第6章 代償

 リンヤが市長を刺している。奪ったナイフを振りかぶり、市長の腹めがけて突き刺す。抜いて、また刺す。臓物が飛び出す。血が溢れる。床が真っ赤に染まっていく。

 リンヤはそれでも刺し続ける。薄く笑い、残虐な行為を楽しんでいる。

 グローリーシティの人間とは違う。命令があれば殺す。訓練で死刑囚を殺す。リンヤの行為はそれらとは異なる。ソウが知った温かな人間たちとも違う。

 ――やめろ!

 声が、出なかった。喉が塞がれている。脳で声をかければいい。そう思ったが、やり方がわからなかった。生まれた瞬間からずっと使ってきたはずのその能力が、まるで初めて見るもののように感じる。

 どうすればいいかわからない。焦りが喉元をせりあがってくる。息が詰まる。

 ――リンヤ! リンヤ!

 叫ぶ。声にならない声で、叫ぶ。

 それに応えるかのように、熱を感じた。額が温かい。その熱に引かれ、ソウは浮上した。

 目を開ける。最初に視界に入ったのは、木だった。緑豊かに葉を茂らせ、空を覆い隠している。木々の隙間から夜明けの空が見えた。藍色が柔らかく照らされ、その色を変えていっている。

「こ、こは……?」

 隣にいるであろうリンヤに声をかけた。

「モエギ族の森」

 リンヤはソウの額を撫でながら、静かに答えた。膝を立てて座り、前方を見つめている。

「もう、大丈夫だ」

 答えた声は掠れていた。リンヤの手が離れていく。

「嫌な夢?」

「……そうだな。すごく、嫌な夢」

 全てを終えた何とも言えない侘しさと、全身のけだるさに体を起こす気力が湧かなかった。腹の上で指を組み、息を吸う。

「傷はまだ痛む?」

「いや……」

 リンヤが背中の後ろに手を付き、背を反らす。その指が地面を削り、ふわりと土が香った。それを胸いっぱいに吸い込み、目を閉じる。

「リンヤは怪我してないか」

「大丈夫。今回怪我したのはソウくんだけー」

 リンヤの勢いのないおふざけに、力のない笑いが漏れる。

「参ったな……」

「『九代のソウ』くんの威厳が危ういって?」

「そんなこと思うわけないだろう」

「余裕だねぇ」

 ぽつり、ぽつりと言葉を漏らす。真綿に包まれた言葉を交換し合い、二人とも迂回路を探っている。

 どこかよそよそしく、初々しい音の連なりは、ソウの心を撫でさする。

「……助けてくれて、ありがと」

 リンヤの小さな声が、森に落ちた。

 きっとそれは、庇ったときだけを差しているのではないのだろう。凝縮された言葉に、何を返せばいいかわからない。

 そのまましばらく黙っていた。リンヤは前を見つめ、ソウは目を閉じ、互いの呼吸を聞いていた。穏やかな時が流れていく。

 ピィィー……ッと、頭上で鳥が長く鳴いた。朝を告げるために飛んでいく。森が目覚める。

 目を開けると、黎明に彩られる空が見えた。

「市長は、どうした」

 依然として流れる空気は穏やかだった。

「殺したよ」

 普段と変わらないリンヤの声が聞こえた。

「気分は……晴れたか」

 わずかに顔を倒して、リンヤを見る。

「何も。何も変わんないよ」

 リンヤが眩しそうに目を細めた。ふとソウの方を見て、笑う。へたくそで、人間臭い笑みだった。今まで見たリンヤの笑顔の中で、一番自然だ。

 その姿が遠くなる。そんな錯覚をする。

「リンッ……」

「ん……」

 エリーの声がする。リンヤの向こうに寝かされているエリーが小さく身じろぎしていた。

 体を起こす。強張った体が無理やり伸ばされ、呻きが漏れた。

「ジジイみたい」

「疲れたんだ。お前を庇って、怪我もした」

 軽く背を叩かれる。それに緩く笑んで、エリーのもとへ向かう。痛々しいほどやつれたエリーは、ゆっくりとその双眸を見せた。若紫色がぼんやりと宙を見る。エリーの顔を覗き込む。エリーの瞳がソウとリンヤを捉える。

