかった」

 耳から入ってくる力強い返事。脳の声とは違う。ずっと人間として生きてきた人の、声だ。

 オババが立ち上がる。骨と皮だけの脚が巻衣の裾で隠される。小さく頼りなげな姿でも、その背筋は伸びていた。一方で、その指先が僅かに震えているのも見て取れる。

 ソウはオババの前にしゃがむ。

「一人で帰れるわ」

 先程の返事とは打って変わって厳しい声音で返される。

「孫の気分を味わいたいんだ」

 ソウの口元に自然と笑みが浮かぶ。そのまま何も言わず、辛抱強く待っていると、諦めたのかオババはソウの背に体重を預ける。その腕が首にしっかり回るのを確認してから立ち上がる。まるで何も背負っていないかのように軽かった。

 多くの者を支え、モエギ族を守り、エリーやソウを想う。そんな人間の命の灯は、消えかけている。

 ソウの祖母は、消えかけている。

 会話をしているだけでは、そんな風には見えない。だが一歩一歩、死は近づいてきているのだ。

 ソウは背を揺らさぬよう歩き出す。行ったのはたった数回でも、集落までの道はつぶさに覚えている。

 静かな夜だった。時折鳥の声が遠く響いてくるだけだ。それ以外の音は、森の木々が吸い取ってしまったのだろう。漏れ出る月明りを頼りに、その歩みを進める。

「こうして相まみえることでしか、連絡が取れんのは不便だな」

 しばらくしてオババが沈黙を破る。珍しく小さな頼りない声だった。軽く背を揺らし、その体を背負いなおす。弱い吐息が首筋に感じられる。

「不便だからこそ、相手をより大切に想えるんじゃないか」

 思ったままを口にする。首に回るオババの手は、何も動かなかった。

「知らぬ間に随分人間らしくなりおって」

 一呼吸の間を置いて、オババはそう吐き捨てた。口元にのぼる笑みと、月明りに見守られ、残りの道のりをゆっくりたどった。

 集落の家々が見えてきたところでオババを背から下ろす。集落には人影もなければ、誰かが起きている様子もない。オババは細い脚で立ち、しっかりとした足取りで家へ向かう。

「のう、ソウよ」

「なんだ」

 オババはソウに背を向けたまま立ち止まる。

「仲間に対する情は、仲間を守るために抱け。ヒトとは、そういうものだ」

 そう言って、オババは再び歩き出した。

(ああ、わかった。オババ)

 最後の教えを胸に刻み込む。ソウの返事は、きっとオババにも聞こえたことだろう。






 何事もなくグローリーシティに帰り着き、家の鍵を開け、一歩踏み込む。後ろ手にドアを閉めたところで、詰めていた息が口から漏れ出た。訓練で慣れたこととはいえ、実際に監視の目をかいくぐるのは、思っている以上に疲労するのだろう。

 家の中は暗く、静まり返っていた。廊下の先にあるリーヴルの部屋からは光が漏れていない。

 どうやら今日は泣いていないらしい。ソウは幼い頃から、泣く母の姿を密かに見ていた。その胸に抱かれているのが父の写真だと、いつしか気づいた。

 その涙にこめられた複雑な思いが、今ならわかる。ただ父を失った悲しみをぶつけていたわけではないのだ。口数が少なく、毎日骨身を惜しんで働いている。これも哀しみを紛らわすためでもあり、グローリーシティの本質を知っていたからこそでもあろう。

 ソウはリーヴルの部屋のドアから視線を逸らし、向かいの部屋のドアノブに手を掛ける。

(ソウ)

 リーヴルがドアを開ける。背後からの声に驚きはなかった。足音が聞こえていたからだ。少し去るのが遅れてしまった。

(ただいま、母さん)

 振り返り、小さな小さな笑みを作る。母も同じような笑みを作った。そこにモエギ族の血が流れているようには見えない。

 リーヴルは二度、三度あたりに視線をやり、少し考えてから口を開いた。

(最近、帰りが遅いね)

 目元にはしわが刻まれ、拭いようのない疲労がその表情には見える。よそから来た人間と仲良くなってしまうほどだ。本来なら人当たりのいい明るい人なのだろう。しかし今の姿からはその様子は窺えない。

(卒業が近いから、遅くまで自主練することも増えてきたんだ)

 リーヴルはこともなげに言うソウを見て、それからソウの胸元に視線を移す。全て異なるデザインのバッジが五つ並んでいる。

 元より言い訳がリーヴルに通じるとは思っていない。バシリアスから逃れた日は、そもそも家に帰っていないのだ。ソウの行動の異常さは当然気づいている。それでも、母は巻き込みたくない。どこを取っても、母に罪はないようにしなければならない。

 リーヴルの瞳は一瞬揺れた。それからソウの顔を見る。

(……私は、いつも違うバッジをつけて帰ってくる、ソウが好きだな)

 弱々しいその声に、胸が締め付けられる。

(ああ。これからもそうする)

 そう言ってソウは自室に姿を消した。


               〇 ● 〇

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