第6章 代償
1
リンヤが市長を刺している。奪ったナイフを振りかぶり、市長の腹めがけて突き刺す。抜いて、また刺す。臓物が飛び出す。血が溢れる。床が真っ赤に染まっていく。
リンヤはそれでも刺し続ける。薄く笑い、残虐な行為を楽しんでいる。
グローリーシティの人間とは違う。命令があれば殺す。訓練で死刑囚を殺す。リンヤの行為はそれらとは異なる。ソウが知った温かな人間たちとも違う。
――やめろ!
声が、出なかった。喉が塞がれている。脳で声をかければいい。そう思ったが、やり方がわからなかった。生まれた瞬間からずっと使ってきたはずのその能力が、まるで初めて見るもののように感じる。
どうすればいいかわからない。焦りが喉元をせりあがってくる。息が詰まる。
――リンヤ! リンヤ!
叫ぶ。声にならない声で、叫ぶ。
それに応えるかのように、熱を感じた。額が温かい。その熱に引かれ、ソウは浮上した。
目を開ける。最初に視界に入ったのは、木だった。緑豊かに葉を茂らせ、空を覆い隠している。木々の隙間から夜明けの空が見えた。藍色が柔らかく照らされ、その色を変えていっている。
「こ、こは……?」
隣にいるであろうリンヤに声をかけた。
「モエギ族の森」
リンヤはソウの額を撫でながら、静かに答えた。膝を立てて座り、前方を見つめている。
「もう、大丈夫だ」
答えた声は掠れていた。リンヤの手が離れていく。
「嫌な夢?」
「……そうだな。すごく、嫌な夢」
全てを終えた何とも言えない侘しさと、全身のけだるさに体を起こす気力が湧かなかった。腹の上で指を組み、息を吸う。
「傷はまだ痛む?」
「いや……」
リンヤが背中の後ろに手を付き、背を反らす。その指が地面を削り、ふわりと土が香った。それを胸いっぱいに吸い込み、目を閉じる。
「リンヤは怪我してないか」
「大丈夫。今回怪我したのはソウくんだけー」
リンヤの勢いのないおふざけに、力のない笑いが漏れる。
「参ったな……」
「『九代のソウ』くんの威厳が危ういって?」
「そんなこと思うわけないだろう」
「余裕だねぇ」
ぽつり、ぽつりと言葉を漏らす。真綿に包まれた言葉を交換し合い、二人とも迂回路を探っている。
どこかよそよそしく、初々しい音の連なりは、ソウの心を撫でさする。
「……助けてくれて、ありがと」
リンヤの小さな声が、森に落ちた。
きっとそれは、庇ったときだけを差しているのではないのだろう。凝縮された言葉に、何を返せばいいかわからない。
そのまましばらく黙っていた。リンヤは前を見つめ、ソウは目を閉じ、互いの呼吸を聞いていた。穏やかな時が流れていく。
ピィィー……ッと、頭上で鳥が長く鳴いた。朝を告げるために飛んでいく。森が目覚める。
目を開けると、黎明に彩られる空が見えた。
「市長は、どうした」
依然として流れる空気は穏やかだった。
「殺したよ」
普段と変わらないリンヤの声が聞こえた。
「気分は……晴れたか」
わずかに顔を倒して、リンヤを見る。
「何も。何も変わんないよ」
リンヤが眩しそうに目を細めた。ふとソウの方を見て、笑う。へたくそで、人間臭い笑みだった。今まで見たリンヤの笑顔の中で、一番自然だ。
その姿が遠くなる。そんな錯覚をする。
「リンッ……」
「ん……」
エリーの声がする。リンヤの向こうに寝かされているエリーが小さく身じろぎしていた。
体を起こす。強張った体が無理やり伸ばされ、呻きが漏れた。
「ジジイみたい」
「疲れたんだ。お前を庇って、怪我もした」
軽く背を叩かれる。それに緩く笑んで、エリーのもとへ向かう。痛々しいほどやつれたエリーは、ゆっくりとその双眸を見せた。若紫色がぼんやりと宙を見る。エリーの顔を覗き込む。エリーの瞳がソウとリンヤを捉える。
小さく寄せられる眉。そこに宿るのは怒りや嫌悪ではなく、哀しみだ。
「ここは?」
その表情のままエリーは言った。体を起こす。その動きからしてやはり怪我はないようだ。
「モエギ族の森」
ソウの時と全く同じ返答をするリンヤ。エリーの目に少しだけ光が灯る。
「帰ってきたんだ。やっと……」
自分に言い聞かせるような言葉に、ソウの胸が勝手に痛む。