 小さく寄せられる眉。そこに宿るのは怒りや嫌悪ではなく、哀しみだ。

「ここは?」

 その表情のままエリーは言った。体を起こす。その動きからしてやはり怪我はないようだ。

「モエギ族の森」

 ソウの時と全く同じ返答をするリンヤ。エリーの目に少しだけ光が灯る。

「帰ってきたんだ。やっと……」

 自分に言い聞かせるような言葉に、ソウの胸が勝手に痛む。

「俺とマホメガで、二人をここまで運んだんだ」

 マホメガの部分でエリーの顔が曇る。逡巡を見せたあと、口を開く。

「マホメガはもう、ここには……?」

「わからない。でもたぶん、そう。もう互いに干渉しない。そうすれば危害も加えないって」

「そっか……」

 エリーが唇を引き結ぶ。多くを失い、今その手の中には何も残っていない。周囲の者から疎まれ生きてきたエリーが、やっと手に入れたつながりは、消えてしまった。それには少なからず、ソウたちも関わっている。

「エリー。すまなかった」

 エリーがソウを見上げる。その目元が歪む。エリーは隠すように俯いた。

「ソウたちは、なんで?」

 やっと絞り出された声は微かに震えていた。

「グローリーシティにクーデターを起こそうとしていた。あの巨大な都市に立ち向かうには、少しでも多くの力がいる。そこでモエギ族にも接触を試みた」

 エリーがしっかり聞き取れるよう、ゆっくり声を出した。エリーの膝の上の手が、拳を作る。強大な力を使うその手は、随分と華奢で小さい。

「あの日、エリーは一人で集落の外に出たろう。だから声をかけやすかったんだ。傷を治す優しさがあるか。警戒心はいかほどか。その力はどの程度のものか。色々測るために、自ら腕を切った。マホメガの言う通りだ」

「でも切り捨てずにエリーを助けに行くと決めたのもソウだ」

「リンヤ。そういうのはいい」

 隣を睨むと、リンヤは肩をすくめた。

 たとえ本心でエリーを助けようとしたところで、犯した罪は何も変わらない。己が過去から目を逸らしてはならない。それも紛れもない自分自身で、この体の中から消えてはくれない。

 エリーは何も言わない。俯いたまま、動かない。ソウはその姿を見つめ続けた。

「……わかってるよ」

 しばらくしてエリーが言った。

「最初は、クーデターのために近づいたのかもしれない。でも、傷つきながら、私の元まで来てくれた。市長室で私を守ろうとしてくれた。それも、わかってる」

 その視線がリンヤとソウを順に辿る。その口元には笑みが浮かんでいたけれど、深い葛藤が見えた。

 いっそ切り捨ててくれたらどれだけよかったか。そう思っているのかもしれない。エリーにとってはその方が、よかったのかもしれない。

 口を開く。気の利いた言葉は何も思いつかない。

「色々と悪かった、エリー。でも、もうやめるよ。シティに復讐なんて」

 驚いてリンヤを見る。ソウを誘ったあの瞬間の闇。デグローニの中にいるリンヤ。市長室で見せた溢れ出す憎悪。きっとリンヤの人生は復讐のためにあったはずだ。それをあっさりやめるなど、言えるのだろうか。

 リンヤの瞳は真摯な光を宿しているように見えた。ソウの疑いなど塵と消えるようなものだ。その表情にためらいも、迷いも見て取れない。

――何も。何も変わんないよ。

 先程のリンヤの言葉が頭に浮かぶ。

 市長を手にかけて、やっとわかったのかもしれない。復讐をしたところで何も生まない。そしてグローリーシティを潰しても、何も変わらない。

 ソウだって、愚かだった。誘われるままに作戦にのり、故郷を消そうとした。確かにあの都市は狂っている。それを正しい方向に向かわせることができれば、きっと多くの人が幸せになる。だがそれに必要なのは破壊でも、暴力でも、クーデターでもない。それがわからない子供だったのだ。

 破壊が生むのは憎しみだ。グローリーシティを壊せば、リンヤのような、デグローニの人々のような人間が、また生まれる。リンヤがあの時あらわにした憎悪を、今度はソウたちが受けるのだ。

「そうだな。それがいい……」

 風が吹く。誘われるように顔を上げる。眩しい朝日が世界を包み込んでいく。

 風がそよぎ、木々が歌い、生き物が駆け回る。豊かな大地に、人々は生きている。自然に生きている。いつかグローリーシティも、そうなったらいい。内側から、変えていけばいい。それがきっと本来の姿なのだ。

 心に爽やかな風が吹き、心地いい空気で満たされるような感覚がある。このままの気持ちで、壁の内側に入りたかった。そっとエリーの方を見る。


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