「俺とマホメガで、二人をここまで運んだんだ」
マホメガの部分でエリーの顔が曇る。逡巡を見せたあと、口を開く。
「マホメガはもう、ここには……?」
「わからない。でもたぶん、そう。もう互いに干渉しない。そうすれば危害も加えないって」
「そっか……」
エリーが唇を引き結ぶ。多くを失い、今その手の中には何も残っていない。周囲の者から疎まれ生きてきたエリーが、やっと手に入れたつながりは、消えてしまった。それには少なからず、ソウたちも関わっている。
「エリー。すまなかった」
エリーがソウを見上げる。その目元が歪む。エリーは隠すように俯いた。
「ソウたちは、なんで?」
やっと絞り出された声は微かに震えていた。
「グローリーシティにクーデターを起こそうとしていた。あの巨大な都市に立ち向かうには、少しでも多くの力がいる。そこでモエギ族にも接触を試みた」
エリーがしっかり聞き取れるよう、ゆっくり声を出した。エリーの膝の上の手が、拳を作る。強大な力を使うその手は、随分と華奢で小さい。
「あの日、エリーは一人で集落の外に出たろう。だから声をかけやすかったんだ。傷を治す優しさがあるか。警戒心はいかほどか。その力はどの程度のものか。色々測るために、自ら腕を切った。マホメガの言う通りだ」
「でも切り捨てずにエリーを助けに行くと決めたのもソウだ」
「リンヤ。そういうのはいい」
隣を睨むと、リンヤは肩をすくめた。
たとえ本心でエリーを助けようとしたところで、犯した罪は何も変わらない。己が過去から目を逸らしてはならない。それも紛れもない自分自身で、この体の中から消えてはくれない。
エリーは何も言わない。俯いたまま、動かない。ソウはその姿を見つめ続けた。
「……わかってるよ」
しばらくしてエリーが言った。
「最初は、クーデターのために近づいたのかもしれない。でも、傷つきながら、私の元まで来てくれた。市長室で私を守ろうとしてくれた。それも、わかってる」
その視線がリンヤとソウを順に辿る。その口元には笑みが浮かんでいたけれど、深い葛藤が見えた。
いっそ切り捨ててくれたらどれだけよかったか。そう思っているのかもしれない。エリーにとってはその方が、よかったのかもしれない。
口を開く。気の利いた言葉は何も思いつかない。
「色々と悪かった、エリー。でも、もうやめるよ。シティに復讐なんて」
驚いてリンヤを見る。ソウを誘ったあの瞬間の闇。デグローニの中にいるリンヤ。市長室で見せた溢れ出す憎悪。きっとリンヤの人生は復讐のためにあったはずだ。それをあっさりやめるなど、言えるのだろうか。
リンヤの瞳は真摯な光を宿しているように見えた。ソウの疑いなど塵と消えるようなものだ。その表情にためらいも、迷いも見て取れない。
――何も。何も変わんないよ。
先程のリンヤの言葉が頭に浮かぶ。
市長を手にかけて、やっとわかったのかもしれない。復讐をしたところで何も生まない。そしてグローリーシティを潰しても、何も変わらない。
ソウだって、愚かだった。誘われるままに作戦にのり、故郷を消そうとした。確かにあの都市は狂っている。それを正しい方向に向かわせることができれば、きっと多くの人が幸せになる。だがそれに必要なのは破壊でも、暴力でも、クーデターでもない。それがわからない子供だったのだ。
破壊が生むのは憎しみだ。グローリーシティを壊せば、リンヤのような、デグローニの人々のような人間が、また生まれる。リンヤがあの時あらわにした憎悪を、今度はソウたちが受けるのだ。
「そうだな。それがいい……」
風が吹く。誘われるように顔を上げる。眩しい朝日が世界を包み込んでいく。
風がそよぎ、木々が歌い、生き物が駆け回る。豊かな大地に、人々は生きている。自然に生きている。いつかグローリーシティも、そうなったらいい。内側から、変えていけばいい。それがきっと本来の姿なのだ。
心に爽やかな風が吹き、心地いい空気で満たされるような感覚がある。このままの気持ちで、壁の内側に入りたかった。そっとエリーの方を見る。
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